新聞倫理綱領の見直し 1999年11月号

まジャーナリズムの現場で働く記者や編集者のなかで、日本新聞協会の新聞倫理綱領を目にしたことのあるものがどれくらいいるだろうか。仮に記者研修などで読まされたことがあるにしても、そこに書かれた指針を日常的に胸に思い起こしながら仕事に取り組んでいるものはまずあるまい。それほどに新聞倫理綱領はこれまで、軽い存在だったことを認めないわけにはいかない。
筆者自身、綱領の内容にじっくり目を通したのは四年前、大学でジャーナリズムの授業を持つようになってからのことだ。報道の仕事に携わっていた三十年あまりの間に綱領を読んだことがあったかどうか、記憶にさえない。



   時代にそぐわぬ表現
 
そんな新聞倫理綱領を見直して、新しいものを作ろうということになった。十月の新聞協会理事会で正式に提案され、その作業にあたる「倫理特別委員会」が設けられた。見直しの話は九月の理事会で、新聞協会現会長の渡辺恒雄・読売新聞社長が言い出したものといわれる。理由は、綱領ができてからすでに五十年以上が経ち、その内容や表現が時代にそぐわなくなっているからだという。
現行綱領の制定は敗戦一年後の一九四六年、一部補正を加えた一九五五年から数えても四十四年が経過している。テレビが登場する以前に書かれた綱領には、新聞だけが唯一の報道機関であるかのような表現がある。「新聞道」などという言葉づかいも、確かに時代離れした感じがなくはない。
しかし今回、新聞協会が見直そうとしているのは、綱領のそうした表現や言葉づかいだけの問題なのだろうか、それとももっと踏み込んだ、倫理上の基本理念を含めた問題なのだろうか。協会は「来世紀に向け新聞の一層高い倫理水準を維持する」ことを目指すという。その中身がなんであれ、見直すからには、十分時間をかけて議論を尽くし、業界内外にその過程を明らかにしてもらいたい。
 

  米は七〇年代に改定

敗戦直後に作られた現在の倫理綱領が占領当局によって押し付けられたものであったかどうかはともかく、その内容は米国のジャーナリズムにおける倫理基準の基本的な考え方を色濃く反映している。
米国でジャーナリズムの倫理基準が全国的な規模で定められたのは、一九二二年の米新聞編集者協会(ASNE)による「倫理規範(Canons of Journalism)」が最初とされている。一九二六年にはジャーナリスト協会(SPJ)がASNEの倫理規範をそのまま借用して倫理規定とした。その後ASNEは七五年に倫理規範の内容を一部改定し、表題を「ASNE原則声明」と改めた。一方のSPJは七三年に前記の倫理規定を全面的に書き改めて独自の倫理綱領を作成した。この倫理綱領はその後さらに八四年、八七年、九六年に修正が加えられている。
米国の場合も、最初の規範が作られてから五十年以上経って改定が行われているところが興味深い。一九七〇年代は、ベトナム秘密文書事件やウォーターゲート事件の報道でジャーナリズムが大いに気を吐いたが、同時にメディアに対して外部からの批判が高まった時代でもあった。これら歴史のある倫理規定に加えて、この時期に個別の新聞社やネットワークのなかにも独自の倫理基準を設けるところが相次いだ。
 


  再販がらみの思惑も

ところで、新聞協会がいまの時期に倫理綱領の見直しを決めた背景には、単にその中身を新しくするというだけではない、別の思惑があるとの見方もある。二〇〇一年に再販制度存続の可否をめぐって結論が出るのを前に、新聞界が姿勢を正すのを世に示そうとの意図もあるのではないか、というものだ。
新聞界としてはなんとしても再販制度を維持することを目指している。その立場の正当性を主張するためには、行き過ぎた部数拡張競争などに対する市民からの批判をかわさねばならない。新聞界として新たな倫理綱領を掲げることで、再販制度維持への理解を求めることができる、との思惑が背後にあってもおかしくはない。
しかしそうした思惑のあるなしにかかわらず、今回の見直しにあたって新聞界が新聞倫理綱領をどのように位置づけようとしているのか、実はいまひとつはっきりしない。これまでのように、現場の記者たちにほとんど顧みられることのない、ただのお飾りの位置にまつりあげておくのか、それとも毎日の仕事のなかで倫理上の判断に迷った時、物差しとなるような行動規範にするのか。いずれを目指すのか、が見えてこない。
現行のASNE原則声明は基本的に七七年前の倫理規範と同じ内容のものだ。「責任」「報道の自由」「独立」「真実および正確さ」「公平」「公正」の六項目について、ジャーナリストの心がけを簡潔に述べている。総じて抽象的、総論的な傾きが強い。
一方SPJの倫理綱領は、ほぼ同じ分野の問題について触れながら、ジャーナリストが仕事のうえで直面する具体的な事例に即して「・・すべきである」と明快に行動の指針を示している。現場の記者、編集者にとってはこちらのほうがはるかにわかりやすい。新聞系列のガネットやスクリップス・ハワードがそれぞれ傘下の新聞向けに作成している倫理基準は、記者・編集者の守るべき行動規範をさらに詳細かつ具体的に述べている。


  問題はトップの姿勢

ジャーナリストの倫理を定めた綱領や基準がどれほどの実際的効果をもつのか、疑問視する声は米国にもある。罰則も伴わない綱領の文言を気にかけながら取材をする記者などいない、というのも誇張ではない。しかし他方で、綱領や基準であるべき姿を明文化することによって、少なくとも規範からはずれることを防ぐ心理的な防波堤になりうるとの主張もある。
倫理綱領を実のあるものにできるかどうかのかぎは、メディアで働く人たち、とりわけトップにある人たちが、綱領の精神をどこまで真摯に尊重するかにかかっている。トップがその精神を軽視すれば、いくら立派な文言で仕立て上げられた綱領でも、現場が忠実に守るとは思われない。
新聞協会による倫理綱領見直しにも、実はそのあたりに大きな問題が潜んでいるのではないか。古い綱領の内容や表現の見直しもむろん必要だろう。が、大事なことは、新しく作られるであろう綱領を真剣に守る意思が、メディアの重責を担う人たちにどれほどあるのか、である。見直し作業に着手するに先だって、各社のトップに確かめておきたいところだ。答えに多少ともためらいがあるようなら、綱領は結局だれにも読まれない、形だけのお飾りになってしまう。「一層高い倫理水準を維持する」ことなど覚束ない。
日本の多くの新聞、放送各社にもそれぞれ倫理綱領やそれに類する規定や規範があるはずだ。そこに盛り込まれているジャーナリストの行動の指針が普段どのくらい守られてきたか、をまず省みるところから出発するといい。自社の行動指針さえ現場に徹底させられない社のトップが、なんの拘束力もない新聞協会の綱領を現場に守らせられるとは思えない。
渡辺会長は綱領見直しの主な目的を「来世紀に向けて新聞の存立基盤を強化すること」だと述べている。仏を作って魂まで入れられるなら、目的は達成できるかもしれない。しかし仏だけ作って魂をどこかに置き去りにするようなことになれば、日本のジャーナリズムはいま以上に読者の信頼を失うことになるだろう。

 

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