研究会・出張報告(2006年度)

   研究会

日時:2007年2月24日(土)12:00~18:00
場所:上智大学11-305室
参加者:32名

日本語要約:
○Daho Djerbal(ダホ・ジェルバール)氏(アルジェ大学)
「The Struggle for Algerian National Liberation and Islam」
「FLNとイスラーム―現代アルジェリアにおける政治と宗教の関係について」
 植民地時代
 1.植民地時代のアルジェリア社会における宗教的なものの影響力
 アルジェリア社会は昔から、スーフィー教団、サークル、アソシエーションの濃密なネットワークに縁取られてきた。中央権力との関係においては、これらの宗教組織の態度は、同化から反逆まで、様々であった。
 20世紀前半の間、宗教的な過去の遺産は、あらゆるところに見ることが出来た。植民地化によって伝統的な共同体構造が破壊されればされるほど、宗教的所属によって規定される共同体は、重要性を増しさえした。
 ◆都市部
 スーフィー教団のネットワーク、公認説教師、イスラーム改革主義サークル
 伝統都市は宗教人にとって、特権的な場であった。スーフィー教団は職業ギルドのネットワークと深く結びついて、都市民たちの生活の重要な構成要素であり続けており、宗教人が権力者と結びついて、カーディー、イマーム…といった宗教的ないし行政的な公職を支配する事態は、オスマン朝時代から、フランスの到来後も見られた。
 しかしながら、大戦間の時代に、この旧来の秩序が根底から覆された。東アラブから来たイスラーム改革主義の波は、アルジェリア・ウラマー協会[アブドゥルハミード・イブン・バーディースにより1931年に創設]に代表される、新しい世代の宗教知識人をもたらした。
 1920-30年代のイスラーム改革主義運動は、アソシアシオン、サークル、新聞、アラビア語とイスラームの教育活動などを通じて、旧来の宗教の代表者やスーフィー教団に異議提起しつつ、知的ヘゲモニーを獲得することを目指した。
 1936年のムスリム会議[略年表参照]への参加や、その周辺的な組織(青年団、ボーイスカウトなど)を通じて、改革派ウラマーは次第に政治的な領域に踏み込んでいく。
 ◆農村部
 ザーウィヤとマラブート
 農村部や山岳部では、ザーウィヤとマラブート[ムラービトゥーン、修道士]が大きな影響力を持っており、結婚・離婚をはじめ地域住民の生活全般を支配していた。
 こうした状況で、新しい世代の文化的・言語的・宗教的人格とアイデンティティを代表するイスラーム改革主義は、主に大商人などに支持され、新市街の住宅地などに、学校、サークル、宗教施設を建設し、勢力を広げていった。
 1940年代から1954年までに、都市部と同様に農村部でも、改革派ウラマーの影響力は、PPA-MTLDの活動家にとって、もっとも乗り越えがたい障害となっていた。
 2.民衆支配をめぐる闘い
 ◆独立派ナショナリストの社会的特性とイデオロギー
 独立派ナショナリズムは、フランスにおいて、移民たちの中で生まれた歴史を持つゆえ、独立派ナショナリストの大部分は、西洋文化に親しんだフランコフォンである。アラブ民族主義は知られていなかったわけではないものの、少数派にとどまっていた。1930年代初めにアルジェリアの地に根付いた際、のちのPPAに具現される独立派ナショナリズム運動の周辺に集まったのは、地方または都市出身の貧しいプロレタリア、具体的には輸送業の従業員、小商主、季節労働者、単純労働者などだった。独立派は、都市郊外を中心に影響力を広げた。
 ◆急進派ナショナリストと穏健派宗教勢力の主導権争い
 都市部の大衆に対する主導権を独占しつつあったPPAの活動家たちは、1947年とそれ以降の地方選挙で勝利を収めた。このころになると、社会の思考と行動の重心は、宗教的領域から政治的領域へと、次第に移行しつつあった。PPA-MTLDは、改革派ウラマーの影響力に対抗し、大衆を惹き付けるため、学校やモスク、アソシアシオン、サークルを創設し、ジハードなどの宗教的な言説を利用した。
 他方で改革派ウラマーは、ファラハート・アッバースに代表される、親仏的な穏健派を支持していた。1946年のフランス国民議会選挙ボイコット[ウラマー、アッバースら穏健派、独立派PPAの三派を同盟させた1944年3月のAML結成以来、PPAと穏健派はともに選挙をボイコットしていたが、1946年4月にアッバースが独自の党UDMAを組織し、国民議会選挙に参加したことにより、独立派ナショナリストと穏健派の大同団結は崩壊した]の際に、ウラマーとPPAとの間に起こった対立に見られるように、独立派ナショナリストが国全体を独立戦争に巻き込んでいくためには、改革派ウラマーと、彼らの穏健派との連合は障害であった。
 改革派ウラマーとナショナリストとの関係は、地域によっては必ずしも敵対的ではなかったものの、独立戦争を通じて、政治的なものと宗教的なものの関係には、こうした曖昧さがあったのである。
 アルジェリア独立戦争における宗教的要因
 1.FLN/ANLとイスラーム改革主義運動指導者の矛盾に満ちた関係
 ◆共同体的要因と政治的要因の地域により異なるバランス
 数少ない研究と手記、証言によれば、独立戦争における宗教的なものと政治的なものの関係には、地域による大きな偏差が見られた。
 オーレス山地やカビリー山地、Babors山地やトレムセン山地などは、初期の武装抵抗運動の砦となった地域であり、スーフィー教団の支配力が維持されていた農村地域であった。こうした地域のうち、フランスの植民地支配に抵抗した教団の影響下にあった地域ほど、FLNの武装闘争を支持した、という仮説も提起しうる。コンスタンチーヌ県北部のMedjanaやスンマーム峡谷などがその例である。いずれにしても、共同体的帰属感情と宗教的帰属感情は同時に機能しうるものである。Mohammed Harbiは、地方における武装抵抗運動の展開について、宗教的要因よりも共同体的要因を重視している。
 イスラーム改革主義が勢力を伸ばした都市部においては、FLNと改革派ウラマーとの間の緊張関係が続いた。ウラマーがナショナリストを敬遠し、穏健派との同盟を好んだことが、1955年8月20日、Zighout Youcefとコンスタンチーヌ県北部の司令官の決定で、改革派ウラマーが物理的に攻撃されるという事態をもたらした。
 ◆第三ウィラーヤ、第二地区:政治的・軍事的・スーフィー教団的位相の錯綜
 カビール地方、スンマーム峡谷と周辺の山地では、1954年以降、スーフィー教団のネットワークが独立戦争の展開に大きな役割を果たした。ザーウィヤ、モスク、マドラサが、FLNの会合の場となり、ムジャーヒディーンの隠れた活動の場所になった。
 ◆FLN指導部とマキ指導者の見解の相違
 1955年8月から1956年8月(スンマーム会議)の時期にかけて、ピエール・マンデス・フランスやジャック・スステルといったフランス側の指導者は、穏健派のナショナリストを取り込み、フランス主導でアルジェリアに段階的な独立を与えようと試みた。こうした事態を受け、改革派ウラマーを含む穏健派ナショナリストへの対処をめぐり、地方におけるFLNの地下組織運動の指導部と、アルジェのFLN指導部との間に見解の相違が見られた。
 1955年8月20日、コンスタンチーヌの穏健派エリートと改革派ウラマーが襲撃され、死傷者が出た事件は、急進的武装闘争運動がその中で疎外されるような、親仏的で中間的な解決をもたらす分子を事前に抹殺しようとする、地方のマキ指導者によるものだった。
 これに対し、Abane Ramdaneを指導者とするアルジェのFLN指導部は、あらゆる政治的・社会的勢力をFLNの下で連合させようとした。Abaneは、地方マキによる襲撃の標的となったウラマーを庇護し、Kheireddine、Tewfiq el Madaniなどのウラマー協会指導者が、FLNの支部代表として海外に派遣された。スンマーム会議後は、ウラマーがAbaneによって司令官に任命される例も見られた。こうして、ウラマーを含め、独立派ナショナリストとは本来敵対関係にあった政治的思想の持ち主が、FLN/ALNの軍事ヒエラルキーの階梯を登りつめるという事態が生じた。しかしながら、PPA-MTLDの政治的教育を受けたマキの闘士たちと、イスラーム改革主義者たちの間の、イデオロギーにおける齟齬という問題は残ったままだった。
 結論
 アルジェリアにおいて、宗教的なものが歴史の長期持続において持ち続けてきた重要性に比べれば、1930-40年代に始まり、独立戦争を頂点とする政治運動の歴史はごく新しいものである。20世紀前半を通じて、あらゆる政治的イデオロギーは、大衆の歓心を買うために、改革主義ないし伝統主義の宗教的勢力と折り合いをつけ、宗教的言辞を用いざるを得なかった。
 1954年の11月1日蜂起を率いた勢力は、こうした平和的な競合の伝統を初めて打ち破り、武力によって彼らの意志を示した。しかし、戦争が全国に拡大し、FLN/ALNの創設者たちが投獄・亡命といった困難な状況に陥るにつれて、政治・宗教的な旧勢力がFLN内部を昇進し、彼らの思考を次第に浸透させていったのである。FLN/ALN司令部を揺さぶった数多くの危機は、政治的なものと宗教的なものとの、こうしたせめぎあう関係の満ち引きという観点から見直すことが出来る。しかしながら、独立後、少なくとも20年間の間は、時代は11月1日蜂起の指導者たちの味方であり、宗教人たちは、武装闘争に真っ先に賛同しなかったことへの付けを払わされることになった。
(渡邊祥子訳、[]内は要約者註/渡邊祥子・東京大学大学院総合文化研究科博士課程)