2009年度第4回研究会報告(2010年2月21日/南山大学)
「インドネシアの”政教分離”―Snouck Hurgronje再考―」
発表者:小林寧子氏(南山大学教授)
参加者:6名
今回の研究会では、インドネシア社会の世俗化と世俗主義、正確には同国の政教分離を考究の対象とする際の切り口として、オランダ植民地支配下(19世紀末から1941年まで)のインドネシアにおいて、ムスリム問題の管理・統括を行う原住民問題顧問官であり、同時にオランダを代表するオリエンタリストとして知られる、Christian Souck Hurgronjeのイスラーム政策の再考を行った。
オランダの植民地政策は、1873年にスマトラ島西部で起こったアチェ戦争が長引いたことからもわかるように、19世紀後半以来行き詰まりを見せていた。アチェは、元来海賊勢力が乱立して不安定な状況にあったところに、イギリスの進出を警戒したオランダが一早く植民地経営に乗り出した土地柄でもあった。そのような状況下で、オランダは具体的な植民地政策の見直しを迫られていた。
Souckは、宗教に対しては比較的寛容な政策を打ち出すが、政治運動には断固とした姿勢を示した。1901年に始まった倫理政策においては、進歩派植民地官僚の養成にも乗り出し、バンテン州ブパティ家系出身のHusein Djadiningratを、実験的にライデン大学に留学させて、東洋史で博士号を取得させるなどした。オランダの植民地法制度を一方的に押し付けるのではなく、イスラームの制度も一部認めて実施させた。たとえば、婚姻・離婚・相続問題などの審理を行う宗教裁判所Rad Agamaを設置させるなど、トルコにおけるシャリーア法廷とニザーミーヤ法廷のような形でイスラーム法を適応した。これが、政教分離を論ずる上では重要な点となることを指摘した。
1910年代に入ると、近代イスラーム運動が改革派と伝統派に分かれて勃興すると、イスラーム法と東南アジアにおける慣習法であるアダットの成文化を提唱する。現代でも問題となる、インドネシアにおける国家とイスラーム、さらには政教分離をめぐる大枠は、既にこの時代に出来上がっていたと指摘した。
文責:若松大樹(日本学術振興会特別研究員PD)