2009年度第3回研究会(2009年10月17日/大阪市立大学)
参加者:7名
報告者①:光成歩
「マレーシア司法制度における世俗とイスラームの配置:「改宗問題」と管轄問題から考える」
報告者②:小河久志
「「世俗化」と「再イスラーム化」のはざまを生きる:タイのムスリム・マイノリティ」
報告①:
光成氏の報告では現代マレーシアにおける「改宗」問題を、イスラーム司法制度の成立過程を歴史的に概観した上で、世俗的裁判所の憲法解釈を軸に考察した。報告によると、マレーシのイスラーム司法制度はコモン・ローに基づく近代的な法の概念が既存の法的諸規範を吸収することでその地位を確立し、同時にイギリスによる植民地統治期以降導入された世俗的法制度の下位に位置づけられた。後に1980年代の改革によりその独立性が認められ、世俗的司法制度と並ぶ二元的司法制度が成立すると、近代的司法制度に準じたさらなる発展が目指された。一方、連邦裁判所とその下位裁判所から成る世俗的裁判所は、憲法の規定はイスラームをあくまで儀式・儀礼的文脈において遵守されるべきもとしているとし、踏み込んだ議論には一定の距離を保ってきたと指摘した。また報告の後半では近年顕在化しているイスラームから、あるいはイスラームへの「改宗」問題をめぐる係争における議論の推移を、過去の判例を例にとって検討した。それにより1980年代に行われた「改宗」をめぐる裁判は、主に憲法において定められた「信教の自由」を軸に議論が進められていたが、1990年代に至り、「改宗者」の「再改宗」あるいは「棄教」をめぐって、世俗的司法とイスラーム司法の管轄問題が焦点となったことが明らかとされた。さらに2000年代における判例からは、イスラーム司法と世俗的司法の両制度が「改宗」問題を並行して扱うことにより宗教をめぐる議論が複雑化する一方で、マレー人ムスリムによる係争は宗教に関する憲法規定に対する新たな挑戦であると同時に連邦裁判所が下す判断はコンセンサス成立の不可能性を象徴していると考察した。そして最後に「改宗」問題に関する世俗司法、イスラーム司法両方間の管轄の不明確さは同国が抱える複数の民族集団への配慮とも考えられ、マレーシアの国家制度における世俗性とイスラーム性の均衡を崩すことは、マレーシア連邦の国としての正当性を損なう結果をも招きかねないものであると結んだ。
発表後に行われた質疑応答では「改宗」以外でイスラーム司法が主に扱ってきた問題に関して他地域を専門とする研究者からコメントが寄せられる中で、マレーシアのイスラーム司法の特徴がより浮き彫りになった他、マレー人ムスリムの現状について個別具体的な議論が交わされた。
報告②:
小河氏はタイの宗教マイノリティであるムスリムの「世俗化」と「再イスラーム化」の概況を、南部の調査村の事例考察を交えて報告した。タイは人口の9割を仏教徒が占め、仏教が事実上の国教として認められているが、同時に憲法において「信教の自由」も保障されており、政府が定める公認宗教制の管理のもと多くの宗教団体が国家公認で活動している。またタイのムスリムは、マレー系を中心に多様な民族的背景を持ち、とりわけ南部地域に多く集住している。これに対しタイ政府によるイスラーム政策は、ムスリムの国家統制を目的として文化省と内務省の管轄で行われ、ムスリムはその中央集権的組織の中で管理されている。特にイスラーム教育は、イスラーム寄宿塾ポーノ、モスク付設の宗教教室や国立小学校・中学校において、政府による資金・人材・教材などの支援と教育内容や学校経営への管理・規制とを同時に受けながら行われてきた。それらをふまえて小河氏は、1960年代以降に顕在化した再イスラーム化の背景が、グローバル化に伴う海外からの人、者、情報の流入の加速化や、経済発展、識字率の上昇などにあると指摘し、その動きは都市部から地方へ拡大していったと述べている。そして再イスラーム化の具体例として①1970年代後半から起きたヒジャーブ着用運動②1960年代頃から隆盛したタブリーグを中心とするイスラーム宣教運動③クルサンパン協会の活動によるイスラーム教育の普及を挙げている。とりわけ①と②の浸透にはタブリーグをはじめとした宣教組織の活動が深く関わっており、近隣諸国への配慮からとられたタイ政府による寛容な姿勢は、イスラーム復興運動を生じやすくしたとされる。また報告の最後では南部トラン県M村の事例を用い、タイにおける「再イスラーム化」現象が考察された。それによれば人口の全てがムスリムで占められる同村では近年、モスク付設宗教教室や公立小学校でのイスラーム教育の拡充と、タブリーグの活動の浸透からイスラームの民間信仰との共存するかたちでの宗教的実践が見られるという。以上のことから小河氏は、タイにおける「再イスラーム化」には、国が宗教を統制するという意味においての「世俗化」の動きが貢献しており、草の根レベルで活動するイスラーム宣教組織は、従来の民間信仰における現世志向をとりこみながらその影響力を増していると結論付けた。
質疑応答では、イスラーム以外の宗教マイノリティの実態や、「ボーノ」、「チュラーラーチャモントリー」などの語義について、積極的に質問がなされた。またタイにおける同様の研究が希少であることから、その今後の発展が望まれた。
終りに今回の両氏の発表を通して、本研究会で用いられる「世俗化」・「世俗主義」の概念が共通認識として定まっていないことが改めて確認され、その見直しが今後の課題としてあげられたことを付記しておきたい。
文責:千條真理子(明治大学)