海外出張報告(2008年11月/チュニジア)
出張期間:2008年11月
訪問地:チュニス
出張者:杉山佳子(上智大学拠点文科省イスラーム地域研究機構事務局RA)
2008年11月はじめ、チュニスに一週間滞在した。主な目的は、2008年11月5日、6日に開催された、教育博物館の開館を記念する国際シンポジウムに参加することであった。
教育博物館は、数年前にチュニジア文部科学省が創設した「教育方法の革新と教育関連の研究のための国立センター Centre national d’Innovation pédagogique et de Recherche en éducation」のなかに設立された。同センターは、チュニスのメディナを出てすぐのところ、文部科学省と4月9日通りをはさんで向かいあっており、国立文書館と裁判所のとなりに位置する。センター内に博物館を設立するプロジェクトは、チュニス大学歴史学教授のムフタール・アイヤーシュMokhtar Ayachi氏が中心となって進められてきた。私は、保護領期チュニジアの教育についての博士論文を準備していた頃にアヤシ氏を紹介され、教育博物館がチュニジア教育史研究の発展に果たす役割、さらには、チュニジア国家が独立以来重要視してきた教育事業の成果を象徴する場所としての意味をうかがっていた。そのため、何度か開館が延期されてきたこの教育博物館がいよいよオープンすることを知り、その記念シンポジウムに参加できることが決まったときには、大変うれしく思った。
教育博物館の館長に就任したアイヤーシュ氏は、チュニジア教育史研究の大家である。特に戦間期を中心に、チュニジアにおける植民地期の教育と現地ムスリム社会の変容を分析した論文を多数発表してこられた。2003年には『学校と社会』という大胆なタイトルで、近現代のチュニジアにおける教育の変遷を体系的にまとめた著作をチュニスで出版された。また、チュニスの大モスク、ザイトゥーナの諸改革は、氏が特に精力を傾けてこられたテーマであり、ザイトゥーナを拠点とする研究チームを指揮されている。氏はザイトゥーナ関連文書の管理責任者でもある。
アイヤーシュ氏が館長をつとめる教育博物館では、チュニジアの教育に関するあらゆる資史料を収集することを目指している。特に植民地期から独立前後にかけて散在してしまった史料を収集する作業には、文部科学省が全国の学校を動員し現在も進行中である。私も今回は、チュニジア各地の小学校などに眠っていた植民地期の史料を閲覧させてもらった。若手を中心としたスタッフが、史料の収集、分類、整理の作業に大変忙しそうであった。
この博物館が設立される前には、植民地期チュニジアの教育関係史料の多くが国立文書館で保存されていたが、分類のわかりにくさや目録と内容の不一致、目録に登録されていない史料があること等のため、決して使いやすいとはいえない状態であった。加えて、文部科学省の一室でも未分類の関係史料を保存しているという状況であった(私はかつて、さまざまな方のおかげでこの部屋にアクセスできたのだが、通常は公開されていない)。今後は、これらの史料がすべて教育博物館に統合される方向のようである。
ちなみに、植民地期チュニジアに関する史料の多くは、独立以降フランス当局が本国に持ってゆき、現在はパリとナントにあるフランス外交文書館に保存されている。しかしながら1990年代には、チュニジアとフランス両国が同意して、チュニジア関連文書をチュニジアに「返す」事業が推進された。その結果、現在では、チュニジア人が植民地期のチュニジア史を研究するためには、チュニス郊外にある国民運動史高等研究所Institut Supérieur d’Histoire du Mouvement National (ISHMN)で多くの史料を閲覧できる(しかしながら、これらの史料はコピーであり、オリジナルはフランスで保存されている)。
さて、「チュニジアの教育に関する1958年11月4日法制定から100年を記念する祭典プログラム」と題されたこの国際シンポジウムでは、10人の研究者および教育行政関係者による報告がおこなわれた。シンポジウムは教育博物館の開館を記念すると同時に、1958年当時文部大臣であったマフムード・メスアディーMahmoud Messadiによる教育改革100周年を記念するものでもあった。
メスアディーは、チュニジア共和国初代大統領となったブルギバとともに独立運動を戦った。やはりブルギバ同様にコレージュ・サディキでアラビア語、フランス語のバイリンガル教育を受け、ソルボンヌに留学している。新生独立国家チュニジアにおいて、1958年から68年まで文部科学省を率いた。メスアディーによる教育改革は教育の「民主化」を目指すと同時にアラビア語、フランス語によるバイリンガルの教育方針を打ち出した。ただし、小学校の1、2年ではすべての教育をアラビア語のみで行い、アラビア語教科書を改善させ、クッターブを廃止しザイトゥーナをチュニス大学に統合するなど、アラビア語教育の改革と充実につとめた。
しかし、今回のシンポジウムでは、メスアディーの業績が正当に評価されていたとは思えなかった。私は植民地期のフランス当局およびムスリム改革主義者による初等教育改革について報告した。他の参加者のなかには、チュニジアの文化的多様性をたどるためにローマ時代、フェニキア時代にさかのぼりながら、チュニジアに住んでいたユダヤ教徒やヨーロッパ人の存在には触れない報告や、アラビア語による教育の改善を重視するあまり、メサディやブルギバが考えたところの「近代」を導入するためのフランス語という側面(「両刃の剣」ではある)と、植民地権力を代表するところのフランス語を混同するような報告も見られた。
文責:杉山佳子(上智大学拠点文科省イスラーム地域研究機構事務局RA)