研究会・出張報告(2007年度)

   研究会

国際ワークショップ “Rethinking Tariqa: What Makes Something Tariqa?”
日時:2007年10月12日(金)~13日(土)
場所:京都大学AA447号

報告①:
1st Session

○Alexandre Papas (CNRS, Paris) “When a Sufi Shaykh Thinks Out his Own Tariqa: Two Treatises by Ahmad Kasani Dahbidi (1461-1542) on the Khwajagan adab”
 「タリーカ」は組織なのか、スーフィーが精神的にたどる道か、という二者択一の問いはナンセンスだとPAPAS氏は主張する。研究者は分析的に解釈しがちだが、むしろその2つの要素は連続しているのではないかと考えられる。さらに、組織と精神的にたどる道という2つの要素が分かちがたく結びついていることが、「タリーカ」一般に不可欠な要素なのではないかと提起した。本発表は、そのテストケースとして写本のかたちで遺されている、中央アジアのホージャガーン・タリーカのシャイフ・アフマド・カーサーニー(d. 1542)による一組の論考、『修行者のふるまい方』(Risala-yi adab al-salikin)と『誠実な者のふるまい方』(Risala-yi adab al-siddiqin)を綿密に読み解くことで、彼がタリーカをどのように考えているかを探ろうとした。なおこれら二論考の題名にはともにadab という語が使用されているが、adab は道徳、ふるまい方を意味し、スーフィズムでは確立された主題である。
 『修行者のふるまい方』が語るタリーカは、精神的な修行道と、師を中心に形成される精神的な共同体の二面性を帯びている。カーサーニーが重視するのは、suhbatと呼ばれる精神的な対話および精神的な集いである。このsuhbatには修行者がある程度の段階に達しないと参加できない。修行の道筋のなかではかなり遠い目標である。なぜなら外界のものにまったく惑わされなくなってはじめて師と精神的な対話ができるからである。またカーサーニーがsuhbatを重視した理由として発表者はホージャガーン・タリーカの構成人数が増えたため、師匠と弟子の一対一の対話(rabita)ではなく、一対多の対話であるsuhbatに対話形態が移行したと推測している。その正否はどうであれ、このようにしてsuhbatは個人的修行道とスーフィー教団としての集団性が交差する位置にあらわれることになる。だたし発表者の評定では、suhbatにみえる集団は教団と呼べるほどの組織ではなく本質的には師やその後継者の周りに集まった弟子たちの共同体である。
 『誠実な者のふるまい方』は『修行者のふるまい方』で語られた段階に続くより高い段階にいる者を対象にしている。この意味で、修行者と誠実な者の間にはランクの違いがみられる。そしてここで対象になっている誠実な者とはすでに悟ったスーフィー(師になる準備ができたスーフィー)である可能性が高い。『誠実な者のふるまい方』では『修行者のふるまい方』と違ってsuhbatに関する言及が見られないのは、すでにsuhbatに参加する必要がないからだと考えられる。つまり、『誠実な者のふるまい方』ではすでに師匠に匹敵する段階に達した者がsuhbatを行う際にいかにふるまうか(adab)が語られているのである。『修行者のふるまい方』が修行の過程を逐一説明していたのに対して、『誠実な者のふるまい方』では講話スタイルで書かれている点もそのような解釈の補強となるであろう。
 では二論考の著者は結局タリーカをどのように考えていたのだろうか。精神的な完成に至る道、師匠になる段階の制度化、そして組織と師匠との関係は少なくとも二論考でははっきりと区別されていない。むしろそれらは二論考を通じて渾然一体となっているのである。
 なお質疑応答では、二つの文献の性格の相違や両者の成立の背景などが論点となった。

○Fujii Chiaki (Kyoto University) “ ‘Tariqas’ without Silsilas: The Case of Zanzibar”
 藤井氏の発表は、先行研究を踏まえつつ、自身のフィールド調査の結果と併せて、ザンジバルのタリーカの歴史的な状況と現在のあり方を比較・検討し、ザンジバルにおいてタリーカをタリーカたらしめている要素が何かを明らかにすることを試みるものであった。今回の発表は、2005年4月16日から5月16日及び2006年9月18日から12月18日の2回に分けて行われた、カーディリーヤ、シャーズィリーヤ、マウリディ・ヤ・ホム、キラーマ、キグミ、キジティ、ホチ、ハムズィーヤという8つのタリーカの調査がもとになっている。本論では、各タリーカの起源を縦糸に、タリーカの要素と想定されるスィルスィラ(道統譜)、名祖、修行法であるズィクルの有無を横糸にして分析が行われた。
 上記8つのタリーカのうち先行研究ですでに報告されているのは、カーディリーヤ、シャーズィリーヤ、マウリディ・ヤ・ホム(リファーイーヤ)、カーディリーヤから分派したキラーマの4つである。このうちマウリディ・ヤ・ホムとも呼ばれていたリファーイーヤは発表者が調査した時期には、すでにリファーイーヤという名が忘れ去られており、マウリディ・ヤ・ホムという名しか残っていなかった。また先行研究ではカーディリーヤから分派したとされていたキラーマが、発表者自身の調査ではシャーズィリーヤから分派したことになっていた。したがって先行研究の調査から発表者の調査までの間に少なくとも2つのタリーカの名が変化しており、そのうちのひとつのタリーカでは起源となるべきリファーイーヤという名すら忘れ去られていたのである(リファーイーヤはアデンからアフリカ東海岸に伝わったタリーカで、ここでマウリディ・ヤ・ホムと言われているものは子タリーカにあたる)。マウリディ・ヤ・ホムとキラーマという名はタリーカの創始者(名祖)の名にちなんだものではなく、修行法であるズィクルの名であること、逆にカーディリーヤ、シャーズィリーヤ、リファーイーヤが創始者の名にちなんでいることを考えあわせば、ザンジバルのタリーカの名称は、全体として名祖にちなんだ名からズィクルにちなんだ名へと変化していることが予想される。なおキグミ、キジティ、ホチ、ハムズィーヤもズィクルの名が冠せられたタリーカである。
 他方、スィルスィラに目を向けると、先行研究と照らし合わせて、預言者ムハンマドにさかのぼるスィルスィラが保持されていたのはカーディリーヤとシャーズィリーヤだけである。マウリディ・ヤ・ホムは発表者の聞き取りによると1964年のザンジバル革命後スィルスィラは失われてしまったという。またキグミ、キジティ、ホチ、ハムズィーヤのスィルスィラは預言者にまでさかのぼっていない。スィルスィラが不完全であるか、あるいは失われているケースが多いなかで、ズィクルに関しては8つのタリーカで行っていないところはなかった。以上の考察から導き出せる結論は、名祖、スィルスィラ、ズィクルという3つの候補のうちで、ザンジバルのタリーカの必要条件はズィクルだけということになる。
 われわれがまずタリーカのアイデンティティーと考えるのは名祖やスィルスィラである。ザンジバルのタリーカではこれらが副次的な要素でしかないばかりでなく、失われ、忘れ去られていくケースがあることはわれわれの常識をくつがえすものであった。なぜそのような事態が起こるのかという問いに対して、発表者は1964年のザンジバル革命から8年間続いた混乱期にそれらの要素が失われた可能性が高いと控え目に推測するにとどめた。本当にそうした外在的要因だけによるのかどうかの検証はこれからの研究課題であろう。
 質疑応答では、ザンジバルのタリーカの実態をめぐる歴史的・社会的側面の問題、現地社会においてマウリド、ズィクルなどが持つ意味、1964年革命がタリーカにもたらした影響、スィルスィラの有無とザンジバルの政治的状況の関係などが議論された。その際に発表者が繰り返し強調したのは、ザンジバルのタリーカにおけるズィクルの重要性であり、ズィクル・グループという従来のタリーカイメージとは異なるタリーカのあり方であった。またスィルスィラをもたず、名祖ももたないタリーカは、ザンジバル、ひいてはアフリカだけにみられる現象であろうか。われわれがタリーカだと思っているものをタリーカ研究の俎上に載せているだけで、本当はいろいろなところにズィクル・グループに類するものがあるのではないか。そのような思いを強く持った。

○Kisaichi Masatoshi (Sophia University) “Institutionalized Sufism and Non-Institutionalized Sufism: A Reconsideration of the Groups of Sufi Saints of the Non-Tariqa Type as Viewed through the Historical Documents of Medieval Maghreb”
 私市氏は、発表の冒頭で、われわれは前近代におけるタリーカというものを過大評価してきたのではないか、つまりタリーカという言葉でイラク南部に始まった組織化・制度化され、さらには国際化に向かうスーフィー集団を指し、それをどの地域のスーフィー集団にもあてはまるモデルとしていないか、という疑問を提示した。発表者はまず、12-13世紀にイスラーム世界に起こった最も革新的な動きは、スーフィズムの制度化(institutionalization)であり、それはイラク南部で始まった、カーディリーヤ、リファーイーヤ、スフラワルディーヤという3つの「国際的なスーフィー教団」の形成であったと指摘した。対して、この時代にモロッコやマグリブでは、ターイファ・サンハージーヤ、ターイファ・マージリーヤのようにターイファと呼ばれる現地に根付いた(国際的ではない)組織が形成されていた。こうしたマグリブの事例をみれば、ハーンカーからタリーカを経由してターイファ段階に至るというトリミンガムによる発展三段階説が普遍的に妥当するのかどうかが疑われなければならない。発表者はマグレブの有名なスーフィー、アブー・マドヤン(d.594/1198)とその弟子たちの動向を追うことでマグレブにおけるタリーカやターイファの所在を検証した。
 アルジェリア東部のビジャーヤに居を構えていたアブー・マドヤンのまわりには多くの人が集まり、彼の行っていたサマーの集いやズィクルの集会は「いわゆるタリーカ」が行っていたものとほとんど変わらない。しかし彼はタリーカやターイファを形成したわけではない。またアブー・マドヤンの弟子たちが活躍した12世紀から13世紀にリファーイー教団のメンバーがモロッコにいたが、彼もまたタリーカやターイファを作ったわけでもない。
 イブン・クンフズ(d. 810/1407-8)が報告するところによると14世紀西モロッコに6つのターイファがあったという。そのうちのひとつ、ドゥッカラにあるターイファの状況がイブン・クンフズによって詳しく述べられている。その記述によると、ターイファの集会には病人を含む大勢の人が集まり、ズィクルを行ったり、治療を行ったりしていた。この様子は「いわゆるタリーカ」の姿に似ているが、西モロッコのターイファは国際的ではなく、地方に限定されたものであった。
 次の例はアブー・マドヤンの弟子にあたるアブー・ムハンマド・サーリフ・アル=マージリーが創設したターイファ・マージリーヤである。アブー・ムハンマド・サーリフはアブー・マドヤンの教えに忠実にしたがいながらも、ターイファ独自のユニフォームを導入した。これも「いわゆるタリーカ」の習慣と似ているが、このターイファも拡大せずに地方にとどまっていた。
 最後の例はタミーミー(d. 603-4/1208-9)の手による聖者伝からの情報である。この聖者伝には115人のスーフィー・聖者が記載されているが、ターイファや(組織としての)タリーカという語は登場しない。タリーカという語がつかわれるときにはスーフィズムの方法という意味においてである。しかしそこで描かれる集会の模様は「いわゆるタリーカ」と同じである。
 以上のマグレブの事例により、われわれが考えるタリーカという概念はマグレブのスーフィー集団には当てはまらないことが示された。それに伴い、イラク南部で発生した、「いわゆるタリーカ」をモデルにしたトリミンガムの発展段階説は少なくともマグレブのスーフィー集団には当てはまらないことも明らかになった。
 質疑応答では、発表者が用いたorganizationやinstitutionalizationといった語はどのような意味で使われているのか、タリーカ・タイプ(「いわゆるタリーカ」のこと)と非タリーカ・タイプのスーフィーはどのように異なるのかといった点が議論になった。ではいわゆるタリーカの意味でタリーカという語が(少なくとも普遍的に)使用できないのであれば、どの意味で使うのが適当なのであろうか。発表者は、その問いに対して、前近代のタリーカは、修行の手段、方法、神と一体になるための道という意味とともにassociationという意味で使った方がorganizationよりも実態に即していると回答した。本発表はタリーカの意味合いに直接切り込む大胆な発表であり、フロアからの反響が大きかった。
(茂木明石・上智大学外国語学研究科博士後期課程)