2011年度第1回研究会報告(2011年7月23日/上智大学)4/5
「現代スーダンにおけるスーフィズムとイスラーム主義―タリーカと政治との関わりを中心に―」
発表者:丸山大介(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程)
丸山大介氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程)による発表は、「現代スーダンにおけるスーフィズムとイスラーム主義―タリーカと政治との関わりを中心に―」というタイトルに象徴されるように、現代スーダンにおいてスーフィズムとイスラーム主義の両者がどのような関係をとり結んでいるのか、タリーカとしてのルカイニーヤ教団を事例に考察するものであった。発表の目的は大きくわけて2つあった。第1に、1989年以降2011年までの政府(北部・国民会議党)とタリーカとの関係につき、政策におけるスーフィズム・タリーカの位置づけを概観し、スーフィズム・タリーカを巡る政教関係の諸相を明らかにすること、第2に、タリーカ・スーフィーヤ・サラフィーヤを自称するルカイニーヤ教団を具体的事例として取り上げ、スーフィーとサラフィーの中道を標榜するタリーカにおける中道概念を探ること、である。
第1の目的について、丸山氏はまずスーダンが独立を果たした1956年以降のタリーカと北部政権の関係について歴史的な背景を説明した。そこでは、マフディー系を支持基盤とするウンマ党とハトミー教団を支持基盤とする民主統一党という二大政党を前提に、イスラーム憲章戦線といったイスラーム主義勢力の台頭を受けて、ヌマイリー政権期(1971-1985)には上記二党に対抗する目的でその支持基盤としてハトミー教団以外のタリーカが優遇され、その政治的影響力が増していったことが指摘された。そして1986年4月の選挙でウンマ党が第一党に選出されて第三党の国民イスラーム戦線との結びつきを深めた後、後者が1989年にクーデタを起こして現在にまで至る政権を樹立し、その過程でハトミー教団以外のタリーカと連携を強めていったことが指摘された。
また南部スーダン(現・南スーダン共和国)との関わりに関する歴史的背景の説明の下りでは、アラブ・イスラーム対アフリカ・キリスト教という大まかな南北構図のもとに独立前後から内戦が続けられ、その過程で民族的・宗教的対立を利用した政治的弾圧がおこなわれたこと、また2005年に国民会議党(NCP)とスーダン人民解放運動(SPLM)との間で包括的和平協定が結ばれることで、両者を頂点とする独裁体制と北部におけるイスラームの政治利用が可能になったこと、そして2010年の総選挙では、各タリーカが政権(NCP)を支持する中で北部ではNCPが、南部ではSPLMが勝利を収め、2011年のレファレンダムによって南部独立が確定し、7月9日に南スーダン共和国として独立が達成された経緯を明らかにした。以上から丸山氏は、タリーカが歴史的に政権運営や政党選挙において重要な役割を果たし、現代スーダンの政治動向に密接に結びついている点を指摘した。
第2の目的については、「第一部 現代スーダンにおけるスーフィズム・タリーカとイスラーム主義との関係」と「第二部 タリーカにおける中道概念」の2セクションから考察を行うものであった。第一部では、シャリーア施行に基づきイスラーム国家の建設を目指す現政権のイスラーム主義運動の文脈におけるスーフィズム・タリーカの実像について、ハサン・トゥラービーの『スーダンにおけるイスラーム運動―発展・達成・方法』の丁寧な読解から分析を行った。そこではまず、近代的なイスラーム運動と対置されるかたちでスーフィー・タリーカがサラフィーとともに伝統的セクターに位置づけられ、シャイフへの盲従や過度の儀礼などといった側面がイスラームからの逸脱(ビドア)として否定的に評価される一方、イスラームの普及を促した教育面での役割、自己犠牲の精神を高揚させるといったジハードへの親和性が指摘され、シャリーア施行やイスラーム国家確立=イスラーム運動への貢献が確認され肯定的にも評価されている点が確認された。丸山氏によると、トゥラービーはスーフィズムやタリーカの勢力を一概に否定せず、むしろイスラームの統一やイスラーム運動の強化のために積極的に取り込みを図る対象として位置づけているという。
しかし、この時に取り込みが図られるスーフィズムやタリーカは、ある種の改革を経る必要が求められた。丸山氏はこの点を「タアスィール」と「ズィクルの民」という概念を中心に考察を行った。「タアスィール」は1970年代から登場したスーダンのイスラーム論を包括的に特色づけるキータームであり、クルアーンやスンナに依拠したイスラームへの原点回帰を意味する。そのような原点志向のイスラーム論の台頭を受け、スーフィズムもまた原点に返す必要が説かれ、この時に「ズィクルの民」という概念・用語が導入されたという。「ズィクルの民」とはすなわち神を想起する人々=ムスリムのことである。丸山氏によると、「ズィクルの民」という用語導入の背景には、①救国革命を背景としたイスラーム計画において、ズィクルが精神の治療や浄化の手段として位置づけられ、汚れたイスラームから元の清浄なイスラームへの回帰の象徴として機能すること、②ズィクルという語の使用によって、新旧の区別やイスラーム主義とスーフィズムという区別が無化されること、③ズィクルの民のもとでの連帯が説かれることで、南部に対するジハードへの動員が図られることがあったという。またこの時「ズィクルの民」として想定される人々として、スーフィーやクルアーン学者などズィクルに直接関係のある人々やモスクやハルワの建設に尽力した人々など間接的に関係のある人々が仰がれる一方、ヌマイリーやバシール、トゥラービーといった政治家あるいはイスラーム普及に貢献した人々もまた『ズィクルの民辞典』に登場して「ズィクルの民」に数え上げられるという。
以上のような理念を備える「ズィクル」の民がスーダン政治において具体的に可視化したのが、1993年に開催された「ズィクルとズィクルの民に関する国際会議」と1995年に設置された委員会「ズィクルとズィクルの民国民評議会」である。前者については、クルアーンとスンナに基づきズィクルの重要性を説くという趣旨のもと、イスラーム計画の一環(タアスィールの完遂)、現政権への支持、シャリーア国家建設の希求を国内外へアピールすることを目的に開催されたもので、そこではスーダンにおけるズィクルの民の連帯及び個人→社会→国家という段階主義的なイスラーム運動の政治的方針が確認されたという。他方で後者については、政権に対するスーフィーの支持を集める政治的目的のもとに宗教指導者省管轄下に設置されたもので、そこでは関連する雑誌や本の出版、タリーカへの支援、他国シャイフのスーダン訪問の支援が行われているという。ここで丸山氏によると、「ズィクルとズィクルの民国民評議会」が設置される過程で、「ズィクルの民」の間で団結・連帯を図る第一段階と「キブラの民」の間で団結・連帯を図る第二段階から構成される二段階論が定式化されたという。第一段階においては南部とのジハードを想定しムスリムとしての団結を説くことで、イスラームと非イスラームとの区別を明確化する一方、第二段階においてはスーフィーを連想しやすいズィクルではなく礼拝と結びつけることで、ムスリム間の差異を最大限まで解消し、イスラームの一体性を強く志向するものであるという。
こうして丸山氏は、第一部について、①ズィクルの民という包括的な概念の導入には、ムスリム内の差異をズィクルの名のもとで解消し、イスラームのもとでの統一を促す意図が認められること、②ズィクルの民からキブラの民へという二段階論の定式化により、ズィクルに起因するスーフィーのニュアンスが消え、イスラーム主義者、スーフィー、サラフィーなどのさまざまな属性を一括することのできる中立的あるいは中道的な概念へと変容し、ムスリムとしての一体性をさらに強調する論理へと展開していった、と報告をまとめた。
続く第二部においては、第一部における議論を前提に、現代スーダンに存在するタリーカであるルカイニーヤ教団を具体的事例として、スーフィーとサラフィーの間で揺れ動くタリーカの中道概念について考察と分析がなされた。ルカイニーヤ教団は原点回帰の心と再生の精神を結合した中道の方法をとるスーフィー・サラフィー教団を標榜し、自称として「中道」概念を用いる特色を持つ。教団の発祥については、その祖を初代シャイフ、ムハンマド・アフマド・ルカイニー(1887-1964)にもち、同シャイフが1918年6月23日にタリーカを開く許可をアッラーから得ることから始まる。ルカイニーヤ教団誕生の歴史的経緯は、より具体的には、ムハンマド・アフマドが夢の中で直接アッラーとムハンマドからイスラームに関する知識とタリーカ開設の許可を得たことに由来し、ゆえに同師はアッラーが直接選んだシャイフと位置づけられ、同師を頂点とする教団は神が選んだ教団とみなされている。そこでは、他のタリーカとの血縁的・道統的な接点はなく、アッラーとムハンマドとの直接的な関係が強調されているという。そしてムハンマド・アフマドを初代として代々シャイフ位が継承され、タリーカの規模も拡大し、1992年には首都ハルツームにもザーウィヤを開設するまでに至っている。
ここで丸山氏は、同教団におけるタサウウフとサラフの関係について考察を試みる。それによると、同教団におけるタサウウフの解釈はその教育的側面が重視され、預言者とその教友を模範としたイスラームの方法に基づいた教育、またサラフの方法に基づく教育が志向され、それらの教育を施されたスーフィーは完全なムスリムとして認められるという。また丸山氏によると、サラフに沿った教育は内面の教育に特化され、時代により変化する生活様式などの外面よりも重視されており、ここにおいて従来のイスラーム研究で一般的な「サラフィー:外⇔スーフィー:内」という概念図式が転倒しているという。
さらに、丸山氏はルカイニーヤ教団と他のタリーカとの差異について、①ズィクルとファナーの解釈、②預言者との関係、スィルスィラ論、女性の立場、という2つの立場から説明を行った。第1のズィクルとファナーの解釈について、まず前者のズィクルからみると、同教団はクルアーン39章23節を根拠にズィクルの重要性を説く一方、後者のファナーについては、僕が自己の目的を神が求めるものへと置き換える、すなわち自己の目的から神の目的へと脱し、神の目的のみを目指すことと定式化されており、神との合一という伝統的なファナー概念から離れている点が指摘された。同時に、ズィクルやファナーの主体がアッラーに忠実なムスリムであるという倫理的な側面がハディースを基に強調されてもいるという。
第2の預言者との関係、スィルスィラ論、女性の立場については、まず同教団は預言者との直接的な結びつきを強調しており、上述のように初代シャイフは神に選ばれ、ムハンマドから直接知識を与えられたとみなされていることの他、聖者祭は開催せずに預言者生誕祭に集約されること、またスーダンによく見られるドーム型聖者廟ではなく墓所がつくられる傾向があることが指摘された。またスィルスィラについては、同教団はそれを必要と認めておらず、あくまでも神や預言者との直接的なつながりのみが強調されてシャイフの一系列を過大評価するものではないことが指摘された。最後に同教団では、宗教実践の場では男性と女性の領域が明確に区切られており、ここにはサラフ的要素が認められると丸山氏は指摘した。
以上から丸山氏は、第二部の報告について、ルカイニーヤ教団においては①タサウウフが完全なムスリムを養成するサラフ(ムスリムの規範)に基づく教育として位置づけられている点、②スーフィズムとサラフィズムは単に関係しているというよりもムスリムへの教育の根拠として相互に依拠し、相補的な関係をとり結んでいること、従って③スーフィー・サラフィー両極の間に位置する保守・穏健という立場よりも、スーフィーとサラフィーを方法論的に混淆させた結果、イスラームの真ん中の、正しい道を歩んでいるという主張の強い点が認められる、ということを指摘して総括した。