研究会・出張報告(2009年度)

   研究会

日時:2009年7月4日(土)14:30-18:00
会場:上智大学四谷キャンパス2号館6階630A会議室

報告:
1.松本ますみ(敬和学園大学)
 「佐久間貞次郎の「回光」と上海ムスリム:1920年代中国イスラーム新文化運動の一側面」
2.小林寧子(南山大学)
 「戦前日本の対イスラーム政策と「南洋の回教」:1930年代のインドネシア・ムスリムの対日認識」

討論者:
1.重親千左子(兵庫大学非常勤講師)
2.小村明子(上智大学大学院)

報告:
 松本氏からは、(1)中国大陸で対回工作に携わった佐久間貞次郎の思想と活動、(2)上海におけるムスリムの実態、の2つの問題に関して、特に1920年代の動態を中心に報告がなされた。佐久間貞次郎(1886-1979)という人物は、漢文私塾でのみ教育を受けたにもかかわらず、日本語はもちろんのこと中国語・英語にも精通していた。彼は、日本国内で新聞記者として就労した後に中国へと渡り、辛亥革命にも賛同していた支那浪人である。また、その後ユーラシア大陸を漫遊したという記録もある。1920年に上海でイスラームへと改宗した佐久間は、1923年に山岡光太郎、クルバンガリーらと社団「光社」を結成、満鉄理事松岡洋右の暗黙の承認のもと、ユーラシアイスラーム勢力の日本の下での結集を呼びかける運動を行なっていた。1924年に佐久間は雑誌『回光』を上海で発刊した。そして、中国大陸における日本の軍事的・文化的優越をバックに対回工作の鍵を握る重要な人物として頭角を現していったが、1925年の反帝国主義・反日運動のうねりの中で上海から追放されている。松本氏は本発表において、上記の2点を明らかにするため、「光社章程」と『回光』の記述を手がかりに佐久間の目指した運動の顛末と、それが上海ムスリムへ与えた衝撃、およびその結果加速させられた中国新文化イスラーム運動の発展を追った。それによって日本人主導のイスラーム運動に対する上海ムスリムの眼差しを分析した。
 第一に、松本氏は『回光』における佐久間の多数の論考から、幾つかの特徴を浮き彫りにした。重要な点を抜粋すれば、反欧米・白色人種、反帝国主義、反共産主義、反キリスト教の立場をとり、イスラームの対日本布教を謳うという点、さらには中国領土内のムスリム自決の必要性と中国への連邦制の導入を提案した点である。以上のことから、佐久間という人物は、孔孟の学に親しむ漢学の徒としての姿から、アジアの連帯を説いた民権派、次いで日本の軍事的・経済的拡張をめざす国権派・アジア主義者へと変容したと松本氏は分析した。
 第二に、上海のムスリムの動きが論じられた。具体的には、移民としての脆弱な立場を止揚しエスニシティの利権確保のため結成された上海清真董事会(1909年設立)とその背景、そして彼らが1925年に中国回教学会という社団を結成し、翌年に出版、会誌として発刊した『中国回教学会月刊』での痛烈な佐久間批判である。上海清真董事会に関して、中国におけるマイノリティ・ムスリムとしての彼らは「愛国主義」を全面におしだし、中国国内の1エスニシティとしての文化的権利を要求した点、さらには世界的なイスラーム改革運動の風を彼らも享受しようとしていた点が指摘された。『中国回教学会月刊』の内容分析では、佐久間が上海ムスリムの中国におけるエスニシティ保全要求を中国からの分離独立思想とはき違えていた点、学問上の間違いの多さ、佐久間自身のイスラーム蔑視観などが非難の的となった点が明らかとなった。このような一連の動きを受け、当時の上海では、「愛国主義」を旨とし、宗教教育の質の向上やクルアーンの翻訳事業を端的な例とするイスラーム新文化運動が発展していったという点も指摘された。
 以上の点から、松本氏は佐久間貞次郎をムスリムに改宗していても結局は天皇の臣民たる日本人であり続け、日本国家の対回工作を円滑に進ませるべく働く「支那通の国士」となってしまった人物であると結論づけた。さらには、日本の軍事的優越という文脈と日本を中心とした戦略論のなかでのみしか活動できなかった佐久間は、中国ムスリムの強い中国ナショナリズムを見誤り、結果、上海ムスリムを裏切ってしまったことが付言された。
 次の小林氏の報告では、1930年代のインドネシアのイスラーム系出版物を精査することで明らかとなった対日意識が議論された。冒頭で小林氏は、戦前の日本において「南洋の回教」(東南アジアのイスラーム)の重要性は1910年代から言及されていたが、1930年代半ばまで真剣な関心は向けられなかったと述べた。また、外務省や他の研究機関による研究も東南アジアに関しては発展途上であり、いずれも的確なイスラーム理解を推し進めるものではなかったことを指摘した。
 小林氏が分析に用いたイスラーム系雑誌の多くは、欠損が著しく短命に終わっており、なおかつ発行元の団体もすでに存在していない。しかし当時の対日意識を知る術として重要であると考えられる。本文中には、一部誤報が混在してはいるものの、イスラームと日本と題された記事や、東京モスク落成式典の模様、日中間の戦況などの詳細が掲載されている点が明らかにされた。日本に対する論評は、時に懐疑的ではあるが、次第に親日的な雰囲気が醸成されていった節をうかがわせる。
 次いで、対インドネシアのイスラーム工作に関与した日本人ムスリムに関する考察が行われた。日本軍の対イスラーム工作を考える上で重要な人物として、鈴木剛、小林哲夫、小野信次らの名前が挙げられ、彼らの諸活動が紹介された。鈴木はスラウェシの貿易会社勤務時に改宗し、帰国後陸軍の支援などを受けて3度のマッカ巡礼を経験しており、マッカではムハマディヤ要人などとの接触があった。その他、東京イスラム教団の団長も務め、ジャワへ従軍した。また、小林はカイロのアズハル大学に留学し、そこでインドネシアからの留学生と交流した経験があり、戦争中には海軍民政部の管轄下にあるスラウェシに派遣された。戦前からジャワに滞在して商店を営んでいた小野は、特務機関である別班にリクルートされ、特にムスリム住民の指導者であるキヤイ(宗教塾を運営する学者)と日本軍の橋渡しとなった。戦後インドネシア側の文献に小野は登場するが、鈴木も小林もその活動が記録されておらず、存在感に乏しい。日本の対イスラーム工作に「役割を果した」のは現地の事情に通じた小野だけだったと言える。
 最後に、小林氏は、戦前のインドネシアのイスラーム系雑誌はまだ精査されておらず、ムスリムの国際関係認識をさぐるうえでも大きな可能性を秘めていることを指摘した。
 以上の報告をうけ、まずコメンテーターの重親氏からは、松本・小林両氏の報告に対して、自身の研究観点から現代日本人のイスラーム観は、当時と比較し非常に無関心である点と、同時に戦時中の日本の対イスラーム観を鑑みる場合には軍事的優越という観点を加味する必要性が指摘された。続く小村氏からのコメントでは、現代の日本人改宗者との関連で、日本人ムスリムの定義の難しさや、佐久間ら日本人ムスリムが日本的イスラームを志向していたか否かという問いかけがなされた。それに対して、松本氏からは、1933年の熱河占領、37年の盧溝橋事件以降、日本人キリスト教宣教師が中国に派遣され、中国人牧師を追い出して牧師職に収まり、日本的キリスト教の優越が喧伝された例が引き合いに出された。従って、佐久間らの夢想したようにイスラームの中国布教の夢がもしも叶っていたとしても、おそらく中国の日本占領地に進出したキリスト教と同様の運命を辿ったのではないか、という回答がなされた。会場を交えた総合討論では、日本史研究の観点からOSS資料の信頼性や、佐久間追放に関してその思想的変容過程に関する質問、コメントがなされ大盛況であった。
 本ワークショップは、戦時下の日本による対イスラーム工作と対象国のムスリムの反応を概観できただけではなく、ムスリムであると同時に「国士」として工作に携わった「日本人」の思想、活動さえも垣間見ることができた。東南アジア研究の分野だけではなく、イスラーム研究を行っていく上においても、鑑み、再考していかなければならない多くの課題を突きつけられる結果となった。
 (木下博子:京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程)