研究会・出張報告(2008年度)

   研究会

ワークショップ:文献学からみるインドネシアのスーフィー教団

日時:2009年1月24日(土)午後:1時半から5時半(予定)
場所:上智大学四ツ谷キャンパス2号館6階630a会議室
言語:英語(通訳なし)

報告者:
1. 菅原由美(天理大学):インドネシア・タレカット関連研究について
2. Oman Fathurahman (Senior Researcher at the Center for the Study of Islam and Society (PRIM), Islamic State University (UIN), Jakarta): "The Dissemination of Shattariyyah Local Manuscripts in Indonesia"

研究会報告:
 まず菅原氏は、インドネシアにおけるタレカット(タリーカ)研究史の概要を報告した。菅原氏は17世紀から現代に至るまでのインドネシアにおけるタレカットの発展、および、インドネシアの歴史研究と写本学の現状を簡潔に説明した。氏の議論の要点は以下のとおりである。オランダ領東インドでは、17世紀から18世紀にかけて、シャッタリー教団が全盛を極め、マレー・インドネシア世界出身のウラマーによるアラビア語表記のマレー語であるジャウィ(Jawi)を用いた著作活動が行われるようになった。19世紀から20世紀初頭にかけて、シャッタリー教団からカーディリー・ナクシュバンディー教団へとシフトしていく傾向が新たな潮流としてみられた。また、各地でスーフィー教団が関連する反植民地運動が活発化し、王宮やオランダ植民地政府からの積極的な介入もあった。最後に、菅原氏は、現代インドネシアにおいて、歴史研究と写本学は完全に二分した状態で存在しているとした上で次の2点を指摘した。第1に、写本を用い、なおかつ歴史的背景に関連づける研究を行っている研究者が不足している。第2に、歴史研究はオランダ語史料を用いた反植民地運動に関する研究が大半であり、写本を用いた歴史研究が僅少である点、である。
 次にFathurahman氏は、スマトラ島を中心としたシャッタリー教団の発展を写本学の観点から論じた。最初に、アチェにおけるシャッタリー教団は'Abd al-Ra'?f ibn 'Ali al-J?w? al-Fan'?r?(以下、al-J?w?)により広められ、Shaykh Burh?n al-D?n UlakanとShaykh 'Abd al-Mu'yi Pamijahanの2名の高弟によってミナンカバウと西ジャワに伝えられたという指摘がなされた。そして、氏の調査にもとづき、当教団のシルスィラはal-J?w?に中心に展開されており、マディーナやインドとも密接な関係を持つことが報告された。マレー・インドネシア世界の諸社会では、これまでにアラビア語、マレー語、ジャワ語、スンダ語など様々な言語で書かれた写本が発見されており、現在においてもシャッタリー教団の教えに関する書物の写本作成行為が行われている点も述べられた。発表の最後には、ミナンカバウ社会における写本保存に関する映像作品の上映が行なわれた。氏は、写本研究は、インドネシアのイスラーム史研究に大きな貢献をする可能性を持っており、写本学のさらなる発展が望まれることを指摘した。
 両名の発表をうけて、東長氏からは写本に使用されている言語や高弟のネットワークに関する質問がなされた。Nurtawab氏からはFathurahman氏の発表を補足する形でインドネシアのイスラーム受容に関するコメントが行われた。Nurtawab氏は、インドネシアのイスラームは、7世紀ころには成立していた交易ルート上で、アラブ人商人によってもたらされていたと指摘した。さらにスーフィズムは当時のヌサンタラ(マレー・インドネシア世界)に順応可能な要素であったという点も述べられた。ディスカッションでは、主に写本の使用言語について活発な議論が交わされた。
 本ワークショップは中東地域を研究対象としている研究者の参加もあり、インドネシアのイスラームという観点からのみではなく、中東研究の立場からの発言やコメントがあり、非常に有意義であった。特に、中東だけではなく、インドネシアにおけるインドの影響の有無に関する発言や、エジプトのスーフィー教団にみられる子弟関係との比較が行われ、地域の壁を越えた討議が行われた。インドネシアの諸地域におけるイスラームの歴史をさらに明らかにするためにも、写本学と歴史研究のさらなる発展の必要性を確認する貴重な場となった。
 (木下博子・京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程)