短歌の英訳

A・ウェイリー再訪―

(English Translation of Tanka: Arthur Waley Revisited)

                                                                                                                          

Hiroaki Sato*

 

 

SUMMARY IN ENGLISH In appealing to his lover or trying to facilitate the study of the Japanese text, Arthur Waley translated the 5-7-5-7-7-syllable tanka in five lines, often padding his translations in the manner of Robert Brower and Earl Miner. But in translating The Tale of Genji and Murasakis Diary he incorporated most of the tanka into the prose, so that an inadvertant reader may never know that Genji contains nearly 800 tanka.

Reading Waleys tanka translations incorporated into the prose text, one wonders if it may not be more natural to translate this verse form in one line. After all, unlike most English translators of tanka who believe with Waley that the tanka is a poem of five lines, most Japanese tanka writers, Tawara Machi of Sarada Kinenbi fame included, regard it as a one-line poem. If one function of translation is to reproduce the original, shouldnt the attempt to do so include the line formation as well? Or if the breakup of the five syllabic units is to be stressed, why not go a step further and stress the syllabic count as well? What about the now of the original? 

This paper looks at these questions by citing translations of Waley, Brower and Miner, Seidensticker, Bowring, Heinrich, Shinoda and Goldstein, Watson, LaFleur, Rodd and Henkenius, McCullough, and Carpenter against Satos own monolinear translations.

 

 

 

 

詩人の高橋睦郎さんが『梅の木』と題する新作狂言を書き、それが載った『新潮』を送ってくださった[1]。ぼくが高橋さんの詩を英訳して出している[2]ためだが、現在逗子に住んでいる高橋さんはぼくも何年かを過ごしたことのある北九州で育った人であって、この新作狂言『梅の木』では蛙と雲雀の鳴き声にその方言が使ってあるのが愉快である。

とまれ、『梅の木』の「E・パウンドのために」との献辞とは単なる偶然なのだろう、この『新潮』号には、平川祐弘東大教授の「アーサー・ウェーリーの相聞歌」という文もあって、ウェイリーがアリソン・グラントという人に恋を語らうのに折々和歌を英訳して送ったことが書いてある。そして、平川教授はそうした訳を三つほどもとの歌ともに掲げ、その最初の訳について「英訳の方(とくに第四句)がより直截的に相愛の気持ちを打ち明けている」と述べている。その英訳をそのままに引いてみる。

 

If only a seed shall fall,

Even among the waterless stones,

A tree will grow.

If you love and I love,

Can it be we shall never meet?

 

この訳をできるだけ忠実に日本語に訳してみると、

 

仮にもし一粒の種が落ちれば、

水のない石の間にすら

木は生えるであろう。

もしあなたが愛しわたしが愛するなら

二人が決して会わないなどということがありえようか。

 

ともなろうと思う。

ところが、もとの歌、(『古今集』「恋歌一」読み人知らず、512番)、

 

たねしあれば岩にも松はおひにけり恋をしこひばあわざらめやも

 

の第四句「恋をしこひば」は「頑張って恋し続けるなら」という意味であって、とすればこれは典型的な片思いの歌である。昔の歌、というか、勅撰集が編まれるようになった後の歌では、相思相愛の感情をうたいあげることはほとんどなくなったから、「恋をしこひば」の「恋・こひ」を相愛の二人に分けてしまったのは、ウェイリーが恋の方便に原意を曲げてしまったか、誤って解釈したのだろう。

というようなことを言い出したのも、不世出の翻訳家Arthur Waley18891966年)の訳にケチをつけようと思ったからではなく、「英訳の方(とくに第四句)がより直截的に相愛の気持ちを打明けている」との平川教授の言葉が、ふと,式子内親王(1201年没)の

 

玉の緒よ絶えなばたえねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

 

を思い出させたせいなのだ。片思いの歌を相愛の歌に変えたことの是非はしばらくおくとして、もとより翻訳のいちばん大切な機能は原文の分からなさを明確にすることつまり、日本語を英語に訳すのは、日本語がわからない英語の読者に、もとの文章がどういうことを、どのような表現あるいは言い回しを以て言っているのかを伝えることであるはずだから、「訳の方が原文より直截的である」という平川教授のことばは当然といえば当然とせねばならないが、式子の「玉の緒よ」にはプリンストン大学のEarl Miner教授の有名な訳があって、その“玉の緒よ”の部分だけを直截に日本語に戻すと、「鳴呼、生命の紐よ!わたしの魂の宝石をつらぬいている」となる。マイナー先生の訳を引いてみよう。

 

O cord of life!

Threading through the jewel or my soul,

If you will break, break now:

I shall weaken if this life continues,

Unable to bear such fearful strain.[3]

 

この訳は、ぼく自身の訳との対比で、最近小さな物議をかもすことになったので、ぼくの訳を引く。ぼくの訳は一行訳であることに注意していただきたい。

 

String of beads, if you must break, break: if you last longer, my endurance is sure to weaken.[4]

 

小さな物議と言うのは、ぼくが式子内親王の和歌を全部英語にして、あるアメリカの大学出版会に出したところ、その出版会ではそうした場合の慣習に従って、ある大学の先生にぼくの訳の判定を求めた。peer reviewである。これは日本ではレフリー制度として知られているらしいが、ぼくは日本の制度のあり方については無知に等しい。アメリカでは、当該の問題について、もとの原稿を準備した人と同等ないしそれ以上の知識を持ちあわせていると思われる人に、原稿の価値の判定を求める制度である。そして、そうした依頼を受けた人が否定的な判定をしてもシコリが残らないよう、普通、依頼を引き受ける人は匿名で報告を出す。ぼくはこの制度そのものは良い制度だと思うが、匿名を笠に着て無謀なことを言う人が多いのはこの制度の恥ずべき点だと考えている。ぼく自身はreviewを依頼された場合名前を明らかにするようにしている。

ともかく、くだんの出版会にぼくの原稿の判定を依頼されたreviewerは、ぼくの原稿の価値がまったくないとする最初の理由として、マイナー先生とぼくの「玉の緒」の訳を比較し、ぼくの訳はもとの歌の持つintellectual pleasurerichnessを剥ぎ取ったものであると断言した。

いったいぼくはちょっとでもケチをつけられるとカッとなるタチだから、昔から敬愛してきた式子内親王の歌の、長年かけて準備した英訳を、厭味たっぷりな言い回しで足蹴にされたのに必要以上に腹をたてて、腹をたてたついでに、東京学芸大学で国文学を教えている義弟の藤井貞和に、「もしこの匿名氏の実体が明らかになった暁には、いつかしかえしをしてやるつもり」と書き送った。すると、この、詩人としても一家を成している義弟から早速返事がきて、「玉の緒」の英訳には、

 

「たまのを」の二重の意味、したがって「たゆ」の二重の意味

「たえなば」の現在完了仮定形

「たえね」の現在完了命令形

「ながらえば」仮定形

「しのぶること」が主語、つまり擬人法的用法であること

「もぞ」が心配・不安・悪い予感をあらわすこと

これだけを盛り込むことが必要になります

 

との返答が戻ってきた。そして、そのとき湾岸戦争のただ中にあったこともあって、しかえしなどと言うアメリカ流儀のやり方は止めて欲しい、との嘆願であった。ぼくはこれで機先を制された形になったが、読者はどう思われるであろうか。ぼくのようにウェイリーとマイナー先生の訳を見て、詩歌の訳とはまた何と寛大な遊びの領域だろうと、お考えになるか。あるいはマイナー先生の訳に関しては、reviewerの言ったこと、また義弟の藤井の言ったことに、なるほどと賛成されるのか。

平川教授のウェイリーに戻ると、ウェイリーは、1919年、Japanese Poetry: The ‘Uta’と言う短歌と長歌の選集を出しており[5]、その序文で、『古事記』と『日本書紀』に入っている235の歌謡のうち「ただ一つとして文学としての価値のあるものはない」(not one is of any value as literature)とか、「日本の古代語は文法が簡単で語彙も限られているから二三か月あれば習得できる」(since the classical language has an easy grammar and limited vocabulary, a few months should suffice for the mastering of it)といった、19世紀から20世紀にかけての英国学者でないと言えない、20世紀も終わりのぼくらには気恥ずかしいようなことを言っているが、更にまた、『百人一首』は「日本の詩の一番喜ばしくない側面をひけらかすように選ばれている」(so selected as to display the least pleasing features of Japanese poetry)とも「あらゆる種類の作為で満ちている」(Artificialities of every kind abound)とも言い捨てている。そういうことを言ったせいであろう、この選集には『百人一首』の歌は一首も取り入れていない。

ところが、アリソン・グラントに愛を語らった時には、平川教授の文章によると、少なくとも二つ、『百人一首』からの歌を使ったようである。源重之の歌(『詞花集』恋上、210番)、

 

風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな

 

As flogged by tempests

A wave I have seen

Dash itself against the rocks

So in these bitter hours myself only

Am by my thoughts destroyed.

 

それに、崇徳院の歌(『詞花集』恋上、228番)、

 

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

 

Like the waters of a river

That in the swift flow of the stream

A great rock divides,

Though our ways seem to have parted

I know that in the end we shall meet.

 

がそれである。最早指摘するまでもなく、これらは「たねしあれば」の場合と同じく、いずれも五行に訳してある。(この二首のうち、崇徳院の歌はぼくも訳したことがあるので、次に掲げる。ただし、最初に出版した形のものをいくぶん改めてある)。

 

Like a valley stream, its rapids blocked by boulders, we may break up but will I know meet in the end[6]

 

ウェイリーが短歌を五行に訳したのは、先に触れた歌集の中で彼が「短歌は五行詩である」(The tanka is a poem of five lines)と定義していることから当然といえば当然だし、確かにこの選集でも五七を分けてローマ字表記とし、「日本語のテクストの学習を円滑にするため」(to facilitate the study of the Japanese text)に準備されたということを明示して、出来るだけ五行に訳すように心掛けている。

面白いのは、それにもかかわらず、この「歌」の選集を作っていたころには既に手がけていたと思われる『源氏物語』の訳では、ウェイリーが和歌をきわめて柔軟に訳していることだ。この、「きわめて柔軟に訳している」というのは、アメリカの流儀の誇張でいえばthe understatement of the century, 言ってみれば控えめな物言いの控え過ぎであって、もっとはっきり言うと、「短歌は五行」との命題をないがしろにする行き方をしているのだ。つまり、ウェイリーは『源氏物語』を通じて和歌のほとんど全部を散文から独立させていないのである。この長編小説には合計八百首の歌がちりばめてあるというから、これは驚くべきこととせねばならない。そして詩として独立させている歌は十指に満たないようだが、これらは三行か四行に訳している。ついでにいえば、大部分が『紫式部日記』からの引用でできているその序文では、和歌はたった一つとして独立させてない。

詩として独立させてあるのは余り少なくて問題にならないので、散文に組み入れてあるものを見てみよう。たとえば、次の節がある。

 

But when they would have laid her in [a hand litter], he forbad them, saying There was an oath between us that neither should go alone upon the road that all at last must tread. How can I now let her go from me? The lady heard him and At last! she said; Though that desired at last be come, because I go alone how gladly would I live![7]

 

ここの部分の原文を、かりに小学館の古典文学全集の『源氏物語』で見ると、

 

輦車(てぐるま)の宣旨などのたまはせても、またいらせたまひて、さらにえゆるさせたまはず。帝「限りあらむ道にも、後れ先()たじと、契らせたまひけるを。さりともうち棄てるては、え行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじとみたてまつりて、

更衣「かぎりとて別るる道のかなしきにいかまほしきは命なりけりいと、かく思ひたまへましかば」[8]

 

云々となっている。ここは桐壼の局が帝の前で息をひきとる場面で、この物語で最初の歌が引かれる。このように原文を見て初めて、ウェイリーの訳の、

 

Though that desired at last be come, because I go alone how gladly would I live!

 

というのが「かぎりとて」という和歌の訳だということが分かる。

同じ部分を、『源氏物語』の第二の英訳、Edward Seidentickerのそれと比べてみる。

 

....the emperor ordered that she be given the honor of a hand-drawn carriage. He returned to her apartments and still could not bring himself to the final parting.

We vowed that we would go together down the road we all must go. You must not leave me behind.

She looked sadly up at him. If I had suspected that it would be so She was gasping for breath.

I leave you, to go the road we all must go.

The road I would choose, if only I could, is the other.[9]

 

ここでは、二行に訳してあるとはいえ、平の散文と独立させているから、初めはアレと思う人でもこれが和歌の訳であることに気がつこう。そこで、解釈の違いは無視して、ただサイデンスティカーが和歌を二行に訳していることだけを心にとめて、次に『紫式部日記』の一節を見てみよう。

 

His Excellency is walking in the garden. Now he has summoned one of his attendants and is giving directions to him about having the moat cleared. In front of the orange trees there is a bed of lady flowers (ominaheshi) in full bloom. He plucks a spray and returning to the house hands it to me over the top of my screen. He looks very magnificent. I remember that I have not yet powdered my face and feel terribly embarrassed. Come now, he cries, be quick with your poem, or I shall lose my temper. This at any rate gives me a chance to retire from his scrutiny; I go over to the writing-box and produce the following: If these beyond other flowers are fair, tis but because the dew hath picked them out and by its power made them sweeter than the rest. Thats right., he said, taking the poem. It did not take you long in the end. And sending for his own ink-stone he wrote the answer: Dew favours not; it is the flowers thoughts that flush its cheeks and make it fairer than the rest.[10]

 

これは『日記』の冒頭近くの、藤原道長との朝のやりとりで、原文は次の通り。

 

殿ありかせ給ひて、御随身(みずいじん)召して遣水(やりみず)はらはせ給ふ。橋の南なる女郎花の花のいみじふさかりなるを、一枝折らせ給ひて、几帳のかみよりさしのぞかせ給へり。御さまのいとはづかしげなるに、わが朝がほの思ひしらるれば、「これおそくてはわろからむ」とのたまはすることにつけて、硯のもとによりぬ。

女郎花さかりの色をみるからに露のわきける身こそしらるれ「あな()」とほほゑみて、硯召しいづ。

白露はわきてもおかじ女郎花心からにや色のそむらむ[11]

 

高校時代古文がいつも30点以下だったぼく自身のための覚書として記しておくと、この節で「御さまのいとはづかしげなるに」というのは、道長が朝早くまだ顔も洗っていない女性の部屋を覗き込んで「とても恥ずかしそうだった」という意味ではなく、「こちらが恥ずかしくなるほどの美男子振りだった」という意味だと注釈書にある。ウェイリーが、He looks very magnificent.と訳している通りだ。

このウェイリーの訳では、「これおそくてはわろからむ」を、Come now, he cries, be quick with your poem, Or I shall lose my temperと訳しているから、続くやりとり、すなわち、

 

If these beyond other flowers are fair, tis but because the dew hath picked them out and by its power made them sweeter than the rest.

 

 

Dew favours not; it is the flowers thoughts that flush its cheeks and make it fairer than the rest.

 

が和歌であろうと推測できる程度であろう。『紫式部日記』にはRichard Bowringの英訳がある。

 

... His Excellency is already out in the garden ordering his attendants to clear the stream of some obstruction. Plucking a maiden-flower from a large cluster blossoming on the south side of the bridge, he tosses it into my room over the curtain frame.

And wheres the reply?

So magnificent is he that I feel ashamed of my own rather dishevelled appearance and use it as an excuse to move over to where I keep my inkstone:

 

Ominaeshi

Sakari no iro o

Miru kara ni

Tsuyu no wakikeru

Mi koso shirarure

Now I see

This lovely maiden-flower

In bloom,

I know for certain

That the dew discriminates.

 

Quick, arent we! says he with a smile and asks for my brush:

 

Shiratsuyu wa

Wakite mo okaji

Ominaeshi

Kokoro kara ni ya

Iro no somuramu

The morning dew

Does not discriminate;

The maiden-flower

Takes on the colors

That it pleases.[12]

 

ここでも解釈の違いは無視してウェイリーに戻ると、ウェイリーがアリソン・グラントとの相聞のためではなく、また日本の古典詩歌の勉学を助けるためにではなく、散文の一部として少なくとも『源氏物語』と『紫式部日記』の一部として和歌を訳す時には、これをほとんど散文と見分けがつかないふうに訳しても構わないと考えたことは極めて面白いと思う。あるいは、我田引水の意図を明らかにするよう言い回しを変えると、五七五七七、三十一文字からなる短歌を訳す時にこれを行分けすることを絶対必要と考えなかったということは注目すべきことだと考える。

もちろんウェイリーの意図は分からない。人の意図なんて分かっていると思っている時でも分からない。一つ楽屋の裏話をしたい。

先に『源氏』の桐壷からの訳で示した通り、サイデンスティカーはこの物語の訳で和歌を二行に訳しており、その点ではウェイリーと違って一貫してそうやっている。この、和歌を二行に訳すということについては、十数年前,Kenyon Review誌の再刊記念昼食会に招待されて行ったところ、ぼくの側に座った人が、この偉い先生だった。同じテーブルに、ある雑誌から派遣されてきたという若い女性がいて、ぼくが多少は日本文学の英訳にかかわっていることを知ると、I adore Japanese literatureと言ったものだから、ぼくが、それじゃ、と、This is Prof. Edward Seidensticker.と紹介したら、その女性のいわく、Im pleased to meet you, Prof. Seidensticker. What do you do?と言ったから、開いた口が塞がらなかった。

先生はその当時まだ『源氏』の訳を終えていないか推敲中だったはずだが、そのとき、「私は和歌を二行に訳したい。できれば、上の句の部分を長く、下の句の部分を短く」とおっしゃった。そして間もなく出版された『源氏』訳を見ると、確かに和歌は二行訳になっていた。ただ、最初の行を二番目の行より長くというのは、先の「かぎりて」の訳に見られるように往々にして実現できなかったらしい。そこまではいい。

先に触れたぼくの式子内親王の全訳にMonumenta Nipponicaに出た短歌行分け論[13]を付録として原稿の一部としておいたところ、reviewerが同論でぼくがサイデンスティカー先生の意見に触れていることに気がついたらしく、「サイデンスティカーは『源氏』で和歌を二行に訳してるけれども、これはスペース節約のためにやったので、別に和歌が二行からなる詩形と考えているからではないと説明している。従って、佐藤が短歌一行訳論に五行訳を否定する論証のひとつとしてサイデンスティカーを持ち出すのは場違い」と言ったのだ。とすれば、この日本文学研究の巨頭は昼食会でぼくに短歌英訳の自分のアプローチを明らかにして以後、そして『源氏』訳の出版の後、見解を変えたのであろうか。

もっとも、サイデンスティカー先生の場合、今でも真相を質すことは可能だろう。既に四半世紀前に亡くなったウェイリーとはそういうことはできない。だが、あるいはウェイリーのやり方散文の一部とすることより、短歌を一行にさらりと訳す行き方の方が自然ではないのかということを考えさせる一つの発言をあげることはできる。これは、現在ではその権威がまったく失墜してしまった毛沢東流儀のことばでいえば「反面教師」ともすべきもので、いわく、「『源氏物語』は約八百首の和歌を引用しているから、約四千行の韻文を引用しているに等しい」という。四千云々は、もちろん、短歌は五行、八百掛け五は四千、という計算から出ている。実は、この発言の主は、先程も触れたアール・マイナー先生なのだが、読者はこの発言に、「ハア、なるほど」と思われるだろうか。それとも、「どうも妙だな。そんなのは一つの英訳の立場から見た、変な見方だ」と思われるだろうか。

 

何だか回りくどくなったが、ぼくは、短歌も、日本詩歌の歴史から見るとその孫に当たる俳句も一行詩と考えている。もちろん、Monumenta Nipponicaに出た行分け論でも述べた通り、日本の韻文における「行」すなわちlineという概念に対して、明治以前の歌人たちがその後の歌人たちと同じ考えを持っていたかどうかは確認できないと思う。それどころか、歌学で言う「行」は審美的であると同時に現実的なものであった。審美的というのは、一首だけを書くときには「三行と三字にせよ」という時、そうすれば見た目に美しかろうということであり、現実的というのは、「五六首以上を書く時には二行にせよ」というのは、スペースのことをも勘案してのことに違いないからだ。

しかし、くだんの行分け論では強調しなかったことだが、後世の学者なり詩人なりが考えたprosody, つまり詩形論、韻律論を、遡及的に昔の韻文に当てはめるのことは間違っているとは思わない。そしてその観点から、短歌は一行詩、俳句も一行詩という現在主流となっている考えを以て昔の和歌を一行詩として見ていくことも正当だと考える。短歌や俳句を一行詩と見なしている人として、たとえば、初めに触れた詩人の高橋睦郎がいる。高橋さんは、いわゆる“現代詩”の分野で一家を成しながら俳句や短歌でも文学賞を貰っている稀な人だが、この詩人は「俳句は一行詩」と断言しており[14]、短歌については同様の断言はまだ目にしてないけれども、その表記から判断するとこれも一行詩と考えているらしい。そして、高橋さんの“定形”ということについての発言からすると、高橋さんにとって五・七・七・七・七という文字単位が大切なのは“律”という観点からであって行分けという観点からではないと言えるようだ[15]

そういう見方をしながら、五行に分けて訳された和歌や、三行に分けて英語に訳された俳句を見ていくと、大きくいって二つの問題点がでてくる。一つは調べや流れとよばれるもの、もう一つは訳に折り込まれる内容である。このうち調べや流れの方は抽象的、主観的となる部分が多いので、個々の場合についてそれぞれの読者が判断していかなければならない。それでも、「玉の緒」で引いたマイナー先生のような、訳の中に説明を折り込む行き方をいったん離れ、もっと原文に沿った行き方をしようとすると、五行、三行に分ける必然性が弱まってくるはずだ。

たとえば、一つの例を、古典からではなく、近代の斉藤茂吉の歌集『赤光』からとってみる。この歌集の「死にたまふ母」という、五十九首から成る部分は、ぼくの知る限り三種類の完訳がある。その最初の歌、

 

ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なけれ

 

を、Amy Vladeck Heinrichは、Fragments of Rainbowsという茂吉の文学的伝記の中で、

 

As the wide leaves

flutter on the tree,

now gleaming,

now darkening,

my heart is uneasy.[16]

 

と訳している。それから、Seishi SinodaSanford Goldsteinという、かなりよく知られた翻訳コンビは、Red Lightsという訳書で、

 

restless

the fluttering

of large leaves in these trees

now shimmering

now dark[17]

 

としている。最後に、拙訳はFrom the Country of Eight Islandsに出ている。

 

Broad leaves turn themselves on the tree, gleaming, hiding, never restful[18]

 

これらの訳を引く前に、「原文に沿った行き方」ということを言ったが、ぼくは原文忠実の考えの中に詩形をも含めている。もちろん、詩を訳す人たちの中には、詩形の再現ということを大して重要でないと考える人たちも沢山いるわけで、一歩進んで、特に日本語と英語のように相互からかけ離れた言語の間で訳す場合には詩形の維持・再現なんて無意味に近いと言う人すらいる。

しかし、そのせいがあるのかどうか、一般には、詩の翻訳で原文に忠実にという場合に問題にされるのは、描写されている内容のことをいうようである。そして内容への忠実さを云々する場合に一つ言っておかなければならないことは、マイナー先生は、何年か前に亡くなられたRobert Browerとともに日本の古典詩歌の理解と翻訳で多大の影響を与えたし、その翻訳には今でも追随者その行き方を踏襲する人たちがたくさんいるということである。それは、ぼくの式子内親王訳を侮蔑し去った人が、ぼくの訳の貧しさを示すのに“instructive”としてマイナー先生の訳を引いたことからも知られる。とは言え、毛沢東に触れた伝でいえば、アメリカの日本文学界は決して一枚岩monolithicではないので、マイナー流儀の訳を行き過ぎと見る人もたくさんいる。もちろん、そうした人たちのなかには表立ってマイナー流儀を批判する人もいるわけだが、普通は自分の訳を提出することで批判的立場を明らかにするようである。ぼくとFrom the Country of Eight Islandsの訳に従事してくださったBurton Watson先生は後者の一人である。ワトソン先生は、最近西行の歌集を英訳して出したので、西行の有名な歌、

 

心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 

の訳を三つほど比べてみよう。

 

    While denying his heart,

Even a priest must feel his body know

    The depth of a sad beauty:

From a marsh at autumn twilight,

Snipe that rise to wing away.[19]

 

    Thought I was free

Of passions, so this melancholy

    Comes as a surprise:

A woodcock shoots up from marsh

Where autumns twilight falls.[20]

 

Even a person free of passion

would be moved

to sadness:

autumn evening

in a marsh where snipes fly up[21]

 

こうした英訳を見て、また、短歌は一行詩というぼくの見方を開陳されて、「マイナー流儀やその影響を受けた訳者は往々にして行き過ぎとなるかも知れないけれど、行分けする以上、ワトソンのように単に原文に忠実にしたのでは短・長・短・長・長という形が保持できないのではないか。もっと五・七・五・七・七という形を端的に示す訳はないのか」と考える人もいるはずだ。答えは、「ある」となる。1980年代の中頃『古今集』の完訳が二つ出たが、奇しくもというか、偶然、二つとも五・七の文字数をsyllable数に合わせる行き方を採用した。五七五七七の話だから、575番、素性法師の恋の歌、

 

はかなくて夢にも人をみつるよはあしたのとこぞおきうかりける

 

を例にとると、1984Kokinshūと題してプリンストン大学出版会から出た日本文学研究者Laurel Rasplica Roddと詩人のMary Catherine Henkeniusによる訳は、

 

    though fleeting were the

dreams in which I saw my love

    all the lonely night

unhappy I am to rise

from my lonely bed at dawn[22]

 

次に、翌年スタンフォード大学出版会からKokin Wakashūと題して出た、日本中世文学の研究と翻訳では追随を許さないHelen Craig McCulloughの訳。

 

    How reluctantly

I arise in the morning

    following a night

when I have at least glimpsed you

in an evanescent deam![23]

 

これにはぼくの訳もある。

 

After a fleeting glimpse of you in a dream at night, its hard in the morning to get out of bed[24]

 

このうちロッドの訳は、theが句跨がり、すなわちrun-on line (enjambment)となっていることが先ず目を引くとともに、もとの歌には見当たらないlonelyということばが二度も使ってあることに気がつく。次いでマッカラーの訳を見ると、一見、翻訳とはこんなものかなと思う、あたりさわりのない訳のようだが、よく検討すると、もってまわった表現がある。そして、その理由を考えてみると、lonelyの繰り返しも、もってまわった言い回しも、単にsyllable数を合わせるためであることが分かる。事実ぼくの経験では、日本語を英語にごく普通に訳せば、英語のsyllable数は平均して日本の文字数の七〜八割になる。つまり、短歌の三十一文字の場合、二十二から二十五のsyllable数になる。この「はかなくて」のぼくの訳が、その点、平均的な訳といえるわけで、数えてみると分かるようにsyllable数は二十四となっている。逆にいうと、三十一文字の短歌を三十一のsyllableに訳したのでは、原文にはないことばを加えると必要が出てくるということだ。ましてや、ウェイリーやマイナー先生のようにsyllable数が往々にして三十一を大きく越える訳にすれば、かなりたくさんのことばが追加されることになっても当然となる。

そこで、「詩歌の翻訳というものは、そんな数値的な問題ではあるまい。あなたは“玉の緒”の訳でそれをstring of beadsとしているが、そんな訳ではナンのことか分からない。それに比べて、藤井先生の挙げるいくつかの意味を折り込んだあるいは折り込もうとしたマイナー先生の訳は、きわめて明快ではないか」という言われ方も出てこよう。ぼくはその言い分にも一理あると思う。現にマイナー先生は最近出された短歌の詩形および翻訳論で、ご自分の翻訳を読んだ男の学生が感涙にむせんだとの報告を追記している[25]。これに対するぼくの応えは、「そのように原文に、少なくとも表面上には存在しないことばを追加すると、いわゆる短歌的抒情が失われる」ということになる。

また、ぼくのいう一行訳について、一行訳などというのは普通にいう詩として認められないのではないか、という人もいよう。これに対するぼくの応えは、「認められない公算は強い」となる。もちろん、ぼくの翻訳や批評文や論考などを掲載してくれる、学界に関係のない文芸雑誌や新聞では、学界のような先入観がないせいであろう、ぼくの一行訳をすんなりと採用してくれるし、それとは別に、ぼくは一行訳が詩として成立するかしないかの問題は、きわめて主観的な判断によると考えている。

同時に、ぼくは一行訳など突拍子もないことを唱える自分の立場の奇妙さにも痛く感じ入っているのであって、それはひとつの翻訳上の実験としては面白いかもしれないけれども、後世まで残る訳には成りえないとも考えている。もっとも、ぼくは詩歌の訳などというのは十年くらいも存続すれば幸い中の幸いと考えており、“後世”などという言葉を使うのすら面映ゆいのだが、日本の古典詩歌の訳におけるぼくの行く末は、H. H. Hondaの行く末に似たものになるのではないか、と夜遅く考えることもないではない。もと東大の英文字教授をしていたと聞くH. H. Hondaは『新古今集』や、西行の『山家集』の全訳をやった人だが、四行で韻を踏ませたその訳はdoggerelとして、アメリカの日本文学界では文献目録にすら無視されることが多い。

 

この話は、俵万智の歌の訳を引いて終わろうと思う。

 

いい(ヤツ)と結増しろよと言っといて我を娶らぬヤツの口づけ

 

『サラダ記念日』には二種類の英訳があるようだ。ぼくが持っているのは、散文では安部公房や円地文子の訳で知られるJuliet Winters Carpenterの訳の方。これは、出版社の講談社が翻訳者を公募するという異例の措置をとったものだが、カーペンターは訳の解説で、「短歌はしばしば“五行詩”と言われるけれども、これは誤解を招きやすい」と指摘し、「普通は一行で書かれるし、俵自身、短歌は一行詩と考えている」と述べながら、三行に訳している。

 

Marry a nice guy, now

says this guy, with a kiss,

and doesnt marry me[26]

 

この歌のぼくの訳は、次の通り。

 

 

Having said, Marry a good fellow, this fellow who wont wed me kisses me[27]

 

 

この文章は、1991118日、秋山健先生の上智大学のクラスで行った講演を書き改めたもの。冒頭の部分はニューヨークで発行される『OCSニュース』の連載欄「文学漫歩」に出た「たまのをよ」から書き換え採用した。「たまのをよ」は更に拙書『マンハッタン文学散歩』(1992年ジェトロ刊)に収録。以下、注。

 



* 佐藤紘彰, translator of Japanese poetry, essayist, director of research & planning at JETRO New York.

[1] 19917月号。『梅の木』は後に新作能二編(うち一つはYeatsAt the Hawks Well和訳)とともに『鷹井』として筑摩書房から出版された。

[2] Mutuo Takahashi: Poems of a Penisist (Chicago Review Press, 1975), A Bunch of Keys: Selected Poems by Mutsuo Takahashi (The Crossing Press, 1984), Sleeping, Sinning, Falling (City Lights, 1992).

[3] Robert H Brower & Earl Miner, Japanese Court Poetry (Stanford Univ. Press, 1961), p. 301.

[4] Hiroaki Sato & Burton Watson, tr., From the Country of Eight Islands (Doubleday & Univ. of Washington Press, 1981; reissued by Columbia Univ. Press, 1986), p. 187.

[5] Arther Waley, Japanese Poetry: The ‘Uta’ (Univ. Press of Hawaii, 1976; originally pub. 1919).

[6] From the Country of Eight Islands, p. 216.

[7] Arthur Waley, tr., The Tale of Genji (The Modern Library, 1960), p. 9.

[8] 阿部秋生他校注・訳者『源氏物語 一』(1970年 小学館刊), pp. 98-99

[9] Edward G. Seidensticker, tr., The Tale of Genji (Alfred A. Knopf, 1977), p. 6. 次節で触れる式子内親王の歌の全訳はString of Beads: Complete Poems of Princess Shikishi (Univ. of Hawaii Press, 1993)として出る予定。

[10] Waley, The Tale of Genji, p. x.

[11] 池田亀鑑他校注『枕草子 紫式部日記』(1958年 岩波書店刊), p. 444

[12] Richard Bowring, tr., & study, Murasaki Shikibu: Her Diary and Poetic Memoirs (Princeton Univ. Press, 1982), p. 45.

[13] Hiroaki Sato, Lineation of Tanka in English Translation, Monumenta Nipponica, Autumn 1987, pp. 347-356. 9で触れた式子全訳には、出版社との話し合いでこの論考に入れないことにした。

[14] 佐藤紘彰編著『英語俳句 ある詩形の広がり』(1987年サイマル出版会刊), p. 9

[15] 高橋睦郎著『稽古・飲食』(1987年 善財窟刊), 別冊・栞「日本語のモチゴメのために」。

[16] Amy Vladeck Heinrich, Fragments of Rainbows: The Life and Poetry of Saitō Mokichi (Columbia Univ. Press, 1983), p. 158.

[17] Seishi Shinoda & Sanford Goldstein, tr., Red Lights: Selected Tanka Sequence from Shakkō (Purdue Univ. Press, 1989), p. 106.

[18] From the Country of Eight Islands, p. 456.

[19] Japanese Court Poetry, p. 295.

[20] William R. LaFleur, tr., Mirror for the Moon: A Selection of Poems by Saigyō (1118-1190) (New Directions, 1978), p. 24. ここで訳者が「鴨」にwoodcockを選んだのは、「しぎ」が田鴨、山鴨などいくつもの種類を総合する言葉であることによる。snipewoodcockは、姿はかなり似ているが、習性は異なるようである。woodcockは、人や動物がずいぶん近くに来るまでじっと待っていて、突然羽音大きく飛び立つそうであるから、ここでwoodcockを選んだ以上、shoot upとするのは正しい。

[21] Burton Watson, tr., Saigyō: Poems of a Mountain Home (Columbia Univ. Press, 1991), p. 81.

[22] Laurel Rasplica Rodd with Mary Catherine Henkenius, tr., Kokinshū (Princeton Univ. Press, 1984), p. 214.

[23] Helen Craig McCullough, tr., Kokin Wakashū (Stanford Univ. Press, 1985), p. 180.

[24] Hiroaki Sato, tr., Fifty Tanka on Love, Anthology 81 (Ikuta Press, 1981), p. 62.

[25] Earl Minor, Waka: Features of its Constitution and Development, HJAS, Dec. 1990, p. 706, note 45. マイナー先生は常にぼくに対して雅びな紳士として接してくださるのでおことばを返すのは無礼の誹りを免れないが、ぼく自身の似たような経験から考えてみると、翻訳に対する感動には原詩をもととするものと翻訳に対するものがある。先生が伝えきかれた学生の場合は、原詩をもととする感動といわんより、むしろ先生の翻訳に対するものであったと推察されるが、いかがであろうか。

[26] Juliet Winters Carpenter, tr., Salad Anniversary: Machi Tawara (Kodansha International, 1989), p. 114.

[27] Hiroaki Sato, A Hot Poet/Reading Her Light Verse, Mainichi Daily News, Nov. 7, 1988.

 

    短歌と俳句の英訳における行分けについては、拙著『アメリカ翻訳武者修行』(1993年丸善株式会社刊)収録の「定型詩の英訳で物議をかもすこと」で、別の角度から論じているので、参考にしていただければ幸いである。