Diversity and Unity in Colonial Religious History

(多様と統一:植民地時代アメリカの宗教)

 

Shitsuyo Masui*

 

 

SUMMARY: Sydney Ahlstrom observes that there are "diverse denominational forces" within the "mainstream" as well as "varying responses of groups outside" to the Anglo-Saxon Protestant establishment in American religious history. Ahlstrom's attention to diversity in American religious tradition is especially true when we look at the history of religion in colonial America. Although Puritan experiments both in Plymouth and Massachusetts Bay dominate the historical discourses of the period, Catholics in New Spain and in New France preceded the Puritan migration by more than one hundred years. The Middle Colonies housed such diverse Protestant groups as Dutch Reformed, Presbyterians, and Lutherans from continental Europe enabling them to establish their religious diasporas. Even in rather homogeneous Puritan colonies, Quakers and Baptists as well as other radical dissenters constantly challenged the Puritan attempts to put the ''New England Way" into practice. Focusing upon the diversity of colonial religion, this article also deals with the major factors for consensus-building among the various religious and ethnic groups at the time of the American Revolution.

 

はじめに

 

多民族社会であるアメリカ合衆国は多文化社会でもある。宗教は文化と深くかかわる性質上、多文化社会の宗教は、多様性を持つ。しかし、社会共同体である以上、そこには中心的な、基層文化とそれと深く関わる宗教がある。その役割は、アメリカの場合、歴史的にプロテスタンティズムが担ってきた。それでは、アメリカのプロテスタントの歴史を辿れば、アメリカ精神の系譜が明らかになるかというと、実際は、さほど容易ではない。アメリカのプロテスタントの歴史は、「ディセンター」と呼ばれる、公定教会に異議を申し立ててイングランドや大陸ヨーロッパを後にした人々の移住を中心に始まる。アメリカに渡ったプロテスタント達は、移住した各地域に自分達が理想とする教会、あるいは教派(denomination)の教会を建てて行った為、必ずしも同じ信条でまとまっていたとは言えない。

歴史家のシドニー・オールストロムはアメリカの宗教的な多様性について、その著書『アメリカ人民の宗教史』(A Religious History of the American People, 1972)の序文で言及し、公の宗教を一枚岩的にとらえることにより「アメリカ的伝統」を単一なものとして語ることの危険性を指摘している。「国家的な経験は国民の特異な宗教的衝動を象徴するものであり、確かに、白人アングロサクソン・プロテスタントは(アメリカにおいて)長期に渡って覇権を握ってきた。しかし、<主流>の内部には、多岐に渡る教派の流れの歴史があること、また、<疑似的公宗教>の外部でも、多様な応答がひしめいてきたことを合わせて考察する必要がある」と、オールストロムは言う。それでは、多民族により構成されたアメリカの宗教の多様性とはどのような性質のものなのか、また、公のレベルでのコンセンサスはどのように獲得されていったのか、ここでは焦点を植民地時代に当てて考察する。コロンブスが新大陸を「発見」し、ヨーロッパ人がアメリカ大陸への進出を始め、英国領植民地がそれぞれに成立する独立革命前夜までの宗教的状況を、アメリカ精神の系譜との関わりから見ていく。

 

 

一、ヨーロッパの植民地建設と「キリスト教国」の拡大

 

1       植民地に移入された宗教

 

ワスプ(WASP)、すなわち、アングロサクソン・プロテスタントがアメリカの基層文化を担う宗教であるといった覇権の確立は、少なくとも植民地時代初頭のアメリカ大陸ではまだ、達成されていなかった。植民地時代のアメリカ大陸は、宗教的に非常に多様な場所であった。ヨーロッパ人が新大陸への進出を始めた15世紀、プロテスタント諸国に先行して、新大陸にはニュースペイン、およびニューフランスといったカソリック国の植民地が誕生する。西仏両国の進出した地域ではインディアンヘのカソリック宣教が精力的に進められた。

カソリック諸国におよそ百年以上遅れて、英国領植民地ヴァージニアに英国教会(アングリカン)がもたらされる。続いて東部ニューイングランドのプリマスとマサチューセッツの両植民地には、程度の差はあるが、国教会からある程度距離を保ったフリーチャーチ的なピューリタン諸派が入植する。オランダ領ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)にはオランダ改革派が入植し、ペンシルヴァニアには、フィラデルフィアを中心としてピューリタン急進派のクェイカー、デラウェアにはスウェーデン系ルター派、また、ロングアイランド、ニュージャージー、ペンシルヴァニア等の中部植民地にはスコットランド系、あるいはスコッチ・アイリツシュ系長老派(プレスビテリアン)の人々もそれぞれ入植する。

スペイン、フランスに続いて、やがてイングランドが新大陸での覇権を確立することになると、次第にアメリカ大陸では英国系プロテスタントが主流派となって行く。しかし、それ以前にローマ・カソリック国、スペインとフランスによる宣教はかなりの規模でおこなわれていた。また、アメリカ建国神話に好んで持ち出されるピルグリム・ファーザーズがメイ・フラワー号でプリマスに到着する前年の1619年には、オランダ人貿易商により、最初のアフリカ人がヴァージニアに送られた。アフリカ系黒人のアメリカ大陸での歴史は、実はピューリタンの歴史と同じ頃に遡られるのである。アフリカからの土俗宗教、インディアン諸部族の宗教と合わせ、カソリック、プロテスタント諸教派の移入された植民地時代のアメリカは、宗教的に多様な様相を呈していたことが理解される。

 

 

2 「キリスト我国」ヨーロッパの拡大とコロンブス

 

スペイン王の援助を受けたイタリア人クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus14511506)がアメリカ大陸を発見した1492年は、スペインでは宗教的には別の出来事で記憶される。この年、キリスト教への改宗を拒むユダヤ教徒がスペイン国外に強制追放された。悪名高いスペイン異端審問(Spanish Inquisition)により、ローマ・カソリック以外の門徒が激しい迫害にさらされ始めるのがこの頃からである。

スペインの異教徒への激しい敵対心は、対イスラムの長年の戦いの歴史により培われたものである。遡って1453年、ローマと並ぶキリスト教の主要都市コンスタンティノープルがイスラム勢力オスマン・トルコに占領された。それまで、スペインを含むヨーロッパのキリスト教諸国は、十字軍を組織して兵を送り、「キリスト教国(Christendom)」保全とその拡大を目指していた。十字軍時代のヨーロッパは、国家的アイデンティティよりも「キリスト教国」ヨーロッパとしての包括的アイデンティティにより結びつけられていた。

イスラム勢力に押され、国土の一部がトルコに占領されていたスペインは、1497年にはグラナダを陥落させ、再び自国の領土として奪還する。こうした対イスラムの戦いが一段落する頃から、ヨーロッパの「キリスト教国」としての包括的アイデンティティは少しづつ揺らぎ始める。スペインを始め、ポルトガル、イングランド、フランス等の絶対主義国家が新たな台頭を始め、「キリスト教国」ヨーロッパは次第に分断され、国家単位での枠組作りが始まる。コロンブスの新大陸発見は、こうしたヨーロッパの歴史的変動期にちょうど当たる。

ヨーロッパの時代的背景から見ると、コロンブスが新大陸へと向かった1492年という年は、いまだに「キリスト教国」拡大や十字軍的精神が機能していた時代である。コロンブスとその一行の精神世界は、中世的メンタリティが支配的だったのである。新大陸でネイティヴ・インディアンに出会ったコロンブスの日記では、彼等がキリスト教に改宗することを願う記述が非常に目立つ。1492年、第一回目の航海直後にコロンブスが書き送ったスペイン王フェルディナンドと王妃イザベラ宛の手紙には、「敬いまつる国王陛下の主たるお望みは、これらの人々(インディアン)がキリストヘの聖なる信仰に立ち返ることだと思います」と、新大陸でのキリスト教宣教の希望が綴られている。

1493年のより大規模な二回目の航海に、コロンブスは宣教師を伴って新大陸へと向かう。しかし、第一回目の航海時、西インド諸島に一部残しておいた船員たちは、コロンブスの留守中インディアンと対立、後の時代のジェノサイドを彷彿させる悲劇の歴史も既に幕を開けていた。

コロンブス以降、新大陸へと向かったスペインのコンキスタドール達もそろって修道士を伴い、領土の拡大と共にインディアンのキリスト教への改宗を促して行く。やがて、新大陸アメリカに遅れて参入するフランス人征服者達も、同じく修道士と共に新大陸へと向かった。大航海時代のヨーロッパ人達は、いずれも「キリスト教国」拡大の使命を共有していたのである。

1992年、コロンブスの新大陸発見から500周年を迎え、この歴史的発見をどのように評価するかとの議論がアメリカでは持ち上がった。主流派プロテスタントの全国組織NCCNational Council of Churches)は、「コロンブスはジェノサイド、奴隷制、環境破壊、そしてこの土地の富の搾取に関しての大きな責任を負うことになった」との声明を出した。コロンブスの発見に続くヨーロッパ人の新大陸進出を、この後に続くアメリカ史の負の歴史と見なす見解である。インディアン搾取と抑圧は、まさしくアメリカ史の負の遺産であり、この事実を認識することは重要である。この視点から見ると、大陸進出の口実に用いられたキリスト教宣教は、まさしく侵略者側の抑圧のための装置として機能したと言える。しかし、宗教は、人々の生活、精神、思想のレベルに関与する個人的な側面も持つ。もたらされたキリスト教がある時点からは、国教会や公定教会の宣教というよりも、個人の自発的な参与を要求する種類の宗教になったことを考慮に入れると、社会機能論だけでは説明しきれない。実際、多くのインディアンは現にキリスト教を信仰し、また、インディアンに次いで搾取の対象になった黒人奴隷も独特のキリスト教文化の担い手となって行く。国策レベルの説明だけで、宗教と社会の関係は語れないのである。

 

 

3 宗教改革と「キリスト教国」ヨーロッパ

 

コロンブスが新大陸へと向かった大航海時代はまた、ヨーロッパにおける宗教改革の時代でもある。この二つは何れも、中世ヨーロッパに新時代の気運をもたらしたルネッサンスにその精神的源泉が求められる。1517年、マルチン・ルターによりプロテスタント宗教改革が始まり、新教の流れは、ローマ教会からの独立を目指す絶対君主たちや新しい都市機構を模索する商工業者の支援を得、「キリスト教国」ヨーロッパに揺さぶりをかけていった。

プロテスタント宗教改革者ルターは次の三つの点を主張し、ローマ教会を離脱した。第一は「聖書唯一主義」である。ローマ法皇と教会の権威を退けたルターは、信仰の最終的な拠り所を聖書に求める。第二は「信仰義認」で、人はその行いによるのではなく信仰によってのみ神の前に義と認められると主張する。第三は「万人祭司」である。ルターは特定の僧侶階級ではなく、あらゆる信仰者が祭司的役割を持つのだと主張する。

ルター以降、ヨーロッパでは、フランス人の法律家ジャン・カルヴァンとリフォームド(改革主義)の宗教改革者たちがプロテスタント改革の主流となる。スイスのジュネーヴで、市政改革を行いながら宗教改革を推進したカルヴァンは、ルターの改革を継承しながらも、チユーリッヒやバーゼルの宗教改革者等と共に、新しい強調点を付け加えていく。スイス宗教改革の中心的な指導者カルヴァンの名前を取り、リフォームドの改革はカルヴィニズムと呼ばれるようになるが、実際はスイス、ラインラントを中心とする神学者達の神学の総体がカルヴィニズムとして成立する。カルヴィニズム(すなわちリフォームド)の中心的な主張は、「聖書唯一主義」と「神の主権の絶対性」である。最初の聖書信仰はルターの強調点をそのまま継承したものだが、ふたつめはカルヴィニズム独特の見解である。

カルヴィニズムの世界観は、「二王国論」と呼ばれるルターの見解とは異なる。ルターは世界を、教会の権威の関与する王国と俗権の王国との二つに分けて理解する。これに対して、カルヴィニズムでは、教会と世俗社会とを分けず、連続性を持ったものと理解する。結果的に、カルヴィニズムの宗教改革は、個人の信仰や教会の改革だけには止まらず、社会改革をも目指したものとなる。カルヴァンやツゥイングリによるジュネーヴやチューリッヒ教会改革は、こうしたカルヴィニズムの思想背景の下、市政改革と共に進められた。カルヴイニズムの改革の理想は、新大陸にはイングランドの宗教改革を経て、主にピューリタンの移住と共にもたらされる。しかし、ヴァージニアに向かった、ピューリタン以外の英国からの移住者達も、この時代英国教会の内部にまで浸透していたカルヴィニズムの影響を強く受けていた。また、新大陸の中部植民地に渡ったオランダやスコットランドからの移住者達は、それぞれオランダ改革派、長老派のカルヴィニスト達で、神学的にはピューリタン以上に、カルヴァンの思想をより忠実に継承した人々であった。東部沿岸植民地の主流は、こうしてカルヴァン主義の影響を受けたプロテスタント諸教派に占められることになる。

ルネサンスの新しい気運に影響を受け、ローマ教会の改革を訴えながらも、ルターやカルヴァンとは異なり、ローマ教会内部にとどまった宗教改革者もいる。その最たる人物がイグナティウス・デ・ロヨラである。ロヨラはルターとはほぼ同世代で、少し年少のカルヴァンとは、年代は重ならないものの、同じパリ大学の学寮の出身である。ロヨラ、カルヴァン共、ルネサンス人文主義の色濃いパリで大学教育を受けている。ロヨラの始めたイユズス会は、アメリカ宣教において多大な功績を残すが、その影響はニューフランスにおいて特に強く、珠にインディアンとの強い友好関係の樹立にはスパニッシュ・カソリックやプロテスタントの宣教とは一線を画すものがある。

 

 

4 新大陸におけるカソリック宣教

 

プロテスタントの登場以前に、新大陸アメリカではカソリックによる宣教が精力的に行われていた。最初に宣教師を派遣したのはスペインで、フランスがそれに続いた。1565年、スペインはフロリダにセントオーガスティンを築く。また現在のカリフォルニア、ニューメキシコ、テキサス州等の位置するニュースペインでは大泉模なインディアン宣教が国策レベルで執り行われていた。フランス勢力の拡大に伴い、ミシシッピー河沿岸地域、五大湖周辺地域、現代のカナダ北東部にまたがったニューフランスにはフレンチ・カソリックの宣教師が進出した。新大陸発見がスペイン中心になされたように、キリスト教宣教も同じくスパニッシュ・カソリックが先行する。

ヨーロッパ人による新大陸発見と進出、プロテスタント宗教改革の時代は、ヨーロッパにおける西方ローマ・カソリック教会内部の信仰刷新運動の時代でもあった。ローマ・カソリックの刷新運動はフィレンツェのサヴナローラ、オッカムのウィリアム、またやがてルターを輩出することになるアウグスチヌス派修道会を中心とした霊的刷新運動にまで遡られる。このカソリック教会内部の改革運動の気運が高まる前に、すでに新大陸進出をしたスペインと、改革運動以後に進出したフランスとでは、ネイティヴ・インディアンへの宣教に大きな違いを生じることになる。

 

 

(1)    ニュースペイン

16世紀初頭より始まったスペインのアメリカ大陸での宣教は、19世紀なかばまで続けられる。メキシコに向かったコルテス、ペルーに向かったピサロ等、スペインのコンキスタドールは、修道士と共に新大陸に向かった。スペインのインディアンに対する強行姿勢は、南北アメリカを通じて一貫して続くのだが、キリスト教宣教は、インディアン制圧の手段として用いられる。植民地建設の労働力確保の目的で、インディアンは必要とされ、キリスト教への改宗は従順な労働者を育成する為に利用された。この時、用いられた宣教方法は、宗教改革以前のそれであり、異教徒、インディアンには、集団的な「キリスト教化」の政策が適応された。

北アメリカ宣教ではフニペロ・セラ(Junipero Serra1713-84)によるカリフォルニア宣教が、最も際立っている。35才でカリフォルニアに渡ったフランシスコ会宣教師セラは、精力的に多くの宣教ステーションを建設する。宣教基地の拡張はセラ没後も続き、1769年から1845年の間に146人のフランシスコ会宣教師が21の宣教ステーションを創設し、約十万人のインディアンが洗礼を受けたという。数量的には非常な成果のあがった宣教であるが、セラのインディアン宣教には人道上の問題があった。インディアンにヨーロッパ人と同じ資質があることを認めなかったセラは、彼等を徹底して「子供」として扱う。子供に、時に、体罰を用いたしつけをするように、インディアンにも教化のために体罰が積極的に用いられる。結果的には、カソリック教会にインディアン宣教の大きな成果をもたらしたが、現在、セラに対しては、カソリック教会の評価も微妙である。セラの宣教は、改宗者獲得の成果や、多くのミッションの建設等、数量的には評価される。しかし、インディアンの尊厳を著しく侵犯した人物としてのセラヘの批判は強い。

スペイン宣教は、国家の植民地支配権確立という政治的政策におもねることになったが、これには理由がある。ニュースペインの宣教において、ローマ法皇は、スペイン王に宣教を委託し、これに干渉することを避けたのである。そのため、国家が教会の宣教を完全に主権下に治めることとなった。そうした中、宣教師の側から、たとえ、インディアン政策への批判が出ても、為政者側がそれを抑圧することができた。スペイン政府が望んでいたのは、労働力を提供する従順なキリスト教徒のインディアンであり、教会もその路線に協力することになった。

このように、インディアン弾圧が際立っているスペインのキリスト教宣教であるが、初期の宣教師の中には、インディアンに対するスペイン政府の政策に批判的な人物もいた。その最初の人物がバルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartholomew de Las Casas14741566)である。1510年、新大陸で最初の按手礼を受けたドミニコ会のカサスは、白人のインディアン虐待の事実とインディアンの権利の保護を訴えた。しかし、カサスのような宣教師は少数派であり、批判の声はニュースペインでは主流になることはなかった。

 

 

2) ニューフランス

同じカソリック教会による宣教ではあるが、ニュースペインより遅れて宣教を始めたフレンチ・カソリックの宣教政策は、スペインの宣教とは異なる。現在の中西部、そしてカナダを中心とするフランスのカソリック宣教はスペインとは対象的な特徴を持ち、また、それゆえにインディアンのキリスト教受容も、ニュースペインの場合とは異なる。スペインの場合と同じく、フランス人征服者達も修道士を伴って新大陸に進出した。ジャック・カルティエのような探検家や、狩猟目的で新大陸を目指した商人達と共に宣教師は新大陸に渡ったのである。最初の頃、植民地宣教の主導権はフランシスコ会によって取られていたが、それは次第にイエズス会へと代わる。

 

フランシスコ会宣教師は、国策に協力しニューフランスの植民地化に貢献する。特に、ラ・サールと共に現在のミネソタに当たる地域を探検したルイ・ヘネパン(Louis Hennepin1626-ca. 1705)が代表的な宣教師である。

イエズス会士では、1673年、ミシシッピ渓谷を探検したルイ・ジョリエと共に、ジャック・マルケット(Jacques Marquette, 1637-1705)が宣教活動を開始する。アメリカ大陸内陸地域に住むと噂に開いたイリノイ・インディアンヘの宣教を望んでマルケットは旅を続け、接触に成功するが、新大陸での旅の過酷さが災いし37才で夭折する。

マルケットに続き新大陸に赴いたイエズス会宣教師は、インディアンにヨーロッパ的文明の欠如を見、隷属的な位置におとしめたり、あるいは強制教化を行っていったそれまでの宣教師達とは異なる接近を試みる。それまでの宣教師がヨーロッパ文明の優秀性を強調し、インディアン教化を宣教手段としたのに対し、イエズス会士はまず、インディアンの人間性、文化、習慣を尊重した宣教に取り組む。

イエズス会はアメリカ大陸へ宣教師を派遣する前にすでに、アジア宣教を経験し、異文化における宣教についての考察を行っていた。インド、中国、日本に渡った初期のヨーロッパ人であるイユズス会宣教師達は、アジア宣教を通しヨーロッパ以外の高度文明に接する。異文化宣教においては、特に宣教地の文化、言語の学習がいかに重要であるかを経験的に学んだ。こうして、福音の土着化(コンテクスチェアライゼイション)という、プロテスタント宣教では20世紀後半になってやっと検討されるようになる課題と、アジア宣教に携わったイエズス会士は格闘したのである。アジア宣教で養われた異文化考察の鋭い視点は、アメリカ大陸に渡ったイエズス会師たちにも受け継がれていく。先に上げたヘネピン等のフランシスコ会宣教とイエズス会宣教は、宣教地と対象となる人々への文化的配慮の点で大いに異なっている。文化と宗教の絆の探さを認識していたイエズス会宣教師は、インディアン宣教にあたって、まず、インディアン言語の学習からその習慣、儀礼についての文化人類学者的な考察までを踏まえることにし、これを実行した。

フランシスカンの一方的な教化型宣教とは異なるアプローチを用いたイエズス会宣教師の代表例はジャン・デ・ブレバフ(Jean de BrebeufSJ.,1593-1649)によるヒューロン族宣教の内に見られる。1625年、インディアン宣教の為、新大陸に渡ったブレバフはヒューロン族インディアンの中に入り、生活を共にする。この生活の中でブレバフはまずヒューロンの言語を習得し、ヒューロン語の信仰書を用いて宣教活動を行う。ヒューロン族の一員のように生活を共にしながらのブレバフの宣教の成果は、ただちには表われなかった。しかし、やがてヒューロンの信頼を得たブレバフは、彼等の言語で人類普遍の原罪について、キリストの十字架上の赦しについて語り、個人的な信仰告白を勧める。ブレバフはこうして回心型のキリスト教受容をインディアンに促すことになる。

文明教化型の宣教に比べ時間はかかったものの、ヒューロンの内にはより深い形で、キリスト教信仰が根差すことになった。新大陸宣教に赴く若いイエズス会士たちの為にブレバフが綴った宣教のための注意事項は、ル・ジュヌ(Le Jeune)により1637年にまとめられた『イエズス会書簡集』(The Jesuit Relations and Allied Documents)の中に収められている。手紙の中でブレバフは、ヒューロンに福音を伝えるためには、ヨーロッパで学んだ神学も哲学も役に立たず、「ヒューロンの言語自体が聖トマスでありアリストテレスなのです」と語る。ヒューロン族の一員として生活を続けたブレバフは、自分の体験から、宣教において伝えられるべきなのはヨーロッパの文明や技術ではなく、「キリストとその十字架のみなのです」と書き送っている。ブレバフはヒューロン族とイロクォイ族との抗争中、1649年に犠牲の死を遂げる。ブレバフ亡き後も、福音はインディアン達の内に根差し、ヒューロン族はキリスト教信仰を保ち続ける。

新大陸初の女性宣教師もニューフランスで登場する。ウルスラ会のマリー・グィヤー(Marie Guyart1599-1672)は、ヒューロン族、アルゴンキン族の宣教に携わった最初の女性宣教師である。インディアン部族の中に入り、言語を習得し、典礼や教理をインディアン言語に翻訳する活動をしたグィヤーに続き、女性宣教師が次々と新大陸に赴くことになった。

このように比較的良心的な宣教例が見られるものの、ニューフランス宣教もまたフランスの新大陸進出へ向けた国策に取り込まれていくことになる。宣教師が築いたインディアンとの友好関係を利用し、フランス軍は対英戦争時、インディアン勢力を自国側の軍事力として効果的に巻き込んでいく。しかし、ニューフランスにおけるインディアン宣教は、福音が異文化の中に根差すという点では、スペイン領、あるいはフランスに続き植民を開始したイギリス領等のプロテスタント植民地とは一線を画する展開を見せたと言える。

 

 

3 メリーランド

後に独立を果たすことになる13の英領植民地中、唯一のカソリック植民地のメリーランドは、ジョージ・カルヴァート(George Calvert1580-1632)とセシル・カルヴァート(Cecil1606-1675)によって、1634年に建設が始められた。プロテスタント国となったイングランドで、カソリックの信仰を保っていたカルヴァート親子の植民地建設に当たっての目標は二つあった。まず第一は、プロテスタント主流となったイングランドのカソリック信者の為に、宗教的な自由を保証する安住の地を与えるということ。第二に、国王よりカルヴァート家に与えられた土地を賃貸し、それにより利益をあげていこうとする経済上の目的である。しかし、この植民地はどちらの目的においても成功したとは言えない。当時の国王チャールズ一世は、カソリックに対して寛容政策を採用し、本国のカソリック教徒は新大陸に信仰的な自由の場所を求める必要がなくなる。カルヴァートの思惑に反して、メリーランドではプロテスタント系移民が増加し、カソリック色は次第に薄くなっていく。1649年に信仰の自由についての条令をセシル・カルヴァートは発令するが、たとえばニューイングランドのピューリタンによる植民地政策と比較するとき、この時代に信仰の自由を保証した植民地としては特記される。後年、特に独立革命以降、メリーランドはアメリカ合衆国のカソリックにとっての重要な地となる。

 

 

二、英国領植民地の発展とピユーリタニズム

 

スペイン、フランスに続いて新大陸に進出したイングランドは、出足においては遅れを取ったものの、それまでにない永住植民地の建設により先行二国とは異なる発展をする。商業目的での植民地経営に加えて、新大陸は宗教改革を経て発生した公定教会からの離散プロテスタントグループの逃れの地となる。プロテスタント改革の指導者のひとりジャン・カルヴァンも、はじめ宗教難民として故国フランスを追われ、スイスに逃れた。カルヴァン等の影響により新教に帰依したプロテスタント達の多くも、公定教会に異議を申し立てる形で教会改革を推進する。新教徒の急進派は、公定教会の上にある政治権力にも抵抗し、多くが離散者の道をたどることになった。大陸ヨーロッパで新教徒宗教難民を保護したスイス、南ドイツ、オランダには、母国を逃れたプロテスタントのディアスポラが点々と形成されて行く。こうしたディアスポラのプロテスタント達が、やがて新大陸を目指すことになる。

 

 

1 イングランド宗教改革

 

テューダー王朝のヘンリー八世は、ルターの宗教改革を批判し、ローマ法皇から「信仰の擁護者」という称号を与えられるほどの新教嫌いであった。その王がローマ教会と決別し、イングランドをプロテスタント国としたのは、ほぼ完全に国策上また私的事情の故である。嫡子をなかなか生まない王妃キャサリンを離縁し、ローマ教会と決別、領内の教会財産を没収し、首長令を出して、ヘンリー八世は国王にして英国教会の長であることを宣言する。イングランドの新教への移行は政治的に開始され、王妃キャサリンの娘メアリー女王が王位に就いた一時期を除き、国王が教会の長を兼務する「アングリカン体制」が確立される。

メアリー女王時代(1553-58)、一時カソリック国に戻った英国からは、多くの新教徒が宗教難民として大陸ヨーロッパに避難した。この時、英国人の多くはスイス、ドイツのリフォームドの地域で保護を受け、カルヴィニズムの影響下に入る。ルター主義よりもさらに過激なカルヴァン主義の新教改革を学んだ英国人たちは、やがてエリザベス女王が即位をし、再び新教国となったイングランドに帰国する。しかし、緩やかな新教改革路線を取るエリザベス治世下の宗教政策に不満を抱いた一部のプロテスタント達は、教会改革の徹底を訴え、次第に非主流派となり国教会の在り方を批判するようになった。こうした急進派のカルヴァン主義者たちは「ピューリタン」と呼ばれ、ある人々は国教会の内部で、またある人々は教会の外部で新しいグループを作り、自分達が理想とするプロテスタント信仰を追求していく。

初期のピューリタン達はジュネーヴのカルヴァンの影響を受け、教会政治において「長老主義(Presbyterianism)」を採用することを主張する。これは、英国教会の「監督制(Episcopalianism)」が、国王に任命を受けた監督により教会が指導されるという方式を取るのに対し、教会を国王の主権より離し、長老(代表者)達の合議により運営していこうとする立場である。国王の主権から教会を切り離そうとする長老主義は、絶対主義国家の存続を危うくするものとして、エリザベス治世下、厳しい弾圧を受ける。そうした中、次第に非主流として地下運動化していったピューリタンのグループは、信仰者のみの純粋な教会を作ることを主眼に、国教会の内部、外部で集会を持つようになって行く。これが、「会衆主義教会」(CongregationalsIndependents)の始まりである。この会衆主義ピューリタンの内、国教会からの完全な分離を主張する分離派ピューリタン(Separatists)の一部が、新大陸プリマス植民地へ、国教会からの分離は主張しないものの教会改革の徹底を主張する非分離派(Non-separatists)ピューリタン達がマサチューセッツ湾植民地へ、それぞれの理想を実現する場を求めて移住する。

 

 

2 ヴァージニア植民地

 

イングランド最初の定住型植民地は、1607年ジェイムズタウンに建設されたヴァージニア植民地である。植民が開始した頃の母国は、大陸ヨーロッパからルター主義よりもさらに過激なカルヴァン主義のプロテスタント改革の波が押し寄せ、国教会の内部にまでその影響は浸透していた。ヴァージニアは商業目的の植民地である面が強調されるが、カルヴァン主義の強い影響を受けたアングリカニズムが移入された地でもある。

16075月、最初の移住者が到着すると、植民地では即座に「聖餐式」がとりおこなわれる。1610年、植民地を統率するための総督が到着した時にも直ちに礼拝が持たれ、植民地の人々には聖書に従い自己犠牲を払ってでも植民地建設の勤めに勤勉に励むことが呼びかけられた。ヴァージニアの最も古い法令によると、日曜日の礼拝出席は義務づけられ、安息日遵守が求められている。婚外交渉や華美な服装は厳しく取り締まられていた。これらは、ピューリタンのニューイングランドと通常結びつけられる条令であるが、ヴァージニアでも社会規範はニューイングランドと同じようなカルヴィニズムの影響の色濃いものだった。

植民地の公定教会は英国教会で、宗教的指導は常に母国イングランドに仰ぐことになった。指導的役割を担う教会の監督も植民地で自主的に選出することはできず、常に母国からの派遣を求めて、植民地の母国依存は北部のピューリタン植民地に比べ強いものとなった。

 

 

3 プリマス植民地

 

植民地建設目的の明確さと、決然と英国教会から分離を宣言する姿勢等から、アメリカ精神史に「父祖」としての名を刻むことになったプリマスは、ヴァージニアやマサチューセッツの両英国領植民地と比べると非常に小規模な植民地だった。植民地建設に当たった分離派ピューリタン「ピルグリム・ファーザーズ」の歴史は、ジェイムズ一世時代のイングランドに遡られる。

1603年、エリザベス女王の後継として即位したジェイムズ一世は、長老主義スコットランドの出身である。イングランドのピューリタンは、新王が長老主義的な改革を進めるであろうと期待を持って迎える。しかし、王のピューリタン政策は、エリザベス時代と変わらず、アングリカニズムの強化体制は継続された。弾圧を受けた英国教会内のピューリタンの内、急進派は、教会外で独自の集会を盛んに形成して行くことになった。そうした分離主義の集まりの一つノッティンガムシャイヤー、スクルービー村の会衆はイングランドでの弾圧の危険を火急のものと解釈し、集団での移住を決意する。指導者の牧師ジョン・ロビンソンを中心に、最初、このグループは同じ改革主義プロテスタントの国オランダに移住する。しかし、集会の自由は得られたものの、商業化の進む都市生活はスクルービー村の農民達の信条と倫理観を脅かすものに感じられ、特に子供たちへの悪影響が心配された。こうした事情で、彼等はさらなる定住地を求め新大陸アメリカを目指す。集会の中で成長し、次の世代のリーダーとなるウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford1589-1657)は移住の足跡をまとめた『プリマス植民地の歴史』(Of Plymouth Plantation1630-1650)の中で、オランダの都市生活は快適なものであったが、神の御旨を仰いだ「ピルグリムズ(巡礼者達)」は、天に望みを置き、さらなる魂の安らぎの地を求めてヨーロッパを後にしたのだと記録している。

ヴァージニア植民地会社の商人達に支援を受け、メイフラワー号に乗り込んだ一団は、最初の予定ではヴァージニアを目指していたが、嵐に遭遇し、162011月のはじめ、北東部ケープ・コッドに漂着する。メイフラワー号を降り、上陸する前に男子の乗船者たちは、神の臨在のもと、協力して植民地建設という作業に取り組むという趣旨の誓約書に署名した。この「メイフラワー盟約(Mayflower Compact)」は、ピューリタンの「契約神学」を背景にしている。カルヴィニズムの影響下にあるピルグリムズは、契約理解を「教会契約」から「社会契約」に拡大していった。契約集団として自らを理解したプリマスの分離主義ピューリタンは、ヴァージニア植民地とは異なり、より緊密な目的意識で結ばれた、独自の共同体を育んで行くことになる。

やがて総督となったブラッドフォードの記録によると、上陸後の生活は厳しいもので、最初の冬に移住者の半数は死んだという。過酷な移住生活で、10年後になっても300人程の小さな共同体であったが、移住者たちは、彼等の希望通りの会衆主義に基づく信仰共同体を形成した。

神の御旨(Providence)に導かれた「巡礼者達」の軌跡は、やがて次世代の人々になかば神話化され、語り継がれていく。特にアメリカの独立革命期、母国イングランドからの分離をいちはやく勇敢に敢行した父祖として、彼等は象徴的に祭り上げられる。また、19世紀、リンカーン大統領によりピルグリムズとマソサイト・インディアンとの友好を記念する「感謝祭」が国民的な祝日と定められ、特異なはずのピルグリムズの体験は民族的記憶の層にまで埋め込まれて行ったのである。

 

 

4 マサチューセッツ湾植民地

 

プリマスの分離派ピューリタンに遅れること10年、より大規模なピューリタンによる植民地建設が、1630年、現在のボストンを中心としたマサチューセッツ湾植民地で開始する。彼等は非分離派の人々で、英国教会のさらなる改革を目指し、その一翼を担う為の聖書的共同体の建設を目的に掲げて新大陸へと向かった。移住者の中には、ジョン・コットン(John Cotton1584-1652)、トーマス・フッカー(Thomas Hooker1586-1647)、ジョン・デイヴォンポート(John Davenport1597-1670)といった当時のイングランド・ピューリタニズムの中心的な指導者達も含まれていた。牧師達を慕い、時には教区民が一斉に集団移住する例もあった。

マサチューセッツ湾植民地会社は、画期的な植民地経営の方法を採用する。植民地会社の株主総会の開催地を新大陸に置くことにし、実質的な植民地経営を現地で行うことを取り決めたのである。この総会が、地域政府のような役割を担うことになる。また、通常、出資者である株主を総会の構成員とするのが本来の経営方法なのだが、マサチューセッツ湾では、この構成員の枠を広げる政策を打ち出す。すなわち、成人男子の教会員ならば、株を取得していなくても総会の構成員となることができるとの方針である。こうして、植民地では「自由民」の粋が拡大された。

総会は、各タウンに土地を分譲し、その土地は、成人男子の自由民にさらに分配される。各タウンでは、タウン・ミーティングがもたれ、その代表が総会に出席し、植民地全体の政治に参加する。「ニューイングランド・ウェイ」と呼ばれるこの方策は、後に、ニューイングランドの他の三つのピューリタン植民地、プリマス、1638年建設されたニューヘイヴン、そして、コネチカットでそれぞれ採用されていく。マサチューセッツでは「教会員」すなわち「自由民」となるので、教会への入会が、肝要となる。新しく教会員となる者には、教会で公に神の救済の恵みの体験、すなわち、回心体験を語ることが求められた。それにより自らが「恩恵の契約」に入れられていることを証言した上で、教会の正式な会員となる。教会員には、ピューリタン信仰と教義、そして「恩恵の契約」に入れられた「聖徒」としての道徳的生活が求められた。教会契約に入った者は、社会契約にも入れられ、正式な共同体構成員となる。こうした教会員である選挙民に選ばれた人々が政治的な指導者となる。

ジョン・ウィンスロツプ(John Winthrop1588-1649)が総督として政治的実権を握った植民地建設初期の20年間は、「ニューイングランド・ウェイ」はかなり有効に機能する。教会と政治との明確な分離を要求したロジャー・ウィリアムス(Roger Williams1603-1683)を巡っての裁判、牧師ジョン・コットンやその教会の女性信徒アン・ハッチンソン(Anne Hutchinson1591-1643)を巡っておきた「恩恵の契約」の解釈についてのアンチノミアン論争といった事件はあったものの、こうした事件さえ共同体の指針をより明確にし、「ニューイングランド・ウェイ」をより堅固なものにしていく契機となった。1648年には、ケンブリッジ綱領によりこの方策は再確認される。さらに、信条としてイングランドのカルヴァン主義の正統主義的信仰告白、ウェストミンスター信仰告白を採用して、マサチューセッツのピューリタン正統主義は確立する。ウェストミンスター信仰告白の内、除外されたのは教会の長老政治に関する点のみで、教会政治については会衆主義、すなわち、各個教会の自主的な教会運営を再度確認することになった。牧師達の集まりは持たれたが、それは長老主義の中会(シノッド)とは違い、何ら各個教会の独立や自主的な教会政治に干渉するものではないことも確認された。

 

 

5 ピューリタンの生活と信仰

 

ピューリタン共同体における生活の中心は「ミーティング・ハウス」で、毎週日曜日にはここで安息日の礼拝が持たれる。ニューイングランドの各タウンで、町の中心に建てられた集会所は、ピューリタンの生活の心臓部ともいえる。礼拝の中心は、聖書に基づく説教である。ピューリタンの説教には「通常(regular)」説教と「特別(occasional)」説教がある。前者は聖書の講解説教で、ほとんどのタウンでは毎日曜日2回、一回につき2時間程、語られる。説教の中心主題は、「恩恵の契約」で、信者の「聖徒」としての生活規範はここで示される。後者の特別説教は、「選挙の日」、「断食の日」、「感謝の日」といった共同体にとっての特別な日に語られる。特別説教は後日印刷され、植民地以外の人々にも読まれた。

ピューリタンはギリシャ、ローマの古典や同時代の名著から多くの引用をし、とうとうと語るアングリカンのバロック的な説教スタイルを嫌った。明解さを追及したピューリタンの説教スタイルは平明体(plain style)と呼ばれ、聖書の「テキスト」、「教義」、「解説」、「適応」が要点ごとにまとめて語られる。最後の「適応」は特に重要で、聖書の御言葉をどのように日々の生活で実戦するかということが説かれる。「恩恵の契約」により一方的に、神の憐れみにより救われた罪人が、義なる神にいかに応答するかという点が、重要と考えられたのである。こうした説教スタイルは後のアメリカ英語のスピーチにも影響を与えた。要点を三ポイントにまとめて話すアメリカ人特有のスピーチ・スタイルも、その原点はピューリタンの説教にあると言われる。

通常説教では「恩恵の契約」に入った個人の信仰者としての歩みが中心に語られたが、共同体の特別な集まりで語られる特別説教では「国民契約(ナショナル・カヴェナント)」が強調された。この場合の「国民」とは旧約聖書のイスラエルの「民」にあたる言葉であって、必ずしも近代国家的な意味でのそれではない。契約の民として如何に神に応答するかという、多くの場合旧約の預言者によるイスラエルの民への語りが予型論的に解釈され、語られたのである。こうした二種類の説教のスタイルは、牧師の世代が変わっても150年くらい、殆どその基本的な形は変えずに踏襲されて行った。

「国民契約」の思想は、選ばれた神の民としてこの故に対して果たすべき使命(ミッション)があるのだとの理解を聴衆の内に起こす。ウィンスロップは新大陸へと向かうアルベラ号上で行ったとされる説教の中で、ヨーロッパに残っている人々の為にも「丘の上の町」を建設し、宗教改革の模範となろうという意図で彼等の特別な使命についてマタイ伝の「山上の説教」の聖書テキストに基づいた説教をした。宗教改革の継承をしていく意味で用いられたこのピューリタンの契約に基づく使命感は、18世紀の独立革命期以降、政治的な意味で用いられるようになる。さらに、19世紀、近代国家的ナショナリズムの高まりの中で、「国民契約」の「国民」は、ネイション・ステイト、アメリカ合衆国国民と同一視されることになる。ウィンスロップの説教には新しい解釈が付け加えられ、「丘の上の町」建設は近代国家的ナショナリズムの標語として用いられるようになっていくのである。

 

 

三、植民地時代の宗教的少数派

 

ニュースペインやケベックのローマ・カソリック、ニューイングランドのピューリタン会衆派といった多数派の他、多様な形態のキリスト教のグループが植民地には存在した。独立革命の頃までに植民地に登場したグループの幾つかはニューイングランドのピューリタンから枝別れしたグループであり、またイギリス、オランダ、その他ヨーロッパ大陸の人々の移住に伴いもたらされたものもある。植民地には、インディアン、白人両方を対象に、宣教の使命を持って、ヨーロッパから渡って来る人々もいた。「ニューイングランド・ウェイ」に反対をして、分離していったグループの殆どは、過激な教会の浄化を求める純粋なピューリタンの場合が多い。ロードアイランド植民地を建設したロジャー・ウィリアムズも、そうした過激なピューリタンのひとりである。反体制的な人々の登場により、植民地時代のキリスト教は、さらに多様な性格を帯びていくことになる。ヨーロッパから渡って来た人々の多くは、ピューリタンと同じく母国で宗教的な弾圧を経験しており、植民地では、自らの信奉する教派の理想を追及する。ニューイングランドやヴァージニア、ニューヨーク等、公定教会を定めていた地域では、新しい教派は時には違法の教えとして排除されることもあった。それでは、植民地時代の少数派にはどのようなグループがあったのか、見て行きたい。

 

 

1 バプテスト

 

新大陸最初のバプテスト教会は、ロジャー・ウィリアムズの保護を受け、ロードアイランドに建設された。英国系バプテストの源流は、ピルグリムズと同じく、17世紀初頭のオランダに遡られる。ピューリタンによる国教会批判が高まる中、分離派の一団がジョン・スミス(John Smyth1565-1612)に率いられてオランダに渡る。スミスとその会衆は、オランダで、アナバプテスト(再洗礼派)のダッチ・メノナイトと交流を持つ。アナバプテストは、幼児洗礼を否定し、信仰告白に基づいた成人洗礼を入会の条件とするスイス宗教改革の最も過激なグループである。スミスは、メノナイトとの交流の中で成人信仰者への洗礼のみが、新約聖書により教えられた信仰者の基本だとの確信を持つようになる。1609年、成人洗礼を受けたスミスとその仲間たちは、イギリス人による最初のバプテスト教会を形成する。スミスの会衆の内、イングランドに帰国した人々が、1612年、イギリス国内初のバプテスト教会を作る。初期におけるバプテストの主張は、政治のコントロールの及ばない独立した教会政治の獲得と、幼児洗礼の完全な否定の二点である。17世紀初期の段階では、いずれも、非常に過激な主張であり、バプテストは社会を乱す輩としてイングランドで弾圧された。

スミスに率いられたグループは、神学的にはアルミニウス主義の傾向を持ち、キリストの贖罪は、あらゆる人々に効力を持つと考える。彼等は「ジェネラル・バプテスト」(General Baptists)と呼ばれ、1630年代、イングランド会衆教会の分派として誕生した「パティキュラー・バプテスト」(Particular Baptists)とは一線を画する。後者は、カルヴァン主義の立場で、「限定贖罪」、すなわちキリストの贖罪は限られた人々のみに効力を持つとの見解を持つ。

ピューリタン革命中、クロムウェルに協力したバプテストは、共和制時代、保護を受け急激に成長する。新大陸アメリカでは1639年、ロジャー・ウィリアムズの助けで最初のバプテスト教会が誕生するが、ロード・アイランドのバプテストは、「ジェネラル」の傾向を持っている。ペンシルヴァニアには、主にウェールズから「パティキュラー・バプテスト」が移住した。最初のバプテスト教会連合は1707年、「パティキュラー・バプテスト」により形作られたフィラデルフィア連合(Philadelphia Association)である。

ロード・アイランド以外のニューイングランドでは、バプテストは迫害されたが、その中には、ニューポートの町を建設したジョン・クラーク(John Clarke1609-1676)、ハーヴァードの学長でありながら、バプテストに転向し、学長職を退いたヘンリー・ダンスター(Henry Dunster1609-1659)などがいる。ボストン訪問中、牢に入れられ、公での鞭打ち刑を受けたバプテストの信者オバデヤ・ホームズ(Obadiah Holmes1607??-1682)の例が示すように、ニューイングランドのピューリタンにはクェイカーと共に、怖れられたグループであった。教会の完全な独立と幼児洗礼の否定は、教会契約を社会契約にまで押し進めた「ニューイングランド・ウェイ」を脅かす主張と理解されたのがその主要な原因である。

 

 

2 英国教会

 

ニューイングランド以外の英国領植民地で最も主要な教派が英国教会(アングリカン)である。ヴァージニアの他、キャロライナ、ジョージアといった南部植民地で公定教会となった。1691年にメリーランド、1693年にはニューヨークの一部も英国教会を公定教会とする植民地となる。アングリカンの場合、英国式の教区制度を広大な南部に適応させるのに困難があった。当時の植民地には監督も置かれず、教区統制を欠き、最終的な判断は常に英本国にあおがなければならないという不便も生じた。

植民地アメリカに渡った英国教会の宣教師にジョン・ウェスレー(John Wesley1703-1791)、ジョージ・ホィットフィールド(George Whitefield1714-1770)がいる。アメリカで、ウェスレーは、インディアン、入植者、いずれの宣教にも挫折する。しかし、渡航中、彼は、ドイツの敬虔派(Pietists)、モラヴィア兄弟団の移住者の一団と出会い、強い衝撃を受ける。敬虔派の人々の素朴な信仰に触れたウェスレーは自らの回心体験の欠如を認識し、新しい霊性を求める方向を目指し始める。本国帰還後、1730年代、ウェスレーは弟チャールズと共に、大西洋の両岸を巻き込む信仰復興(リヴァイヴァル)へと発展するメソジズムの運動を開始する。このリヴァイヴァルのうねりは、かつてオックスフォード大学時代、ウェスレー兄弟の結成した「ホーリー・クラブ」に参加し、チャールズ・ウェスレーに信仰上の指導を受けていたホィットフィールドを通して、新大陸にもたらされ、独立革命前夜に起きた第一次大覚醒運動へと引き継がれる。大衆伝道者ホィットフィールドは、新大陸に定住することはなかったが、アメリカ最初の文化的ヒーローとして植民地全土で人気を得ることになる。

 

 

3 クェイカー

 

祈りの時に身体が震えることから「クェイカー」と呼ばれるようになったフレンド派は、マサチューセッツ湾植民地が建設された直後、ニューイングランドに登場する。最初に「キリストの内なる光」の教えを携えて植民地に入った女性宣教師二名は、ピューリタン為政者に阻止され、鞭打ちや罰金といった刑に処せられる。それでもなお続けて宣教に訪れるクェイカーに村するマサチューセッツ湾植民地での処罰は、ますます厳しいものとなり、1659年から1661年の間に、騒乱罪、冒涜罪、平和混乱といった罪状で4人のクェイカーが絞首刑に処された。

ロジャー・ウィリアムズのロードアイランドでは寛容に処遇されるが、ウィリアムズ自身は、クェイカーの教義には納得をしていなかった。ことに、その不戦平和主義は、ウィリアムズの立場ではない。なかば、不承不承、行き場のない彼等を迎えたのである。

クェイカー安住の地は、ウイリアム・ペン(William Penn1644-1718)がペンシルヴァニア植民地を開くことにより、ようやく新大陸に築かれる。ロンドン生まれのペンは、オランダ領ジャマイカを英国領に勝ち取った父親の功績のため、英雄の息子として恵まれた人生を歩んでいた。しかし、1661年頃より、ペンはクェイカーの影響を受け始め、1666年、フレンド派の信者となる。1668年、英国教会批判文書出版の角で、検挙、投獄された後、ペンはクェイカー教徒の安住の地を新大陸に求め始める。そうした折、国王チャールズ二世に、ペンの父親からの負債の代価として、新大陸の土地を与えられる。1682年、新大陸に渡ったペンは、フィラデルフィアを建設する。こうして開かれたペンシルヴァニア植民地は、信仰の自由を求める宗教難民の逃れの地となる。

ヨーロッパ大陸に向けての、ペンの巧みな植民地事業の宣伝と宗教的寛容政策の効果もあり、建設頭初からペンシルヴァニアは繁栄する。1683年に建設されたジャーマンタウンには、ドイツ系メノナイトやオランダ系のクェイカーも移住する。また、植民地政府は、インディアンに対しても寛容政策を打ち出した。

クェイカーは、奴隷問題にも、早い時期から疑問を投げかけ始める。18世紀、ジョン・ウールマン(John Woolman1720-1772)は、クェイカー信仰に基づく反戦平和主義者、奴隷制反対論者として名を馳せた。『黒人保有に関する考察』(Considerations on the Keeping of Negroes1754-1762)の中で、ウールマンは奴隷制度が、人間性に悖らないだけでなく、神に与えられた人間の「内なる光」をも脅かすものであることを主張した。有名なウールマンの『日記』は、クェイカー信仰を持ち内なる光を与えられた信仰者が、実社会の様々な出来事にどう処していったかについての霊的な格闘の記録になっている。植民初期から、クェイカーの社会改良運動における貢献には多大なものがある。

 

 

4 長老派(プレスビテリアン)

 

スコットランド、アイルランドからの移民の増加に伴い、長老派人口も独立革命以前に拡大する。新大陸のプレスビテリアンはフランシス・マケミー(Francis Makemie1658-1708)により最初に組織化される。1684年、メリーランド州、スノウ・ヒルで、マケミーは、新大陸最初の長老教会を始める。もともとカルヴァン主義的教派として、神学的に立場の似ているニューイングランドのピューリタンとも友好関係を保つ。マケミーは、卓抜した指導力を発揮し、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドから移住したプレスビテリアンをまとめ上げることに成功し、フィラデルフィア中会を組織した。中会では「ウェストミンスター信仰告白」とカルヴァン主義神学の立場が共有基盤として確認された。マケミーは英国教会を公定教会としていたニューヨークのロングアイランドで説教をした時、免許状なしでの宣教を理由に逮捕される。この時、1689年の英国寛容令を持ち出して、自己の行為を弁明したため、プレスビテリアンにはクェイカーと並んで、信教の自由を訴える教派のイメージが与えられる。

スコットランドや北アイルランドのプレスビテリアンには聖餐式を祝うため、年に一、二度特別集会を持つ習慣があった。数日間に渡って持たれる集会の説教では、罪の悔い改めと赦しが強調され、その後、人々は聖餐のテーブルヘと進み、パンと葡萄酒に預かる。この「聖餐節」(communion season)の習慣は、西部開拓に向かったプレスビテリアンにも継承され、後に「キャンプ・ミーティング」へと発展する。1790年代の辺境リヴァイヴァルはこうした集まりが契機となり始まったものである。

 

 

5 改革派、大陸敬虔派

 

1664年まで、ニューヨーク(ニューアムステルダム)はオランダの植民地で、オランダ改革派が公定教会であった。オランダ改革派は英国教会と同様に、さほど宣教に熱心ではなかったが、植民地が英国領となり、公定教会の特権を失うに至り、危機感から盛んな伝道を開始する。ドイツ改革派はドイツ南部より、フランスとの紛争、ルター派、カソリックとの確執から逃れて新大陸に移住し、1740年頃までに、ペンシルヴァニアに主に定住する。

18世紀になると、ヨーロッパ大陸の敬虔主義運動に影響を受けた人々が移民として、また宣教師として、新大陸を目指し始める。敬虔派のルーツはドイツ・ルター派の牧師フィリップ・シュペナー(Phillip Jacob Spener)にたどられる。シュペナーはその著書『我らの求める敬虔』(Pia Desideria1675)の中で、教会全般の改革の必要と共に、信仰者個人の霊性の刷新を強調した。これに賛同する人々は、ルター派の内外部で、小さなグループによる聖書研究会、祈祷会、証会といったフェローシップを持って、お互いの霊性の向上を目指したり、ひいては熱心な伝道や社会奉仕の活動へと、教会内にとどまらない運動を展開する。教派を超えて、大陸のプロテスタントに大きな影響を与えた敬虔主義の流れは、やがて新大陸にも波及する。オランダ改革派のセオドール・フレリングハイゼン(Theodore Frelinghuysen1691-1747)、ルター派のヘンリー・メルキオール・ミュレンバーグ(Henry Melchior Muhlenberg1711-1787)、そして、ドイツ改革派のマイケル・シュラッター(Michael Schlatter1718-1790)、フィリップ・ウィリアム・オッターバイン(Philip William Otterbein1726-1813)等、新大陸でのリヴァイヴァルの指導者たちは、いずれも敬虔主義の影響を受け、第一次大覚醒の前兆となる活動を指導した。メノナイト、ドイツ・バプテスト、シュウェンクフェルダー、フランス系のユグノー、ペンシルヴァニアでエフラタ共同体を始めたドイツ移民等、敬虔主義の影響は多くの教派にまたがっている。また、シュペナーはピューリタンの牧師コットン・マザー(Cotton Mather1663-1728)とも文通をしており、教会の社会活動の必要をマザーに教え、ピューリタニズムの社会的影響に行き詰まりを感じていたマザーに新しい活路を示す。マザーの『善行録』(Bonifacius1710)は、シュペナーの影響を受けて書かれたものだと言われている。

新大陸に渡った敬虔主義の最も主要なグループはモラヴィア兄弟団である。彼等の指導者ニコラウス・ルードヴィッヒ・ツィンツェンドルフ卿(Nicolaus Ludwigvon Zinzendorf1700-1760)は、1741年から1743年、宣教師として新大陸に滞在する。ツィンツェンドルフ卿は、ペンシルヴァニア州ベツレヘムにモラヴィア派の人々の共同体を設立、ルター派牧師として牧会のかたわら、教派を超えた教会連合組織を試みる。モラヴィア兄弟団の敬虔主義は、前述したように、同じくアメリカに宣教師として渡りながら、信仰の確信を疑い、失意の内に英国に帰国したウェスレーにも、大きな影響を与えた。18世紀のメソジズムは敬虔主義に影響を受けた英国教会内での運動である。1740年代の新大陸カルヴァン主義諸派、ピューリタン会衆派、バプテスト、アングリカンを巻き込む第一次大覚醒運動への影響も多大で、大陸敬虔主義の影響を受けた教会と個人の霊的な刷新運動は、大西洋の両岸の英語圏信仰復興へと発展する。

 

 

6 プロテスタント系植民地とインディアン

 

フランス領植民地が、特にイエズス会士の宣教努力により積極的なインディアン伝道を行っていたのに対して、英国領では殆どインディアンを宣教の対象にすることはなかった。わずかにインディアン宣教の一応の努力をしたのは、マサチューセッツ湾植民地ロクスボローのジョン・エリオット(John Eliot1604-1690)とマーサズ・ヴィンヤードのトーマス・メイヒュー・ジュニア(Thomas MayhewJr.,1621-1657)の二人くらいである。エリオットは旧約聖書「モーセ五書」に倣って「祈りの町」を作り、インディアンの改宗者を得る。その助力も得て、アルゴンキン語訳の聖書を作成、出版する。これは、英領植民地で初めて出版された聖書である。

インディアン宣教でより大きな功績を残したのはメイヒューの方で、ヴィンヤードやナンタケットの島々で、多くの改宗者を得る。メイヒューはインディアン特有の文化に対してより柔軟な態度を取り、キリスト教信仰との融合を制限しなかったため、インディアンの信頼を獲得することができた。

それに対して、エリオットは、英国式の形式主義を、インディアンに要求した。インディアンにとっては、キリスト教への改宗には自分たちの慣れ親しんだ生活を変えるという苦痛が伴ったのである。加えて、「フィッリップ王の戦い」(1675-1676)中、エリオットとインディアンの改宗者たちは、ピューリタンからスパイの嫌疑をかけられる。戦争による対立が増す中、クリスチャン・インディアン達は、ボストン湾のディア・アイランドに隔離され、そこで非業の死を迎えることになる。このような悲劇的展開は、インディアンとキリスト教の間に越え難い溝を作って行った。

メイヒューは戦争中もマーサズ・ヴィンヤード島の、比較的本土の干渉から遠い場所にいた為、クリスチャン・インディアンたちを保護することができた。結果、ヴィンヤード、ナンタケット地域ではかなりの数のインディアンたちがキリスト教信仰にとどまることになった。

プロテスタントの中で、最もインディアンに接近したのは敬虔派のモラヴィア兄弟団である。ツィンツェンドルフ卿の指導で、プロテスタントとしては、早くから近代的な宣教を行っていたモラヴィア派の人々は、海外宣教においてもパイオニア的な働きを見せた。北米インディアン宣教では、60年間宣教活動を続けたデイヴィッド・ザイスバーガー(David Zaisberger1721-1808)が、敬虔派の主要な宣教師である。

1748年、最初ペンシルヴァニアのイロクォイ族伝道に携わっていたザイスバーガーは、フレンチ・インディアン戦争の勃発によりその働きを中断、続いてデラウェア族への伝道へと向かう。ザイスバーガーは、キリスト教徒のインディアンを一ケ所に集め、村を作る。モラヴィア派の平和主義に従ったこの村人達は、しかしながら、周りの白人達にフレンチ・インディアン戦争協力の嫌疑をかけられるようになる。ザイスバーガーは、彼等を伴い、一旦はフィラデルフィアに落ち着くが、そこでも安住できず、最終的にはサスクェハナ川沿いにフリデンシュテンを新しく建設する。しかし、ここでもやはり白人に追い払われ、1772年、ザイスバーガーとデラウェア・インディアンは、さらに辺境のオハイオヘと向かう。他のクリスチャン・インディアンもこの群れに加わるが、独立戦争の勃発と西部への白人の進行に巻き込まれた彼等の内、1782年、90人が惨殺されるという悲劇が起きる。ザイスバーガーは、最終的には、彼等をオンタリオヘと伴い、モラヴィア派のクリスチャン・インディアンはカナダに定住の地を見つけた。

 

 

7 奴隷とキリスト教

 

1619年、ヴァージニアに定期奉公人として連れ来られたアフリカ人達は、やがて強制的に奴隷とされていった。奴隷制度は南部で定着したが、北部でも一般に採用されていた。ニューヨーク、ニューポート、ボストン等、北部の港の商人達は奴隷貿易で利益を上げ、南部プランテーションでは欠かせない労働力として奴隷を用いる。キリスト教のどの教派も、取り立てて奴隷制度を批判することはなかった。18世紀初頭、ニューイングランドのピューリタン、サミュエル・シュワール(Samuel Sewall1652-1730)が『ヨセフの売買』(The Selling of Joseph, 1700)という奴隷制批判の文書を、また、コットン・マザーが、『キリスト教徒とされた黒人』(The Negro Christianized, 1706)といった文書を出版したが、奴隷制自体の批判に分け入ったものではない。

奴隷制度批判は、主流のプロテスタントからではなく、ペンシルヴァニアのクェイカーやドイツ系メノナイト移民から出てくる。ジャーマンタウンのクェイカーやメノナイトは、1688年、奴隷とされた黒人達の自由人となるべき権利について主張し始める。しかし、彼等はプロテスタントの周辺的な人々であり、植民地全体に影響を与る程の力を持ってはいなかった。

英国領植民地では、黒人奴隷の宗教性に対する関心は、周辺のフランス、スペイン領に比べて低かった。中には、キリスト教化することにより、より従順な奴隷にするということを考える者もいたが、それには危険が伴う。カルヴァン主義プロテスタント主流の英領植民地では、信仰の中心を聖書に置く。肉体労働に用いられる目的で所有されている奴隷が聖書を読む為に字を覚え、特に新約聖書のキリストの解放の福音を知ることは白人にとっての危険をも意味する。さらに聖書の終末論的な箇所が、反乱を誘発することも危惧された。奴隷のキリスト教化は、南部白人プランターの利害に衝突するものであった。

大規模なキリスト教への改宗はないものの、例えば1641年、マサチューセッツ、ドチェスターのピューリタン牧師のもとでは、女性の奴隷の洗礼が執行されているし、ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards1703-1758)はノーサンプトンの大覚醒中、白人、黒人共が影響を受けたことを、大覚醒の記録驚くべき神の御業についての忠実なるナラティヴ』(Faithful Narrative of Surprising Work of God, 1737)に記している。英本国のアングリカン海外宣教団(Anglican Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts)からは黒人奴隷に向けた宣教師も派遣された。しかし、黒人奴隷の間でキリスト教人口が増加するのは、19世紀、第二次大覚醒の頃、メソジストやバプテストの台頭の時代以降となる。

 

 

8 キリスト教以外の宗教

 

エリザベス朝時代のイギリスには中世的なオカルト、魔術、占星術が存在し、それはまた、英国人が入植する時、新大陸に持ち込まれた。大西洋を渡ったヨーロッパ人はキリスト教教義や信仰だけを持ち込んだのではもちろんない。いかなる信条を持っているにせよ、彼等の精神世界は啓蒙主義以前のそれであり、神の存在と共に悪魔や魔女や妖精の存在も信じられていた。そうした中世的な世界観は、キリスト教と共に大西洋を渡り、また、共存していた。

中世的な賢者(wise men/wise women)への信頼やオカルト儀式一般は植民地時代の人々の精神世界に引き続き影響を与えていた。インディアン、西インド諸島やアフリカからの黒人移住者の土俗信仰とも相まって、植民地時代の宗教はキリスト教の歴史を探るだけでは説明できない。1692年、マサチューセッツ、セイレムでの魔女裁判は、中世的な魔術がピューリタンの植民地でも行われていたことの証拠である。西インド諸島出身のインディアン女性ティテュバは、セイレムの事件の発端を作るが、彼女に過度の反応を示したピューリタン達も、前近代の英国人であり、ティテュバと似たような世界観をある程度共有していたと言えよう。例えば占星術がヨーロッパ人移住者のキリスト教信仰と必ずしも反発しあうものでなかったことは、マサチューセッツ湾植民地で定期的に発行されていた『農夫の暦』(Farmer's Almanac)等、民衆的な読み物を見ると明らかである。

 

 

おわりに

 

1740年の段階で、人口約90万人となった、後にアメリカ合衆国となる13の植民地の人々の宗教的な背景は次の通りである。宗教、教派は、ほとんどそのまま民族的背景と重なっているのだが、数の多い順に、ピューリタンの英国系会衆派教会、アングリカン、バプテスト、スコットランドあるいはスコッチ・アイルランド系プレスビテリアンと続く。大陸ヨーロッパ系プロテスタントがこの後に来て、ドイツ・ルター派、オランダ改革派、そしてドイツ改革派の順である。カソリック教会は英国領植民地内に27教会あり、殆どはメリーランドに集中していた。その他、少数派の大陸ヨーロッパからの移民グループがペンシルヴァニア、カナダに散在していた。

プロテスタント各教派は、マサチューセッツやヴァージニア等、植民地の公定教会を定めていた地域を除き、とくに中部植民地ではより自発的かつ教派的な傾向を保ち続けた。その点からは、植民地の宗教状況は非常に多様だと言える。しかし、同時に、主要なプロテスタント教派は、英国、大陸ヨーロッパ移民共にカルヴァン主義の傾向を持つ。その意味では、教派は違っても信仰思想的な共有基盤を持っているとも言える。新大陸では、18世紀に入ると、ルター派敬虔主義が教派を超えて影響し始める。特に、敬虔主義の影響はエドワーズ、ホィットフィールドに導かれた第一次大覚醒を経てあらゆるプロテスタント教派に及び、カルヴァン主義と敬虔主義が結び付いた形で「福音主義的(Evangelical)」な傾向がアメリカのプロテスタンティズムの特徴となり始める。一方、カソリックは、フランス領ケベックにその本拠を置き、ヨーロッパ諸国のカソリックよりもさらに強くローマ教会への忠誠心を保持し、新大陸では保守的な傾向が存続する。また、メリーランドの例に見られるように、英国領植民地内のカソリックは次第にプロテスタント勢力の影響を受け、やがて、プロテスタントと同じく福音主義的特色を共有するようになる。それぞれの移民が持ち来た多様な宗教性は、独立革命の頃までには、大覚醒を経ることで、福音主義的な様相によりアメリカ的とも言える統一性を帯びていくのである。

 

本稿は19984月、上智大学公開学習センター公開講座「アメリカ精神の系譜」で行った第一回、第二回講義をまとめたものである。

 

 

主要参考書目

 

Ahlstrom, Sydney E., A Religious History of the American People (New Haven and London: Yale University Press, 1972).

Douville, Raymond and Jacques Casanova, trans. by Carola Congreve, Daily Life in Early Canada (New York: The Macmillan Company, 1967).

Heimert, Alan and Andrew Delbanco, eds., The Puritans in America: A Narrative Anthology (Cambridge and London: Harvard University Press, 1985).

Jehlen, Myra and Michael Warner, eds., The English Literature of America, 1500-1800 (New York and London: Routledge, 1997).

Marsden, George M., Religion and American Culture (Orlando, Florida: Harcourt Brace Jovanovitch College Publishers, 1990).

Noll, Mark A., A History of Christianity in the United States and Canada (Grand Rapids, Michigan: William B. Eerdmans Publishing Company, 1992)

Prestwich, Menna, ed., International Calvinism 1541-1715 (Oxford: Clarendon Press, 1985).

Thwaites, Reuben Gold, ed., The Jesuit Relations and Allied Documents: Travels and Explorations of the Jesuit Missionaries in New France, 1610-1791 (Cleveland: The Burrows Brothers Company, Publishers, 1898).

Vacsey, Christopher, On the Padres' Trail (Notre Dame, Indiana: University of Notre Dame Press, 1996).



* 増井志津代 Associate Professor, Department of English Literature, Sophia University, Tokyo, Japan