John Cabot and Newfoundland: Myths and Traditions

(ジョン・カボットとニューファンドランド:神話と伝統の狭間で)

 

Yutaka Takenaka*

 

 

SUMMARY: John Cabot (c.1455-1498), having obtained a grant of letters patent from the King Henry VII, set sail from Bristol of England in search of Asia in a small ship, the Matthew, in 1497. He stepped ashore on land somewhere along the eastern coast of what is now Canada. However, exactly where Cabot landed has been much debated by historians over the past years because there were scant references to Cabots voyage. Therefore, this paper deals with Cabotian studies in relation to the documents including the letters of J. Day, R. de Soncino and L. Pasqualigo and interpretation of various statements put forth as to why Cabots voyage is significant. His voyage provided the basis for Englands claim to Newfoundland. In addition, it is also discussed how the Cabot 400th and 500th anniversary celebrations in Newfoundland contributed to invent the desirable form of the Cabot tradition. Though J. Cabot is still an enigma wrapped inside a mystery, he was an ideal candidate to become a national founder-hero for Newfoundlanders.

 

 

 

 

はじめに

 

ヨーロッパに最も近い《新大陸》アメリカの地・・・それがカナダのニューファンドランドである。このヨーロッパとの至近性は、後の歴史的文脈のなかで次の二つの相反する現象を生んだ。一つは、ニューファンドランド周辺がカナダの歴史的胎動の場となったこと。ただしこの場合の歴史とは、ヨーロッパ系白人の歴史と限定される。もう一つは、カナダ連邦への加入が1949年であったように、ニューファンドランドはむしろカナダから長らく忘れられかけていたこと。歴史学(historiography)との関連でいえば、そこはあたかも《カナダ史》とはほぼ別世界を形成していた。[1] つまり、ニューファンドランドはカナダでありながら、カナダでなかった。[2] そのためか北大西洋岸の最東端に位置するこの特異な地域は、たとえば日本のカナダ研究のなかで、扱われることの少ない知的空白領域であった。

もとより本稿はニューファンドランド史のごく一部を扱うに過ぎないが、ここでの主要視点は次の二点に置かれる。第一は、ニューファンドランドの《発見者》[3] とされるジョン・カボット(John Cabot c.1455-1498)に焦点をあてながら、15世紀末の彼の航海の内実と意味を、初期カナダ史とのかかわりの中で考えてみることにある。

第二にニューファンドランドは、カナダ内では歴史的に最も古く、政治的に最も新しく、そして心理的には最も孤立化してきた土地として在る。したがって、こうした特異な土壌を背景に、J. カボットという人物がどのように《英雄化》されてきたのか、それを考えてみることにある。

 

 

A. カボットをめぐる諸相

 

 

イタリア人 J. カボット[4] がニューファンドランド周辺を探検航海したのは、1497年のことだった。それはイングランド国王ヘンリーVII世(Henry VII 1457-1509)から特許状を得ての航海だった。イングランドでは、打ち続く内乱にひとまず決着をつけ、中央集権的絶対王政の確立にむけて踏みだしていた時代だった。そうした国王にとり、アジアへの新航路の模索、新通商路の開拓は、イングランドの実益と威信の高揚に直結するものとして、強い期待を抱かせるものであった。

一方、このニューファンドランド周辺への航海者は、歴史家の間では19世紀半ば過ぎまで、史料不足による事実誤認や息子のセバスチャン・カボット(Sebastian Cabot c.1484-1557)の虚癖性等に惑わされ、長らく息子と混同視されていた。[5] この航海は父親のジョンによるものとの基本認識は、実は希薄であったのである。[6] それが徐々に変化し、ジョン・カボットの航海をめぐる周辺状況がより明らかになってきたのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてS. E. ドーソン(S. E. Dawson)らの研究成果によるところが大きい。[7] そして後述するJ. カボットの航海を伝える1955年の《John Day Letter》の発見以降は、J. A. ウィリアムソン(J. A. Williamson)やアメリカ人歴史家S. モリソン(S. Morison)らの研究、さらには1997年の《カボット500年祭》を契機としたP. ポープ(P. Pope)らの著作により、質と幅がさらに増すことになる。[8]

ともあれ、J. カボットは偵察的航海の成功を踏み台に翌1498年、船団を組んで第2回探検航海に挑戦したのだが、この航海で帰らぬ人となってしまう。

ここではまず、J. カボットがカナダの歴史書の基本的枠組みのなかで、どのように扱われてきたかにつき少し触れてみよう。ただ、J. カルチエ(Jacques Cartier 1491-1557[9] の場合と異なり、彼自身は後世に航海記録を残していない。このことが、彼の航海の詳細をめぐる論争の種を残し、今日でも歴史記述に曖昧性がつきまとう要因となっている。

カナダ史叙述についての近来の傾向のひとつは、先住民と西ヨーロッパ人との出会いが《対等》という文脈のなかで描かれている点である。[10] この《対等》な歴史認識態度を背景に、英系カナダからみると彼はカナダ史やニューファンドランド史の、いわば《第一章》として登場する。とはいえ、歴史の叙述のされ方の基調が、民族的枠組みを完全に払拭できずに記述されるのは否めない。そこではカボットの航海の意味が、北米におけるイングランド最古の進出地、後のイングランドの勢力展開の礎、鱈漁を基礎とする《カナダ初の大ビジネス》[11] 誕生の嚆矢、などと解される。多少ニュアンスの違いはあるにせよ、彼をカナダ史の《始祖》ととらえる傾向は、英系カナダではやはり根強い。

ところが仏系カナダの歴史観において、カボットの扱いは異なる。英系のに比べると、ずっと控えめである。否、彼らにとってカナダ史の実質的な胎動は、16世紀前半のJ. カルチエの探検航海期にこそあるからである。歴史を見る目が違うのである。[12] カボットはイタリア人ではあるが、イングランド国王の命のもとにある限り、彼の航海は仏系歴史家たちの考える問題意識と直結しない。ヌーヴェル・フランス史にとってのJ. カボットとは、他者の歴史的存在にとどまるのである。

彼にたいする問題意識は、こうして基本的には英系カナダの、さらに言えば大西洋沿海諸州の英系歴史家の脳裏のなかにこそ深く在る。他方、仏系にとっての関心度はどうしても低く、研究もきわめて限られる。カナダの歴史解釈に内在する二重構造性が、カボットをめぐってここでも見事に凝縮化されているのである。[13]

 

 

第二に、問題意識の底流として次の点にも留意してみたい。J. カボットの探検航海が行われた1490年代は、周知のように世界史的レベルで大きな出来事のあった時代である。とりわけ新大陸への航海との関連でいえば、J. カボットとC. コロンブス(Christopher Columbus c.1446-1506)とは同時代の人物であった。J. カボットの生まれはナポリ近くだが育ちはイタリア北部のジェノアで、そこはもちろんC. コロンブス生誕の地でもある。[14] また、この二人はお互いに会ったことがある、との説もあるほどである。[15] とりわけ後年のJ. カボットからすれば、C. コロンブスは直接・間接にライバルと映ったにちがいない。《アジア》への航海計画の支援を依頼するにあたり、彼が当初意図したのは、当時、隆盛を誇るスペイン王室であった。が、そのもくろみはすでにC. コロンブスに先を越されていた。西ヨーロッパの、大国というにはまだほど遠いイングランド王室に彼が目を転じたのは、むしろやむを得ない受動的理由からであった。[16]

新大陸アメリカへの到達ルートとして、同時代の二人の探検航海者が、結果的に一方は《南》のカリブ海域を、他方は《北》のニューファンドランド周辺を、それぞれとった。ところが、C. コロンブスの《発見》ばかりが後世に強調され、J. カボットによる航海への関心度やその評価は、後々まで不当なほど低かった。一部の専門家やニューファンドランドという地域的特殊性にもとづく関心を除き、それはあまりにないがしろされてきた観がある。《北》ルートのJ. カボットによる航海の軌跡は、果たしてそれほど意味の薄いものだったろうか。その歴史的価値評価をめぐっては、成る程、英系カナダ・ナショナリズムあるいはニューファンドランド・ナショナリズム高揚のための遠因として《利用》されてきた面もあった。しかしJ. カボットの航海のもつ意味を、カナダ史の文脈のなかでもう少し見直してもよいのではなかろうか。

 

 

第三は、J. カボットに関する史料の希薄性についてである。この時代、殆どの航海士の詳しい素性は不明である。カボットもその例外でない。それでも断片的史料から今日確認できることはいくつかある。ナポリ近郊の生まれだがジェノアで育ち、後にヴェニスへ移りそこの市民権を1476年に取得したこと、1490年にスペインのヴァレンシアに移住し、そこを足場として船乗り稼業や通商を継承していたこと、こうした経験を踏まえたうえで、1496年頃までにはイングランドの豊かな貿易港ブリストルに拠点を移し、そこから北方ルートによる新大陸《発見》への航海に出たこと、等々である。[17]

とくにここでの主要テーマは1497年の彼の航海記録に関してだが、J. カボット自身ないしは同乗者によるそれは現存しない。残っているのは、同航海の関係者らの情報に基づく下記の3者の書簡である。そのいずれもが間接的な情報提供文書で、それらが目下、当時の状況を伝える貴重な手がかりとなっている。その要点に触れてみよう。

まず一つは、ロンドン在勤のヴェネチア商人ロレンツォ・パスクアリーゴ(Lorenzo Pasqualigo)によるヴェニスの兄弟あてのものである。J. カボットによる新大陸の《発見》《上陸》などその航海の様子について、彼は冒頭次のように書き送っている。

 

[London, 23 August 1497] That Venetian of ours who went with a small ship from Bristol to find new islands has come back and says he has discovered mainland 700 leagues away which is the country of the Grand Khan, and that he coasted it for 300 leagues and landed….[18]

 

もう一つは、ミラノの駐ロンドン外交官レイモンド・ド・ソンチーノ(Raimondo de Soncino)によるもので、宛先はミラノ大公となっている。ヴェネチア人カボットが、新大陸探検航海から帰還した状況を次のように伝える。

 

[24 August 1497] News received from England this morning by letters dated the 24th August…. Also some months ago his Majesty sent out a Venetian, who is a very good mariner, and has good skill in discovering new islands and he has returned safe, and has found two very large and fertile new islands….[19]

 

もっとも、この場合ソンチーノ氏の着任が前日であることから、この手紙はあらかじめ準備されていたものと思われる。彼はさらに同大公あての別の書簡で、J. カボットの人物像とその航海について、例えばこう述べる。

 

[London,18 December 1497] There is in this Kingdom a man of the people, Messer Zoane Caboto by name, of kindly wit and a most expert mariner. .., he committed himself to fortune in a little ship, with eighteen persons…. he at length arrived at the mainland, where he hoisted the royal standard and took possession for the king here;….”[20]

 

前者のと比べるとソンチーノの手紙には微妙な点で違いは残るが、新大陸《発見》の航海という記述については、内容的に整合性が見られる。そして、この2人の書簡が、曖昧性を残しながらも長らくJ. カボットの航海に関する原典的な拠り所とされていた。

ところが、1955年に画期的な事が起こる。同年春、スペイン中部の公文書館で、アメリカ人学者L. A. ヴィグナラス(L. A. Vigneras)は、従来の内容を上回る新たな史料を発見したのである。それがいわゆる《John Day Letter》である。[21] 内容的には、カボットの出航から豊富な漁場の模様、北の新大陸《発見》の様子、上陸の様子、および帰還後の経緯まで、既存史料に見られないかたちで、さらに詳しく伝えられる。たとえばその一部はこうである。

 

…he landed at only one spot of the mainland, near the place where land was first sighted, and they disembarked there with a crucifix and raised banners with the arms of the Holy Father…. They left England toward the end of May, and must have been on the way 35 days before sighting land; the wind was east-north-east and the sea calm going and coming back…. They spent about one month discovering the coast,….[22]

                            

デイはスペインとの貿易に携わっていたイングランド商人で、後にスペインにも居住するが、同時にすぐれた情報能力を有する教養人でもあった。時期的には、内容から判断してJ. カボットの第1回航海が終了した年の12月半ばから翌14983月半ばにかけてと考えられる。表向きの宛先はスペイン提督(Lord Grand Admiral)だが、実際はコロンブスに宛てたものだった。彼は、この航海の成功の様子の描写につづき、今回のが単独航海であったことに鑑み、翌年には神の加護のもとで、より規模の大きい船団を率いてより徹底した航海の行われるべきこと等を、さらに次のように書き記す。

 

…it is hoped to push through plans for exploring the said land more thoroughly next year with ten or twelve vessels--because in his voyage he had only one ship of fifty ‘toneles’ and twenty men and food for seven or eight months --…and they want to carry out this new project. It is considered certain that the cape of the said land was found and discovered in the past by the men from Bristol….[23]

 

記述は具体的で、J. カボットの過去の名声も含めて探検航海に関わるイメージが浮かびあがる。デイ書簡は現時点で彼の航海に関わるもっともリアルな史料となっている。

 

 

B.  J. カボット:1497年の航海をめぐって

 

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J. カボットがイングランド国王ヘンリーVII世から特許状を得ていたのは、1496年だった。同年夏には新大陸《発見》をめざし、商港ブリストルを出帆している。したがって正確にいえば、彼の第一回大西洋横断航海は、一般に理解されている1497年ではない。だが悪天候・乗組員との確執等に阻まれ、この年の試みは失敗する。翌1497年、準備を練り直して彼は再挑戦したのだった。限られた関係史料からとはいえ、その航海をここで再考証してみよう。

まず第一に、ヘンリーVII世の特許状内容はどのようなものか。主体的決断を重んじるヘンリー王は、J. カボットへの特許状の付与に際し、文言からその意味内容までをふくめ、自ら細かく関わったうえで署名したといわれる。[24] その特許状は149635日に付与され、冒頭にこう記されていた。

 

Be it known and made manifest that we have given and granted… to our well-beloved John Cabot…to sail to all parts, regions and coasts of the eastern, western and northern sea under our banners, flags and ensigns…to find, discover and investigate whatsoever islands, countries,… which before this time were unknown to all Christians….[25]

 

to find, discover and investigate》とあるのはその主目的であるが、加えて《unknown to all Christians》との表現もうかがえるのは、ローマ教皇庁やスペイン・ポルトガルといった他のカトリック国側の刺激を少しでも牽制するためであったろう。そして型通りの勅許状文言に続けて、彼は今回の航海の趣旨を次のように述べる。 

 

may conquer, occupy and possess whatsoever such towns, castles, cities and islands by them thus discovered that they may be able to conquer, occupy and posses….[26]

 

ここで《conquer, occupy and possess》が繰り返し述べられているのも興味深い。つまり、主眼はイングランドの新しい通商ルートの開発だが、総じて政治的支配権の拡大をも意図していたことが、明白に読みとれる。ただしこの時点で、組織だった植民地化戦略という発想はまだ出てこない。          

 

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第二に、1497年の航海自体の基本要件とはどのようなものだったろうか。 まず肝心の船舶だが、今日風にいえばその積載量は約50トンと推定され、カボットの妻の名にちなみ《Matthew》号と命名された。この船の詳細な記録についても残存しない。だが、1997年のブリストル市でのカボット500年祭用に、イギリス人C. マディ氏は海事の専門知識を生かしながら、《Matthew》号の復元図を完成させた。同航海にかかわる数少ない関係史料を元に、彼はさらに15世紀末当時の海事史の状況を詳細に調査した。その図の根拠とされた条件とは、たとえば、強度の風雨を乗り越えて北大西洋横断に耐えられる頑強さ、最大1年の長期航海にも耐えられる構造、そのための人員・食糧・装備などの積載も可能な設計、アラブの貿易帆船ダウ(dhow)なども恐らくは参考としたであろうこと...等である。もちろん、これは長けた航海技術を前提にしたうえでのことだが、こうして出来上がった《Matthew》号のレプリカが、長さ18メートル幅6メートルで、3本マストに三角帆を用いたカラヴェル船だった。[27] 加えて、以下に述べる航海の期間と距離から概算して、この帆船のスピードは平均約5ノットと推測される。

乗組員数はソンチーノやデイの史料では20名、うち18名はブリストル人、残り2名はカボットの親しいブルゴーニュー人とジェノア人の理髪師兼外科医、との記述がある。[28] 他の史料により食い違いもあるが、基本的には20人前後の規模による航海だったとみてよいだろう。航海期間についても、細かい点では史料による誤差がある。例えばデイ書簡では、5月末に出航し《陸地が視界にはいるまでに35日を要した》とあり、逆算すると出航は520日となる。L. パスカリーゴ書簡では《3ヶ月の航海》という具合に期日を特定していないが、それを額面通り受け取れば58日頃となる。[29] さらに前世紀に消失した16世紀の写本《ファスト文書》(Fust document)によると、52日出航・86日帰港との説もある。[30] ただ、上陸地点は定かでないにしても、その期日は624日と思われる。[31] その一方、帰路は海流と追い風の関係で、わずか15日で《ヨーロッパの海岸に戻った》。[32] 帰還後のカボットは、早い段階でヘンリー王に航海の報告のためロンドンへ赴く。したがって逆算して810日ごろには航海を終えていたことになる。

 

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第三に、航海ルートに関してはどうだろうか。北大西洋の海流の特徴、低気圧や風向きの状況をふくめた気象学的情報等は、直接的・間接的または断片的ではあったろうが、すでにベテラン航海士であったJ. カボットの頭のなかに入っていたに違いない。まず、イングランドから大西洋の《横断》ルートには、二つ考えられる。一つは、ブリストル出航後ニューファンドランド方面に向かって西に直線コースをとる方法である。だがこれは、海流・天候等の関係で逆風をついて進まなくてはならず、見知らぬ地を求めての長期航海としては危険が大きい。ましてや15世紀のカラヴェル型帆船では、技術的にもきわめて難しい。もう一つは、アイルランドの南端を経た後、航路を北方にとり、北緯約5253度のところから北北西に進む方法である。このルートだと距離的には長くなるが、海流に乗りやすく、しかも南西の風向きは前者に比べて航海をはるかに有利にする。そのまま東グリーンランド海流の領域に入ると、追い風とも重なり《新大陸》への航路は比較的順調となる。航海上の試行錯誤は多々あったにしても、カボットは、後者の航海ルートをとったと考えられる。[33]

こうした経緯から判断して、北大西洋を《横断》した後《Matthew》号が初めて眺望した北米《大陸》は、おのずとラブラドール東端あるいはニューファンドランド島西北端となる可能性が高い。それ以後、ニューファンドランド島北岸にほぼ沿うかたちで西南に進路をとり、大西洋に面したアヴァロン半島西端の海岸沿いにまで達する。歴史家の間では、北大西洋《横断》後のこの沿海航路について、大筋での異論はない。だが、問題はそれ以降、帰路につくまでどういうルートをとったかである。その主な説として、(1)ニューファンドランド東端からそのまま大西洋横断への直進ルート、(2)アヴァロン半島の南側の海岸沿いのプレサンシア湾近辺までさらに船を進め、その後に帰路についたルート、(3)ノヴァ・スコシア州のケープ・ブレトン島近辺まで南下し、その後に帰路につくルート等である。[34] その詳細を残存史料から決定づけるのには、困難を伴う。だが、そのいずれにしても帰路の大西洋《横断》航路は、海流・風向きの関係で、往路よりも南側のルートをとったとするのが自然である。彼は、いわば半楕円形をたどるかたちで大西洋を往復したのだった。それは距離的にも時間的にも往路より節約でき、また技術的にもはるかに容易だったからである。そのため、わずか2週間余りでブリストルに帰港した。[35]

航海距離については、あるていど判明している。現在のメートル法に換算すると、パスクアリーゴ書簡ではイングランドから上陸地点までの約2,922キロ、デイ書簡では上陸地点からアイルランドまでの約2,240キロ、そしてR. サンチーノ書簡はやや漠然としてはいるが約2,880キロ、となっている。[36]

では、カボットのカナダ上陸地点とは一体どこだったのか。イギリス国王の命を帯びた航海が、王旗・ヴェニスの旗・法王庁の旗を立て、十字架を建立し、《上陸宣言》をしたというシンボル的な意味で、またイギリスの北米大陸における初の《主権宣言》をしたという実態的意味で、英系カナダの歴史家にとり、その特定はきわめて重要となってくる。だがこの最も肝心なことが、いまだに判然としない。[37] その上陸地点に関する《学説》を大別すれば、実業家ではあったが歴史研究者としても業績を成し、ニューファンドランド歴史協会でも指導的役割を果たしていたW. A. マン(W. A. Munn)、あるいはニューファンドランド生まれの裁判官・歴史家のD. W. プラウズ(Daniel W. Prowse)らによるニューファンドランド北東岸の《ケープ・ボナヴィスタ説》[38]、アメリカの海事史家M. H. ジャクソン(M. H. Jackson)の《ラブラドル上陸説》[39]、古典的にはノヴァ・スコシア州出身のS. E. ドーソンによる《ケープ・ブレトン島説》[40] などもある。そのいずれもが、今日でさえ大西洋岸地域におけるローカル・ナショナリズム意識高揚の遠因ともなっている。と同時に、これらが内容的に航海術・地理学・気象学などの専門知識を駆使し、技術論の色彩も多分に濃い論調で展開しているため、それなりの説得力を持っているような錯覚に陥る。正直、その特定化にはきわめて困難をともなうのだが、それでもこれらの学説には、やはり共通する限界があった。一つは決定的な《証拠不足》、今一つはあくまで《推論の域》を出ていない、という弱点であった。

こうした曖昧性ゆえに、彼の上陸地点・航海をめぐる論争は、かえって《カボット伝説》を育む風土をつくり出していくことになる。

 

 

C.  J. カボット像の演出:《伝統の発明》?

 

 

カナダの歴史には、アメリカ合衆国史のように国民的レベルでの英雄は乏しい。あるのは特定の民族的・地域的レベルでの英雄ばかりである。ニューファンドランドも例外でない。そこは文化的にユニークな遺産を潜在させながらも、政治的には長らくカナダ史の枠外ないしは傍流にあった。カナダ連邦への加入が1949年であったように、そこは法的には最も遅くまで英国の植民地下にあった。地理的にはカナダの他州と隔離され、また海に囲まれた生活条件は、そこの住民に独自のメンタリティを育むのに貢献してきた。[41] だが、ニューファンドランドが歴史的文脈のなかで、新旧両世界の北方における重要な《接点》であったことは忘れてならない。

こうした背景のなかで、ニューファンドランドとその地以外の英系カナダの両者にとり、共有できうる歴史的《英雄像》としては、誰がふさわしいだろうか。それがJ. カボットであった。彼は、何よりもまずニューファンドランドの《発見者》であり、そして同時に英系カナダ史の《始祖》とも解されてきたからである。[42] つまり《地域》(ニューファンドランド)と《国家》(カナダ)の両者を等しく満足させうるファンディング・ヒーローとして、J. カボットに勝る者は他にいなかった。

そして1997年。この年は、カボットのニューファンドランド《発見》500周年目にあたっていた。州都セント・ジョンズを中心に、《Cabot 500 Years Newfoundland and Labrador》と銘打ち、政府や民間企業などの財政的支援のもとで各種の行事が行われた。彼の第一回航海時の《Matthew》号のレプリカがイングランドで建造され、この帆船はニューファンドランド島北東の人口約4000余りの漁村ボナヴィスタに入港していた。小雨降る肌寒い624日のことだった。まさにそれは、500年前にその地に上陸(landfall)したとの想定にたったセレモニーだった。英国からはエリザベス女王夫妻が出席し、カボットの出身国イタリアからは大統領も参列していた。カナダのメディアの目はおのずとニューファンドランドに注がれる。その一方で、州内ではコンサートからシンポジウムまでを含め、合計75のイベントが催され、参加アーティストだけでも1400名を数えたという。北大西洋の北東に面した地で、こうした《活況》はめったにない。それも当然で、カナダ連邦とニューファンドランド州の両政府は、《Cabot 500 Years》のために、総額合計2,000万ドルを費やしていたのだった。[43]

こうして1497年の第一回航海から500年目の1997年に、J. カボットが蘇った。《自然蘇生》でなく、文化遺産的な《人工蘇生》であった。それは、まさにニューファンドランド版《伝統の発明》だった。[44]

 

 

ところで、J. カボットにまつわる《伝統の発明》現象はこの年だけでなかった。100年前の1897年にも行われていた。実は、カボットをめぐる前世紀の《400年祭》(quadcentennialのイベントの方が、コマーシャリズムの色濃い20世紀のそれよりも、ある意味で興味ある社会現象を生み出していた。《南》のコロンブスに見るアメリカ合衆国版とも若干比較しながら、《北》のカボットに関わるニューファンドランドの動きを考察してみよう。

時系列的にいえば、1892年はコロンブスの第一回《アメリカ》到達年から数えて丁度400年目だった。《400年祭》自体は合衆国のほうが5年先行していた。同年、コロンブスをめぐる合衆国での代表的な記念事業には、記念切手の発行を含めて次のものがあった。アメリカの繁栄と進歩を象徴するかのように、シカゴでの大規模な世界博(Columbian World’s Fair)の開催、ニューヨークでの5日間にわたる大パレード祭、コロンブスのブロンズ像の建立、宗派を越えてアメリカにおける宗教的自由のための祝典、そして当時のB. ハリソン大統領による1012日(*注。《アメリカ》到達日)の休校宣言、等である。この日はやがて1934年、F. ローズベルト大統領による国民祭日《Columbus Day》の先駆けとなる。[45]

要するに、合衆国社会の場合は、国家的規模でやや誇大妄想的なまでに、またほぼ全国的広がりのなかでコロンブスが祝われた、と言ってよいかもしれない。

 

 

それに比べ、カボットの《400年祭》(1897年)をめぐるカナダおよびニューファンドランドの場合は、様相を異にしていた。この《400年祭》の開催という発想自体、後発的で大なり小なり1892年の合衆国でのコロンブス記念行事の実施に感化されたものである。だが北方に位置するニューファンドランドとカナダは、合衆国とは歴史・文化・風土・メンタリティが違う。そこを舞台とした《伝統の発明》はどのようにつくられていったのか。

歴史の希薄な地域で《伝統の発明》のためには、基本的には次の三条件を必要としよう。一つは客観的な《タイミング》、二つは事実・理念としての歴史家・知識人らによる《歴史像の構築》、あるいはそれにもとづく《世論の形成》、そして三つがこれらを総合した公的・社会的レベルで認知形態としての《イベント事業の実施》である。それぞれを追ってみよう。

まず第一に《タイミング》だが、これは1897年が《400年目》にあたる節目の良さからして、まさに絶好の条件を備えていた。ほとんど問題なしに、《伝統》づくりには時宜にかなっていた。とりわけニューファンドランドにとって、1870年代から続いていた不況の波、あるいは1892年の大火(セント・ジョンズ市)など社会不安からの脱皮材料として、1897年の記念行事は心理的に志気高揚要因にもなり易かった。 

第二に、《歴史像の構築》についてだが、これを歴史認識の《合理的動機づけ》と理解してもよいだろう。《伝統の発明》のためには、ローカルな、あるいはナショナルなレベルで、知識人らによる合理的規範が、ある程度まで形成されていることを前提とする。また、その延長線として知的指導者らの働きかけや民衆による《世論の形成》も重要ファクターとなる。とはいうものの、本質的に地域主義の濃いカナダでは、J. カボットをめぐる対応の仕方も英系の中でさえ実は同一でなかった。

その一例として、当時カナダ連邦の要でもあったオンタリオ州の場合を見よう。そこでは、州議会議員O. ハウランド(O. Howland)がこの《伝統》づくりに関心を示していた。彼は、カボット400年祭をカナダにとって《果敢な発見者の記憶を忠実に披露する》[46] ものと位置づけ、《カナダ歴史博覧会》の名のもとに、トロントでの開催を積極的に呼びかけていた。しかしカボットの歴史的意味づけが、内陸部に位置するオンタリオでは今一つ実感として響かなかった。また、仏系ケベックからの強い異論もあり、連邦政府からの資金援助を獲得できなかった。さらには同年がたまたま英国のヴィクトリア女王(Queen Victoria 1819-1901)の即位60周年記念(Diamond Jubilee)にもあたっており、世論の関心は圧倒的にそちらの方に傾いていた。そのためトロントでの開催予定は、失敗に帰してしまう。

一方、大西洋岸の諸地域では様相を異にしていた。J. カボットに対する歴史認識はより身近であり、より積極的であったからである。その知的指導者として口火を切った代表的人物が、北アイルランド出身のM. ハーヴィー(Moses Harvey 1820-1901)だった。本職はプレスビテリアン派の牧師だが、彼は歴史学界やジャーナリズム界でも精力的に執筆活動をしていた。1895年、彼はその意図を《ヨーロッパ文明の道を初めて北米に切り開いた人物の記念行事なしに、1897年は通過出来ぬ》ととらえ、さらに《カボット像やその記念碑はこれまで父や息子の想いに登場してこなかった》[47] と、自戒をこめて論陣を展開したのであった。タイミングをねらって1897年、彼は小冊子ではあるが格調高い簡潔な文体で書いたNewfoundland in 1897を刊行し、歴史的文脈のなかにカボットの意義を積極的に見い出していく。副題にはQueen Victoria’s Diamond Jubilee Year and The Four Hundredth Anniversary of the Discovery of the Islandとつけられていた。その基調はニューファンドランドを《England’s first colony》とする誇りにあった。[48] それと前後して、《ロイヤル・ソサエティ・オブ・カナダ》[49] に対しても、彼はその主張を繰り返して行っており、やがてそれが広がりをみせてゆく。

それを受けて1897624日、このロイヤル・ソサエティは、セント・ジョンズではなかったが定例会合の機会にあわせハリファックスにおいて、記念行事を開催したのだった。もっとも、それは必ずしも一般市民にまで浸透したイベントでなく、カナダ側からは総督、カボットの国イタリアからは総領事なども出席し、この催し自体の内容は、社会的名士たちの集まる儀礼的色彩の濃いセレモニーであった。だが極論すれば、中身は問題でない。こうしたセレモニーおよびそれに関連する象徴的《形式》こそが、J. カボットの歴史的業績を《公認》し、《威信》を与え、そしてそれを《定着化》させるのに貢献しうるからである。このロイヤル・ソサエティの作製した真鍮の記念タブレットの文面(一部)には、次のように記されていた。

 

Who under authority of the letters-patent of HENRY VII directed him ‘to conquer, occupy, and possess’ for ENGLAND all lands he might find ‘in whatever part of the world they be’ sailed in a BRISTOL Ship THE MATTHEW, and first planted the flags of ENGLAND and VENICE on the 24th of June 1497 on the north eastern seaboard of NORTH AMERICA and by his discoveries in this and the following year gave to ENGLAND a claim upon the Continent….[50]

 

これを単に記念タブレットにすぎない、と看過するわけにはいかない。なぜならば、ヘンリーVII世の特許状の文言《conquer, occupy, and possess》を直接引用し、上陸地点を特定できていない曖昧性を間接的に表現し、イングランドによる植民地化のはしりを積極的に評価していた点等、そこには、J. カボットに対する当時の歴史意識の実態が、いみじくも凝縮されていたからである。

他方、400年祭にかかわるJ. カボット歴史像の《確立》という点では、まだ問題を残したままだった。とくにカボットの肝心な《上陸地点》については、既述のように百家争鳴の観を呈していたからである。当時、D. W. プラウズ、S. E. ドーソン、M. F. ハウリーらが論陣を張っていた。[51] 同時に、これらには一部ニューファンドランドやノヴァ・スコシアの地域的思惑、いわばローカル・ナショナリズムの発揚意識とも微妙に絡んでいた。だがこうした現象には、客観的検証とは無関係に、《権威》によって物事を考え、あるいは《自己に都合のよい説》によって歴史を解釈してしまう、という危惧もはらんでいた。

だが第三として、こうした知識人たちの論争とはうらはらに、とくに《海の民》としてのルーツを持つニューファンドランド住民の間では、すでに《カボット祭》を受け入れる雰囲気ができあがっていた。知識人たちの専門的論争とはうらはらに、1897年の記念行事にむけて、いわば《カボット・フィーバー》が湧きあがっていた。《イベント事業の実施》への環境づくりは十分だった。決定的証拠はないもののカボット上陸の地とされたボナヴィスタでは、漁師会がシティホールにその記念碑をすでに建立していた。中心都市のセント・ジョンズでは、港を見下ろすシグナル・ヒルで記念モニュメント《カボット・タワー》建設のための定礎式を行っていた。このタワーの完成は1900年だが、翌1901年、そこは奇しくも同じイタリア人技師M. G. マルコーニ(Marchese G. Marconi 1874-1937)が初の大西洋横断無線通信を成功させた場所ともなった。歴史的舞台の場として、ここでも《カボット》が一役買うことになる。 

かくして《カボット400年祭》通して見た《伝統の発明》のプロセスは、《タイミング》の良さという客観的状況からはじまり、《歴史像の構築》《世論の形成》《イベント事業の実施》というパターンを踏みつつ、最後は《公的演出》というお墨付きをもってひとまず完成したのだった。J. カボットの歴史的意義づけは、肯定的に評価され、そして土着化していった。1997年の500年祭は、それの再確認行事だった。

 

 

D  結びにかえて

 

振り返って見てJ. カボットの航海に関連しては、次のことが言えるであろう。一つ目は、彼の最終目的地が《アジア》であったとすれば、その航海は明らかに失敗であったこと。二つ目は、航海目的が《通商路》の拡大であったとすれば、それもまた失敗であったこと。彼のもたらしたニューファンドランド島周辺の豊富な漁場についての報は、実態としてはむしろ期待外れの成果だった。財政的支援者であるブリストル商人たちの関心は、《通商》にこそあったからである。そして三つ目は、後世から見た場合、彼の航海はニューファンドランド史および英系カナダ史の嚆矢に連なったこと。彼の航海が無ければそこはスペイン人の掌中に陥っていたとする視点は極論であるにせよ、[52] イングランドが後年、ニューファンドランドの主権を持ち出す歴史的理由付けになったのは否定できない。

他方、J. カボットに関する研究書は多いが、その実像となると未だにはっきりしない。彼をめぐるハイライトは、カボット400年祭あるいは500年祭であったが、航海路や上陸地点についての詳細な歴史的解明にまで、必ずしもそれが直結したわけでない。

では最後に、ニューファンドランドは、この《海の男》J. カボットになぜかくも固執してきたのか。それは、強い《Anglophilia》の土壌に加え、そこが《海》という絆でイングランドと結ばれていたからである。ニューファンドランド人の底流にひそむ情念とは、《海の民》の子孫であることに潜む。そしてJ. カボット像が、まさに彼らのアイデンティティとも重複するからである。

 



* 竹中 豊、Professor, Canadian Studies, Caritas Junior College, Yokohama, Japan

[1] もっとも、1987年より刊行されたHistorical Atlas of Canada, 3 Vols. (Toronto: University of Toronto Press)などは、均衡のとれた内容となっている。

[2] カナダへの帰属意識はニューファンドランド州の場合47%で、それはケベックの44%に次ぐ低さである。ちなみにカナダ平均で73%Maclean’s, Jan. 1, 1990.

[3] ここで《発見》(discovery)という言葉について留意しておきたい。15世紀における《discover》とは、秘密などを《暴露する》(disclose)、あるいは曖昧模糊だったものを確かめて《知らせる》(make known)という趣旨で使われていた模様である。今日、われわれの理解している意味とはややニュアンスが異なる。J. A. Simpson and E. S. C. Weiner, eds., Oxford English Dictionary, 1989, 2d ed., Vol. IX. なお、本稿では誤解を避けるために、それをカッコつきで使用する。

[4] イタリア名は Giovanni Caboto

[5] P. Pope, The Many Landfall of John Cabot (Toronto: University of Toronto Press, 1977), pp. 43-48.

[6] F. O’Dea, “Cabot Landfall--Yet Again,” A Cabot Miscellany (St. John’s: The Newfoundland Historical Society, 1997), p. 13.

[7] S. E. Dawson, “The Voyages of the Cabots: Latest Phases of the Controversy,” The    Discovery of America by John Cabot in 1497 (Ottawa: James Hope and Sons, 1896, pp. 139-224.

[8] J. A. Williamson, The Cabot Voyages and Bristol Discovery under Henry VII (Cambridge, England: Haklyt Society, 1962); S. E. Morison, The European Discovery of America (New York: Oxford University Press, 1971); P. Pope, op. cit.

[9] The Voyage of Jacques Cartier with an Introduction by Ramsay Cook (Toronto: University of Toronto Press, 1933), pp. 3-113.

[10] A. Ray, “When Two Worlds Met,” in The Illustrated History of Canada, ed. C. Brown (Toronto: Lester & Orpen Dennys, 1997), pp. 17-104.

[11] R. D. Francis, R. Jones, and D. B. Smith, Origins: Canadian History to Confederation (Toronto: Hold, Rinehart and Winston of Canada, 1988), p. 27.

[12] M. Brunet, G. Fregault, and M. Trudel eds., Histoire du Canada par les textes (Montreal: Fides, 1956)は、仏系歴史家達の編纂した原典カナダ史だが、そこにJ. カボットは登場しない。ただし、L. Campeau, “Jean Cabot et la Découverte de l’Amérique du Nord,” Revue d’histoire de l’Amérique français, Vol. XIX, No. 3 (1965), pp. 384-413 はすぐれている。

[13] 拙稿「カナダ歴史学の文脈:その再評価」『津田塾大学紀要』第29号 津田塾大学 1997pp. 103-32.

[14] G. W. Brown, gen. ed., Dictionary of Canadian Biography 1000-1700, Vol. I (Toronto: University of Toronto Press, 1966), pp. 146-52.

[15] W. J. Browne, “Newfoundland Celebrates 450 Anniversary of Discovery by John Cabot 1497--1947,” The Newfoundland Quarterly 47 (June 1947), p. 18.

[16] A. F. Williams, John Cabot and Newfoundland (St. John’s: Newfoundland Historical Society, 1996), pp. 15-17.

[17] J. A. Williamson, op. cit., pp. 33-174; G. W. Brown, gen. ed., op. cit.; P. Pope, op. cit., pp. 13-16; J. Parson, Away Beyond the Virgin Rocks: A Tribute to John Cabot (St. John’s: Creative Publishers, 1997), pp. 11-15.

[18] L. Pasqualigo, to His Brothers at Venice, J. A. Williamson, op. cit., pp. 207-208. 原文はイタリア語。

[19] R. Soncino, News Sent From London to the Duke of Milan, J. A. Williamson, op. cit., pp. 208-9. 原文はイタリア語。

[20] Ibid., to the Duke of Milan, p. 209.

[21] 原文は スペイン語。L. A. Vignera, “The Cape Breton Landfall: 1494 or 1497: Note on a letter from John Day,” Canadian Historical Review, Vol. XXXVIII, (Sep. 1957), pp. 219-28.

[22] J. Day, to the Lord Grand Admiral, J. A. Williamson, op. cit., pp. 211-12.

[23] Ibid., op. cit., p. 213.

[24] P. Firstbrook, The Voyage of the Matthew John Cabot and the Discovery of North America (Toronto: McClelland & Stewart, 1997), p. 111.

[25] J. A. Williamson, op. cit., p. 204. 原文はラテン語。

[26] Ibid., pp. 204-5.

[27] P. Firstbrook, op. cit., pp. 64-69.

[28] J. Day, op. cit., p. 213; Soncino, op. cit., p. 209.

[29] L. Pasqualigo, op. cit., p. 208; J. Day, op. cit., p. 213.

[30] P. Firstbrook, op. cit., p. 118.

[31] Ibid., p. 24. Paris Map (1544) Legent 8. 6月24日は洗礼者ヨハネの祝日である。

[32] J. Day, op. cit., p. 213.

[33] D. B. Quinn, North America From Earliest Discovery to First Settlements: The Norse Voyages to 1612 (New York: Harper & Row, 1977), pp. 114-19; P. Firstbrook, op. cit., p. 119; J. A. Williamson, op. cit., p. 28; S. E. Morison, op. cit., pp. 161-70.

[34] A. F. Williams, op. cit., pp. 28-30.

[35] J. Day, op. cit., p. 213.

[36] L. Pasqualigo, Day, and Sancino, op. cit., pp. 208, 209, and 212.

[37] P. Pope, op. cit., pp. 69-89.

[38] W. A. Munn, “John Cabot’s Landfall,” Newfoundland Quarterly, No. 36 (July 1936); F. O’Dea, op. cit., pp. 11-25.

[39] M. H. Jackson, “The Labrador Landfall of John Cabot: the 1497 Voyage Reconsidered,” Canadian Historical Review, XLIV, No. 2 (1963), pp. 122-41.

[40] S. E. Dawson, op. cit., pp. 201-5.

[41] K. Matthews, Lectures on the History of Newfoundland 1500-1830 (St. John’s: Breakwater Books, 1988), pp. 7-34.

[42] D. W. Prowse, History of Newfoundland (London: MacMillan & Co., 1895), pp. 4-23.

[43] Maclean’s, 23 June and 17 July, 1997.

[44] この表現はE. Hobsbawm and T. Ranger, eds., The Invention of Tradition (Cambridge, England, 1983) による。

[45] P. Pope, op. cit., p. 96.

[46] P. Pope, op. cit., p.99.

[47] A. F. Williams, op. cit., p. 53より引用。

[48] M. Harvey, Newfoundland in 1897 (London: Sampson Low, Mareston & Co. 1897), pp. 1-12.

[49] 1882年、カナダ総督の後援のもとに設立。文化人・学者達からなる団体。

[50] P. Pope, op. cit., p. 102.

[51] D. W. Prowse, A History of Newfoundland from the English, Colonial, and Foreign Records (London: MacMillan & Co. 1895), p. 10; P. Pope, op. cit., p. 93; S. E. Dawson, The Voyages of the Cabots: Latest Phases of the Controversy (Ottawa: James Hope and Sons, 1896), pp. 201-5; M. Howley, “Cabot’s Landfall,” Magazine of American History, Vol. 50, No. 58 (1891), pp. 268-69; P. Pope, op. cit., pp. 105-7.

[52] D. W. Prowse, op. cit., p. 6.