研究会・出張報告(2007年度)

   出張報告

期間:2008年3月16日(日)~3月29日(土)
国名:インド
参加者:
 東長靖(京都大学大学院アジア・アフリカ研究研究科・准教授)
 森本一夫(東京大学東洋文化研究所・准教授)
 二宮文子(京都大学文学部・研修員)
 中西竜也(京都学園大学・非常勤講師)
 小牧幸代(高崎経済大学・講師)(調査協力)

概要:
3月17日(月)
 デリー。まず、チャンドニ・チョウク周辺、バッリー・マーランに位置するミルザー・ガーリブの生家へ向かった。途中、サリーム・チシュティー(ムガール朝アクバル大帝の息子の誕生を予言した聖者)の末裔を妻に持つという、ベルベット商に会った。その妻の弟は、アーグラ近郊ファテープル・スィークリーにあるサリーム・チシュティー廟の現サッジャーダ・ネシーンだという。また、そのベルベット商の甥は、デリーのコンノート・プレイスはマリーナ・ホテル向かい側にある聖者廟のサッジャーダ・ネシーンであるとのことだった。サッジャーダ・ネシーンの家系間で姻戚関係が結ばれ、ネットワークが形成されている事実を目の当たりにして興味深かった。ガーリブの生家にはしかし、休館で中に入れなかった。その後、すぐ近くにあるファテープーリー・マスジドに移動。中庭の一角に聖者墓があり、中庭の樹木におみくじよろしくドゥアーや魔方陣の書かれた紙片がくくり付けられているのが、目を引いた。その紙片に触れようとすると、周囲のムスリムに触れてはだめと注意された。また、このマスジドにいたデリー大の自然科学専攻の学生は、敬虔なムスリムらしく、我々にイスラームが世界中で如何に誤解されているかを熱心に語った。

3月18日(火)
 デリー。まず、アンサーリー通りのマノーハル書店とオックスフォード・ユニヴァーシティ・プレスにて文献収集(主に英語文献)。続いて、ジャマー・マスジド前のアンジョマネ・タラッキーイェ・アダビーヤテ・ウルドゥー書店にて文献収集。ここでは、古い石版のペルシア語文献が若干売られていた。

3月19日(水)
 デリー。まず、ニザームッディーン・アウリヤー廟の現サッジャーダ・ネシーン、ハサン・サーニー・ニザーミー氏と会談、その後、ニザームッディーン・アウリヤー廟を見学した。廟の周辺は、参拝用品(墓に掛ける布や、献花、墓のバラカを移したのち食べる砂糖菓子など)を売る店が軒を連ね、巡礼者や物乞いでごった返していた。靴を脱いで門をくぐった先の廟域内にも、夥しい数の巡礼者がいた。ニザームッディーン廟の域内には当人の墓に加えてアミール・フスラウの墓が存在する。何れの墓も建物で覆いがしてあって、中には男性の巡礼者が所狭しと詰め入り熱心に参拝していた。ニザームッディーンの墓の周囲には、沢山の女性の巡礼者が座り込んでいた。女性は中に入れないので、ワキール(代理人)が参拝を代行するのである。二つの墓を見学した後、廟域内のとあるフジュラ(小部屋)にピールの一人を訪ね、しばらく会談してから、廟を出た。ニザームッディーン廟の次は、クトゥブ・ミナールを見学した後、そのすぐ側にあるクトゥブッディーン・バフティヤール・カーキー廟を見学した。靴を脱いで廟域を進んでゆくと、カッワーリーを唱和する五、六人の姿があった。巡礼者の多さはニザームッディーン廟ほどではないが、そこそこ繁盛しているとの印象を持った。クトゥブッディーンの墓前で熱心に参拝する人々の姿は、ニザームッディーンやアミール・フスラウの墓前に見た光景と何ら変わりなかった。廟域内には女性聖者の墓も付設されていたが、こちらは男子禁制だった。また、廟域内にはマドラサが付設されており、たまたまそこにいた学生に聞いたところ、彼はハナフィー派法学を学習しており、タサウウフについては勉強していないとのことであった。クトゥブッディーン廟を後にし、チラーゲ・デリー廟へ向かった。同廟は、ニザームッディーン廟はもとよりクトゥブッディーン廟と比べても、閑散としていたが、時おり訪れるヒンドゥー巡礼者の姿が目を引いた。中でも、ヒンドゥーの母子がハーディムから何やらまじないのようなものを施されている姿は衝撃的であった。ハーディムは、チラーゲ・デリーの墓廟の前に母子を座らせ、何事かを唱えながら(あとで聞けば、クルアーンのファーティハやイフラース章、人間章などであった)、彼らの頭の上で孔雀の羽を束ねたものを振り(東長氏が数えたところ25回)、最後にプッと息を吹く。ヒンドゥーの母子は合掌しながらこの儀礼を受け、最後に墓廟に向かって額づく。聞くところによれば、子どもの疳の虫の原因となるジンを追い払うために、こういうことを行うのだという。イスラームとヒンドゥーの混交の様を目の当たりにし、大変興味深かった。チラーゲ・デリー廟の後は、小牧氏の研究対象であるリズヴィ家の晩餐に招いて頂いた。(中西竜也)

3月20日(木)
 まだ本番でないとはいえ、十分暑いインドにおける調査は、デリーからアジュメールへと所を移すこととなった。Shatabdi急行のエアコン付き車両に乗り込んだ我々は、その涼しさに当初喜んだものだった。しかし、我々の見通しは甘かった。このエアコンは、がんがんに効いていて、「涼しい」を通り越して「寒い」に、そして「とても寒い」、「これはたまらん」という状態に我々を追い込んでいったのである。おかげで、アジュメールに到着した後、男3人は相次いで高熱を発することとなったのであった。
 さて、到着した日(日没から)は、時あたかも預言者生誕祭。この日にチシュティー教団の祖、ムイーヌッディーン・チシュティーの廟に詣でることができたのは幸いであった。今年のこの日(正確には3月21日)は、イスラームの預言者生誕祭、ヒンドゥー教のホーリー祭、キリスト教のgood Friday、パールスィー(ゾロアスター教)のノウ・ルーズ(春分の祭)が重なるというめでたさであり、現地の新聞にもそのことが一面に書かれていた。
 アジュメール駅からムイーヌッディーン・チシュティー廟(以下ダルガーと略称)に向かう参道には人々がさんざめき、祭独特の雰囲気を醸し出している。入口で靴を預けてダルガーの中に入る。小牧幸代さんが、デリーの知人(イナーヤト・ハーン・ダルガーに勤務するDr. Farida)からアジュメールではこの人を訪ねるようにという紹介をもらってくれたので、その人を求めて行く。
 ほどなくマグリブ(日没後)の礼拝が始まる。午後7時。この間、我々非ムスリム調査団メンバーは後方で待機する。ナマーズ終了後、紹介を受けたおじさんのところに連れていかれる。チシュティー廟のサッジャーダ・ナシーンの系統もいくつかあるようだが、その一つに属するピール(廟の世話人)である。目がぎょろっとしていて、なんとなく江戸屋猫八に似ている。木の下に布を敷いて坐っていた。この「木」は、今回の旅行中、何度も目にし、印象深く感じた。というのも、ほとんどどこの廟にも、必ずといっていいほど木があり、少なからぬ場合、墓と木は一体になっている。また、普通のモスクも、中庭に木が植えられていることが多い。楽園のイメージなのかと想像してみる。いずれにせよ、廟やモスクに木を植えるというのは、アラブでは珍しい光景であり、他方、トルコ、中央アジア、イランなどでは見かけるものである。木ひとつとってみても、アラブ世界とペルシア・トルコ世界(ここではインドは広い意味のペルシア世界の一環)との差異が読み取れるように思う。
 待つことしばし、歌が突然マイクから大音量で流れ始める。預言者讃詩らしい。花火が次々に上がる。歌の間、人々は本廟の方を向いて立ち、体の前で手を組んでいる。手の指を交互に組み合わせるキリスト教的な組み方や、仏教でやるように手を合わせるやり方もあって、これもアラブ留学組には珍しい。
 7時半、クルアーン朗誦が始まる。もうすぐ本廟が閉まるから、お参りをしておいで、と江戸屋猫八が言う。お金を出しなさい、供物を準備してあげよう。相場がよく分からないが、100ルピー(250円くらい)出して、大きな花かごと緑色の布のセットを用意してもらう。ざるの上にまずは緑色の布を折り畳んで置き、その上に花をふんだんに載せたもの。これを頭の上に乗せたまま、本廟を目指す。供物屋が我々を先導する。途中ですれ違った老婆が、私の頭の上の緑布に触れていった。自分の分のバラカも得られるように、というのだろう。本廟は大混雑で、中にはほとんど入れず、供物屋が我々の花かごを、廟に捧げてくれる。花はもちろんだが、緑布もそのまま墓の上に置かれたようだ。本廟を出ると、赤色と黄色でより合わされた紐を首にかけてくれる。これは、南アジア研究の知人がよく手首に巻いているものと同じで、聖人の功徳にあずかるためのものなのだろう。この紐も、アラブでは通常用いることはない。ちなみに、物珍しさもあって、その後私はずっとこの紐を首にかけている。おそらく、自然に切れてしまうまで、こうしているのがいいのだろう。
 本廟を出ると、ダルガーの修理への寄付金をねだられる。私の前の多分インド人は、25ルピーしか寄付していなかったが、お登りさんの金持ち外国人は、200ルピーも献金したのだった。
 元の木のところに戻ると、ピール江戸屋猫八が若い男をつけてくれる。ダルガーの中を案内してもらえというのである。たしかに、予想以上に広い敷地で、知識のある人に連れ歩いてもらわないと、なかなか全容を把握することは難しそうだった。ダルガーの一角には、預言者のひげの聖遺物があり、今夜12時以降にご開帳するとのことであった。間もなく熱を出すことになる私は、ご遠慮してホテルで休んだが、小牧さん・二宮さんという女性インド研究者陣は元気で、とくと見物してきたそうである。
 アジュメールのチシュティー廟に限らないが、今回のインド調査で中東とは違うことに気づいた点がいくつかある。
 何よりも大きいのは、実際に異教徒(ヒンドゥーやスィクなど)が参詣に訪れていることで、これは知識としては知っていたし、自分でもそういうことを文章に書いたこともあるが、やはり目の当たりにすると、不思議な気分がするものである。同時に、これはムンバイーのタクシーで、スィクの運転手(彼もムスリム聖者の廟に詣でるという)から聞いた話だが、イスラーム、ヒンドゥー、スィクなどと外形は違っても、信仰の内実は一つだ、という発言を実際に現地の人々から聞いたのも、きわめて興味深かった。ふもとからの道は様々でも、目指すべき山の頂点は一つだ、現存する宗教の各々はこの道に過ぎない、という、我々には分かりやすい説明は、中東、とくにアラブ世界ではまず耳にしないものだが、南アジアではこのような説明が実際になされていたのである。
 廟にまつわるモノとしては、花・炎・水・布といったものが用いられている。アラブ世界で常時用いられるのは、このうち布だけである。花を大量に捧げることはふつうしないし、廟の回りにロウソクや水差しが見られることもない。南アジア、あるいは少なくとも非アラブ世界の特徴というべきであろう。
 また、廟の前の人々のドゥアー(祈祷)の仕方も異なっていた。手のひらを前に向けて両手を胸の前に広げるのは同じであるが、多くの場合、両手の小指側をくっつけるようにして祈っていた。中東では、10センチくらいは離して手を広げる形をとるから、明らかに違う形に見える。また、人によっては、前に広げた掌を、ドゥアーが終わると、ちょうど仏教徒がやるように合わせて拝む例も散見した。これも中東では見たことのない光景であった。
 私自身は、アラブ研究者にも中東研究者にも留まることなく、イスラーム世界各地を広く視野に入れたいと思っており、これまでも東南アジアや東アフリカなどを訪問してきた。南アジアは、パキスタン・スリランカに続いて3ヶ国目であるが、今回は、現地語もでき、専門的知識もお持ちの小牧さん・二宮さんに案内されての調査旅行だったので、一人で旅行していたのでは分からない情報をいろいろ得ることができたこともあって、大変興味深い研究対象に思えた。イスラーム原理主義に対するオルターナティブとしてスーフィズムを捉えられないかとここ何年か考えているが、南アジアの聖者廟を包むイスラームには、そのような考えがまったくの妄想ではないことを示唆してくれるものがあったように思えてならない。(東長靖)

3月21日(金)
 朝10:30から行われるパレードを見物。パレードはダルガーを出発してダルガー・バザールと呼ばれる参道を通り、町外れのアナ・サーガル(湖)のほとりにある公園で終わる。内容は、アジメールにフジュラを持つピールや街区を中心にまとまる各グループが、旗や横断幕、メッカのミニチュアや図像、楽隊などを仕立て、徒歩、関係者や子供を乗せた馬車、馬、リキシャ、トラック等で練り歩くというもの。あるグループはラクダや象を伴っていた。楽隊は太鼓が主だったが、パレードに参加しているピールが歌う、預言者賛歌とおぼしき唱歌をマイクで拾って流している場合もあった。また、一部の羽振りが良いグループは、トラックから花弁をばらまいたり、参加者や見物客にアイスバーを配ったりしていた。パレード中も後も、ダルガーとその付近は非常に混雑していた。小牧氏はパレードの終着点まで同行したが、その他のメンバーはダルガー前でパレードを見物後、近くにあるアダーイ・ディン・カ・ジョンプラー(ゴール朝の時代に建設されたモスク)などを見学した。
 なお、昨年ダルガーで爆発事件があったため、ダルガーに入る際にはきちんとしたセキュリティ・チェックを受ける必要があった。また、カメラ類の持ち込みが禁じられたため、ダルガー内の写真撮影が全くできなかったのは残念である。
 ジャイプルに移動する電車の中では、我々の乗った車両の電気系統が故障して冷房が効かなくなったために他の乗客全てが隣の車両に移動し、1車両を日本人5人が貸し切るという珍事が発生した。

3月22日(土)
 この日はヒンドゥーの祭り、ホーリーが行われていた。ホーリーは色水や色粉を誰彼の区別なくかけ合って春の到来を祝う祭りで、赤、ピンク、オレンジ、緑などのどぎつい原色を浴びた人々は、果てには全身どす黒い紫か茶色に近い色に染まる。そのような事態を避けるため、午前中はジャイプルのホテルに閉じこもって祭りをやり過ごすことにした。しかしホテルでも、ホーリーにちなんで赤い粉で額に印を付けられてしまう。空港への移動中も多少の被害に遭った。(二宮文子)
 3月22日16時50分、私たちはハイデラバードのベグンペト(?:Begumpet)空港に到着した。雨が激しく降っていた。空港はその日いっぱいで閉鎖され、それ以後は竣工なった新空港、シャムサーバードのラジヴ・ガンディー空港が使われるということであった。記念すべき日にハイデラーバードに降り立ったことになる。ムハンマドという運転手が操る白のアンバサダーに乗り、Hotel Harshaに向かう。
 雨が降っていることもあり、通りに埃っぽさを感じず好印象を感じながら市街に入る。フセイン・サーガル(=湖)の縁を走り、やがて市街地に入る。
 ホテルでは3室に分かれ部屋を取る。なかなか立派な部屋を二人で使って2200Rs也。雨が降りしきる中、近くで夕食を摂って翌日に備える。

3月23日(日)
 23日も残念ながら雨が降り続いていた。街中の道も部分的に川と化しており、外歩きはあまり現実的でない。休息を兼ねてゆっくり目に行動を開始する。打ち合わせを行った後、11時前にホテルを出て、11時20分にはSalar Jung博物館に到着。折から、トプカプ宮殿博物館に所蔵される預言者聖遺物の写真パネル展示が行われていた。預言者生誕祭を記念するものらしい。入り口で参観者全員に配られていたバラを手に、有り難く拝観する。会場にいた関係者らしいトルコ人(一人はペルシア語も話す)とも懇談する。Salar Jung博物館のコレクションは、ハイデラバード藩王国の宰相であったSalar Jungの家族コレクションを継承したもので、インドのものだけでなく、西洋美術や日本美術まで幅広い(ただ、日本美術のコーナーなどは外国人向けの大振りのお土産を並べたようにも見える)。インドのミニアチュールの展示と並んで興味深かったのがアラビア文字を使った諸言語による写本の展示で、チャガタイ語の『バーブル・ナーマ』(Acc No. 4389, 12/18世紀書写)、アラビア語原文の『叡智の台座(Fusus al-Hikam)』(Acc No. 1493)に加え、ムガル朝の王子ダーラー・シュコーの手になる『聖者たちの[乗った]船(あるいは《聖者伝集》と訳すべきか; Safina al-Awliya')』(ペルシア語、Acc No. 856, 1206/1790書写)、1520年書写の『親愛の息吹(Nafahat al-Uns)』(ペルシア語、Acc No. 865)などの聖者伝の写本も眺めることができた。もちろん、展示されている写本は、アラビア語、ペルシア語、ウルドゥー語の3言語のものが中心である。
 博物館を出ても雨が降り続いていたので、再び雨宿りを兼ねて、旧市街のチョウク・モスク(Chowk Masjid)近くにある古本屋、ハーズィク・アンド・モヒー(Haziq and Mohi, Hadhiq wa Muhyi)に向かう。この店は、ハイデラバードの個人蔵の本を沢山買って持っているというので有名な店である(高いのでも有名らしい)。関心のある分野を言うと、それに応じて平積みにしてある本の中から関連のものを出してくる。店には、活字版だけでなく、石版、そして写本までもが売られていた。我々もそれぞれ分に応じた買い物をしてほどほどに満足し、引き上げた。
 晩は、一足先に帰国する中西氏を、ささやかな夕食で送った。

3月24日(月)
 朝8時半過ぎに宿を出発。まずは町から離れたところから潰していこうということで、クトゥブ・シャーヒー朝の王墓群に向かう。16世紀から17世紀にかけて建設されたドーム建築の王墓群は、その敷地全体が入場料を取る公園として整備されている。しかし、その公園の随所に、王墓との関係は定かではないが、明らかに参詣の対象とされているムスリムの墓が存在した。中でも、クトゥブ・シャーヒー朝のムガル朝への降伏に当たって主要な役割を果たしたというハヤート・バフシー・ベイゴム(Hayat Bakhshi Baygum)という王家の女性の廟の裏にあった墓は、線香が供えられていた点においても、幹の分かれ目にできた洞に何枚もの布が押し込められていた点においても、モAla inna awliya' Allah la khawf ‘alay-him wa la hum yahzanunaモというクルアーンの章句が記されている点においても、現役の参詣対象とされている「神のワリー」の墓であることはあきらかであった(他に、Mir Mahbub ‘Ali Shah Qadiriのものであると周辺の墓の銘文から判断できる墓もあった)。また、公園内にはヒンドゥー教の参詣地もあった。これも、巨木が機縁となって成立したように思われた。
 墓廟群を出た後は、近くのゴルコンダ・フォートに向かった。こちらは岩山に築かれたクトゥブ・シャーヒー朝の王城である。砦の威容を楽しむとともに、岩山の頂上付近に見られる、巨石が機縁となって生じたと思われるヒンドゥー寺院も見学した。
 ゴルコンダ・フォートを出た後は、一路ハイデラバード市内に戻り、アラビア語の多数の文献を刊行していることでよく知られているオスマニヤ大学出版部、Da'irat al-Ma'rif al-‘Uthmaniyaに向かった。すると、出版部の門前にも(Syed) Rowshan Ali TadShah (Pir)とZinda Shah Pirの二人を祀るという無人の小さな廟があったので、これも様子を確認した。ここにもどうも崇敬の対象とされているらしい樹木が見られた。
 オスマニヤ大学出版部では、大体の感じで言えば、近15年くらいの間に刊行された本ならば買うことができる。本は、船便だと1キロ1200だか1300Rsで送ってくれる。
 そうこうするうちに、不覚にもハイデラバードを出ないといけない時間が迫ってしまった。そこで、旧市街に点在する聖者廟を巡ることは残念ながら断念し、宿に寄って出発の準備をし、開かれたばかりの空港に向かうことにした。
 ハイデラーバードでは、雨という悪条件にたたられ、聖者廟巡りは万全には行うことができなかった。しかし、稀覯書を多数揃えた古書店で関連の書籍を求めることができたことや、王墓という、聖者廟とはまた別の形の墓廟について知見を得ることができたことなど、得るところは小さくなかった。
 なお、ハイデラバードからアーメダーバードに飛ぶはずであった私たちの飛行機は、理由も説明されない形でキャンセルとなり、まだまだできかけとしか言いようのない新空港で、代わりのフライトを得るべく戦ったというのが、ハイデラバードの最後の思い出となった。(森本一夫)

3月25日(火)
 未明にムンバイーの国際空港から発ち、早朝にアフマダーバードに到着した。ホテルの付近に位置する、透かし彫りの窓が美しいスィーディー・サイイド・マスジドを見物。酷暑を避けるため、夕方まで休息と自由行動とする。スィーディー・サイイド・マスジドを始め、アフマダーバードでは町中の様々な場所に古い建築物があり、景観にとけ込んでいた。夕方よりジャマー・マスジド、ラーニー・スィープリー・マスジド、シャー・アーラム廟を訪問。15世紀にアフマド・シャーによって建設されたジャマー・マスジドはちょうど礼拝時で、中庭の屋根付きの池では多くの男性がワズウを行っていた。中庭を囲む回廊部分の壁面には、4人の正統カリフの名前、アフマダーバードとその近郊に墓がある著名人の名前と墓の所在地など、近年のものと見られる書き込みが見られた。ラーニー・スィープリー・マスジドにはアフマド・シャー朝の王妃ラーニー・スィープリーの廟もあり、ヒンドゥー様式とイスラーム様式が融合した優美な建築物を鑑賞できた。シャー・アーラム廟はシャー・アーラムの墓、シャー・アーラムの孫マクブール・アーラムの墓、マスジドのコンプレックスになっていた。2つの墓の建物はほぼ同じ大きさだったが、マクブール・アーラムの墓はむしろ、預言者ムハンマドの足跡を収めた建物と紹介されていた。マクブール・アーラムが何度埋葬しても地上に現れたため、シャー・アーラムの先祖がメディナから持ち帰った預言者の足跡を墓の胸の部分に置くことになったとのことである。いずれの廟でも女性は墓石がある部屋には立ち入ることができず、男性親族やハーディムを通して供物を捧げていた。マスジドは礼拝中の立ち入りが禁じられたが、礼拝終了後、ムハンマドが座ったと伝えられるソファなどを確認した。
 夕食のグジャラート式ベジタリアン・ターリーは今ひとつであった。

3月26日(水)
 この日の早朝に東長隊長が帰国した。残ったメンバーは、アフマダーバードの南西の端、サルヘジュにあるアフマド・ハットゥ―(ガンジュ・バフシュ)廟に向かった。道中、アフマド・シャー・マスジドを見学。ほとんど人気がなかったが、遠くビハールから、マスジドの建設資金を募るためにやって来た人物がいた。サルヘジュのダルガーにはアフマド・シャー朝歴代スルターンの墓とマスジドが併設されている。敷地の一角にはダルガーを管理するトラストのオフィス兼書籍販売部と、写本などが展示されている小部屋もあった。時間帯のせいか、ダルガーは全体的に閑散としており、供物などを扱う店舗も敷地内に数カ所と比較的少なかった。この地区で子供が生まれると母子でダルガーに参る習わしがあるそうで、調査中にもオバ(母親は事情があって参れなかったとのこと)が新生児を伴って参詣していた。その後、ダルガーの脇にある巨大なバーオリー(貯水池)と、アフマド・シャー朝スルターンの避暑宮殿を見物。夕方、再びシャー・アーラム廟を訪問し、ダルガーでノウバが行われているのを観察した。(二宮文子)

3月27日(木)
 早朝、アフマダーバードからムンバイーに移動。午後、インド洋に浮かぶハッジ・アリー廟(Haji Ali Dargah)を参詣。セキュリティ・チェックを受け、桟橋状の長い長い参道の果てに聖者廟とモスクとが一体となったハッジ・アリー廟がある。参道の供物売りの店では北インドでもよく見かける「6人のブズルグ」のポスターを発見。ここでは、中央にハッジ・アリーが座って「7人のブズルグ」となって売られている。参道の途中からは物乞いが参道をにぎわす。平日の昼間なのに、参詣者が多い。また、ここでもヒンドゥー参詣者が多いのに気づく。
 聖者廟の入り口は男女別々だが、互いに顔が見えないというわけではない。墓を挟んで互いに顔を合わせることができる。墓石の上にはチャーダルや花がうずたかく積まれている。クジャクの羽で頭を祓って/撫でてもらう参詣者。その羽は直前に墓石に触れさせられる。バラの花弁がセルフサービス風に、各自が勝手に取っていけるようタッパーに入れて置いてある。 確かにヒンドゥー参詣者が多いとはいえ、墓の脇の小部屋にしばらく残って礼拝をしたり、クルアーンを詠んだり、祈願の言葉を唱えたりしているのはムスリムがほとんど。14時頃、カッワールが演奏を始めた。
 聖者廟の横(海側)にはモスクがあり、その後ろは大きな波さえ押し寄せる海。そこで波を浴びている人々もいたが、その行為には特別な意味があるわけではないらしい。 新婚のカップルがいた。「インター・カースト・マリッジ」で、夫がムスリム、妻がヒンドゥー。ここにふたりで来たのは二度目だが、ロマンティックだからというわけではなく、スピリチュアルなものを感じることができる場所だから…という理由。廟の敷地内に、供物だけでなく、アイスクリーム、ジュース、軽食の販売店があったり、昼寝をするのにちょうどよいスペースがあって実際に昼寝をしている人がたくさんいたりと、全体的に、宗教的というよりも、娯楽・行楽といった雰囲気が強いように感じる。
 帰路の参道で、満潮時の廟の様子を映し出した写真について訊いてみると、約1週間後に、これと同じ状態になる…と指を折りながら言っていた。なるほど、14時すぎ、往時よりも潮が満ちてきて、参道にも波が上がってきはじめた。

3月28日(金)
 ムンバイー国際空港に向かう途中、タクシー運転手が提供してくれた情報によれば、マーヒム(Mahim)というムスリム地区には、ハッジ・アリー廟と同じくらい有名な聖者廟(Dargah Makhdoom Ali Mahimi)がある。車窓から、確かに立派な門構えと多数のムスリムを見ることができた。 (小牧幸代)