Moch Nur Ichwan氏講演会(2011年2月28日/南山大学)
場所:南山大学名古屋キャンパスL館910会議室
発表:Moch Nur Ichwan氏(スナン・カリジョゴ国立イスラーム大学)
"Secularism, Islam and Pancasila: Muslim Debates on Secularization in Indonesia"(使用言語は英語。通訳なし)
Much Nur Ichwan(モフ・ヌル・イフワン)氏は、インドネシアのイスラーム化を制度的側面から論じた著作をもつインドネシア人の研究者である。本講演は、世俗化/世俗主義をテーマに、それがインドネシアのムスリム知識人間においていかなる形で論じられてきたのかを考察するものであった。概要は以下の通りである。
インドネシアには独立以来の国家原則パンチャシラが存在する。パンチャシラは、「唯一の神」への信仰を国民に課しつつ、民主主義や人道主義などの近代的・世俗的価値を掲げている。特定の宗教を指す文言は含まない。インドネシアで国家と宗教の関係(政教関係)をめぐる論争は、この国家原則をどう解釈し、位置づけるかという問題に焦点が集まってきた。世俗化/世俗主義は、その論争の中で一部の知識人が思弁的に用いる概念である。以上を述べた上で、Ichwan氏は、①現実の制度としてのパンチャシラ、②思弁的概念としての世俗化/世俗主義が、多様な知識人によってどう語られてきたかを明らかにした。
インドネシアの政教関係を考察する上で出発点となるのは、スカルノ(初代大統領)とアフマド・ハサン、モハンマド・ナシールの間で独立前に行われた論争である。スカルノは、「イスラームを生かしめるため、国家を強くするため、イスラームと国家を分離する」というケマル・アタテュルク(トルコ)やアリー・アブドゥッラーズィク(エジプト)の政教分離思想に影響を受けていた。そして彼は、「イスラームは人間の全生活を規定する包括体系である」という教条を掲げてイスラーム国家建設を志向するハサンやナシールらの宗教的リーダーと対立した。
両者の政治的優劣は、日本軍政末期に開かれた独立準備の諸会議において明らかとなる。議論と交渉の結果、スカルノの考案に沿ったパンチャシラ(現行のパンチャシラ)が国家原則となることが確定し、ナシールらのイスラーム国家構想は実現を阻まれた。ただし、後者は一方的に退いたわけではなく、宗教省設置などの制度的譲歩を前者から引き出しもした。また、パンチャシラの内容を確定させる際の議論において「ムスリムの住民はイスラーム法に従う」という意味の文言を挿入した草案(ジャカルタ憲章)が採択寸前まで進んだ経緯があり、同案の再生を目論む勢力が以後のインドネシアではたびたび声を強めることとなる。
パンチャシラを擁護する動きとして、スハルト政権期(1966-98)には、在野の知識人の間で、宗教学的見地からこの国家原則の妥当性を論じ、政治的イスラームを拒否するアプローチが見られた。とりわけ有名なのが、ヌルホリス・マジドの「世俗化」論である。ヌルホリスは、厳格なイスラーム教育を受けつつも、渡航・留学経験を通して(とくにアラブの「遅れ」を目の当たりにすることによって)、国家と宗教の分離を支持するようになった。彼の言う「世俗化」とは、イスラームの非聖化と世俗社会への血肉化を意図するものであり、宗教を軽視する世俗主義の否定とともに成り立っていた。彼の考えは、多数の知識人や学生を引きつけたが、同時に、「世俗化」と世俗主義の違いを認めない保守派の強い反駁も受けた。
スハルト政権崩壊後の民主化によって、国家と宗教をめぐる知識人の言論は多極化した。大きな動きとしては、まずリベラル・イスラーム・ネットワークの設立があった。イスラーム教育を受け、聖典の知識を有しながら、形式にとらわれることなく、人権や自由などの普遍的価値を重視するムスリム知識人によって形成されるこのネットワークは、ヌルホリスらの思想の流れを汲んだものだといえる。しかし、活動の目的を宗教ではなく、貧困や差別、マイノリティーの保護などにおくため、彼らの言論はしばしば世俗主義を支持するように映る。
民主化後のもう一つの大きな現象は、政治的イスラームの再活性化である。イスラーム法適用のためのデモやイスラーム国家建設の要求、ときに暴力やテロリズムと、現象の幅は広く、行為主体となる団体も多様である。その流れの中で広範に現れたものの一つが、現行のパンチャシラへの批判や、パンチャラそのものを否定する言論であった。このことによってパンチャシラは危機に晒されているといえるが、他方で、ナフダトゥル・ウラマーやムハマディヤといった大規模団体がパンチャシラへの適応をめざしてきてもおり、現在の論争をきっかけに、パンチャシラが新たな吸引力や活力を得る可能性もある。
文責:佐々木拓雄(久留米大学法学部准教授)