研究会・出張報告(2009年度)
研究会- 「スーフィー・聖者研究会」(KIAS4/SIAS3連携研究会)研究会(2009年6月27日上智大学)
*文科省委託事業公募研究「イスラーム社会の世俗化と世俗主義」との共催
日時:2009年6月27日(土)13:00~17:00
場所:上智大学四谷キャンパス第2号館6階2-630a(アジア文化共用会議室)
発表者:
高橋圭(上智大学)「エジプトにおけるタリーカ改革(1895-1905)への道」
粕谷元(日本大学)「トルコにおけるタリーカの閉鎖(1925年)」→報告②
報告①:
報告の目的は、近代エジプトにおけるタリーカの管理制度とそれによる周縁化の歴史展開を明らかにすることであった。その過程で報告者は、スーフィー教団(組織)を軸とした「タリーカ」概念を、その実践が及ぶ範囲を軸とした「タリーカ領域」として捉え直すことを一つの狙いとした。オスマン朝期に見られたように、エジプトのタリーカ領域はマジュリス、マウリドといったイスラーム諸学の講義やズィクルの集会に加え、売春を含んだ各種興行、見せ物にまで及ぶ広範なものであった。そうした状況については、全てが聖性を帯びた宗教的行為であるとする見解もある一方で、ヨーロッパ人やムスリム改革者からは聖と俗の混在として批判する見解もあった。そうした批判は、後に起こるタリーカ改革の中心となってくる。
1812年に始まったタリーカ管理制度の推移は、シャリーフの名家であるバクリー家シャイフの権威の盛衰を眺めることで浮かび上がってくる。バクリー家の威光は、1812年にシャイフに任命されたムハンマド・バクリー(1775-1855)の時代に全タリーカに対する権威が総督勅令により制度化されたことで保証された。この制度化はタリーカの実践集団や活動施設の管理を目的としていたが、教義や儀礼といった内容には制約がない点から、実質はバクリー家シャイフに対するタリーカ集権制度となった。そして大衆文化としてのタリーカが保証されたことはエリート文化とその担い手であるウラマーの弱体化を意味し、スーフィーとウラマーとの間にはここにおいて明確な領域区分がなされたと言える。
しかしタリーカの活動内容に関する最初の統制である1881年のヘディーヴ勅令の際、タリーカの活動継続を事実上不可にするものだとして多くのタリーカがそれを拒絶、当時のバクリー家シャイフであったアブドゥルバーキーの求心力の無さも手伝い、この時点でタリーカ管理制度はシャイフに権威を付与するものからシャイフの権威を侵犯するものとなった。多くのタリーカの活動が最早バクリー家のシャイフではなく国家の担当部局の主導で行なわれるという事態は、バクリー家統制下からのタリーカの離脱を促し、アズハルを中心としたウラマーの介入を招き入れた。そうした勢力転換によってタリーカ領域はかつての多様性を失い、「タリーカ=スーフィー教団」としての領域確定に至ったのだと言える。
報告者は最後に、以上のタリーカ改革に対して下された評価を幾つか紹介し、伝統的なスーフィズムの枠を超えた活動を行いつつそれをスーフィズムとして正統化しなければ独自性を主張できないという今日につながる状況を指摘した。エジプトはタリーカの活動が盛んである一方、スーフィー評議会の存在に代表されるようにタリーカの管理統制が進んだ国でもある。報告は今日のエジプトにおけるそうした二面の関係についての背景を整理する、貴重なものであった。
(高尾賢一郎・同志社大学大学院神学研究科博士後期課程)