第4回 2003年5月7日(水)
プロとアマの間
吉岡逸夫(東京新聞社会部)


 

抄 録
 新聞記者として、カメラマンとして、自分は私的なメディアを作ってきた。そこに自分流のやり方があった。そしてそれはこれからもずっと続けていくだろう。


写真が語る5W1H

 写真であれ、文章であれ、5W1Hというのは基本だ。フセイン像が倒されたときの写真にも、SARSの被害写真にも、5W1Hがある。ジャーナリズムにもっとも重要なのは、「主語(S)」と「述語(動詞V)」である。ただし、写真と文章では、形容詞と副詞の表現の仕方が異なる。自分が何かを報道するときは、「主語と動詞だけで決めたい」と思う。

 ジャーナリズムには、物事の結論(結果)を伝えるものという意識がある。文章にはそれが顕著に表れているだろう。しかし、映像は途中経過の表現が得意。「なぜこの結論に至るのか」という経過を追っていくことで、面白さが表出しやすい。人間の無意識を捉えやすいのも、映像の特徴。

 

目指すのは「プロのアマ」

 ジャーナリストは、現場を伝えるのが使命である。例えるなら、火事場の最前列の野次馬である。そのための表現手段は何でもいい。

 アフガンでは実際に誤爆が少なかったという事実を、新聞紙上では書けない。なぜなら、「戦争」という言葉のイメージとその事実は、かけ離れすぎているからだ。物語性のある方が、速く、深く市民の意識に浸透する。だから、記者にとっても物語性のあることの方が伝えやすいのだ。しかし、そこにはイデオロギーなど、事実以外のものが入りすぎているのではないか。

 その対策としては、事実だけ、結果だけを伝えようとするのではなく、途中経過を見せること。そうすれば、語ることが不可能な事実をも報道することができる。プロは報道することで食べている。しかしアマはそうではない。だからこそ、アマにしかできない、アマの視点だからこそ汲み取っていくことのできる事実がある。

 新聞記者は、ジャーナリストとはいえ、一企業と契約を結んでいるサラリーマンに変わりはない。契約に束縛される面が多い。それがサラリーマン・ジャーナリズム。しかし、その契約に違反しない範囲であれば、自分が好きなことをできる。だから私は映画を撮り、本を書いた。

 イラクへの取材は、自分で決めてから、会社に申請した。会社は最初ダメと言ったが、その後、何とかOKをもらえ、出張と言うことになった。会社が記者を拘束しないのは、東京新聞の良さだろう。  今、私は月〜金は組織の人間として、土日はフリーとして活動しているようなものである。私のアイデンティティーは、大きな分類ではジャーナリストと意識している。でもそれは新しい形のものなのかもしれない。

 

フォト・ジャーナリズムとビデオ・ジャーナリズム

 フォト・ジャーナリズムは、相対的にカネになりにくいという状況がある。比較すれば、ビデオ・ジャーナリズムの方がまだカネになる。フリーにとっては、旅費が捻出しやすいビデオ・ジャーナリズムの方が、まだいいという状況なのだ。今後、フォト・ジャーナリズムは、ますます厳しい状況に置かれることになるかも知れない。

 

「やらせ」と演出

 「やらせ」を全面否定するつもりはないが、制作者が責任をもってその内容を説明できなければならない。「やらせ」をした理由をきちんと説明できるのであれば、それは演出ともなりうる。自分の解釈の中に収まり、最終的な責任を自らが負うのであれば、それはその人の表現の一部といってもいい。

(文・新聞学科3年 滝嶋世理)


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