テレビ局と企業の「文化」1999年9月号

BSはいったい、どうしたのだろう。報道制作局長という重要な立場にある人が電車のなかで痴漢行為をして逮捕されたり、社会部の記者が他人の家の浴室をビデオで盗み撮りして捕まったり。ほかにも写真週刊誌が「乱交パーティ」と呼ぶ現場でアナウンサーがあられもない姿の写真を撮られたり。TBSだけが狙い撃ちされたわけもあるまいに、次から次へのこのスキャンダル騒ぎ、傍目にも「ちょっとおかしい」と思わざるをえない。


 背景に職場の不満、不安?

TBSに限らず、これまでも新聞やテレビの世界で働く人たちについてさまざまな不祥事が伝えられてきた。しかし多くの場合、問題にされたのは、かれらの行為やその結果がジャーナリストという職業の倫理にもとると考えられるものだった。今回の出来事のように、明らかに犯罪と見なされる破廉恥な行為で、それも相当の地位にある人を含めて、相次ぎ問題にされたことは、あまり例のないことではなかろうか。
痴漢やのぞきといった行為は個人の道徳観、倫理観に関ることで、それを企業や職場の環境と結びつけて考えるのは、行き過ぎかもしれない。しかしこれほどに似たような事件が続くと、TBSに何か問題があるのか、との疑いが頭をよぎってもおかしくはない。
こうした事態の背景として「会社の組織や番組に対する不満や不安が渦巻いている」との指摘もある(『週刊朝日』8月13日号)。報道番組の枠が縮小されたり、将来の「分社化」が取りざたされたりしていることに不満や不安があり、そのストレスの裏返しが今回のような事態につながったのではないか、という。
しかしこうした不満や不安があるのはTBSに限ったことではあるまい。他のテレビ局に比べてTBSにお粗末な人材が多く集まっているとも思えない。むしろ、今回TBSで集中的に起きた不祥事と同様のことが、他のテレビ局でも起きる可能性は十分にあるのではないか、と考えるのが自然だろう。

 

 テレビ局固有の雰囲気

そう考える理由の一つは、「テレビ局文化」とでも呼べる、テレビ局固有の雰囲気である。たくさんのタレントや有名人が常に出入りしているテレビ局。画面にしばしば登場するアナウンサーや記者もタレント並みに有名になり、かれら自身もそれを意識する。そうした職場で働く人たちが、普通の市民の生活感覚より放縦な意識を持つにいたってもおかしくはない。タレントやその取り巻きと「乱交パーティー」などといったものに加わるのは、そうしたことの表われではないか。
テレビ局自身も、そんな「文化」をはやしたててきた節がある。アナウンサーにタレント的な役割をさせたり、逆にタレントにアナウンサー的な役割をさせてもいる。ワイドショーは、ニュースと娯楽の垣根をすっかり取り崩してしまい、現場の人たちから報道に携わっているという自覚を薄れさせてしまったのではないか。
もちろんテレビ局に働く人たちすべてがこの「文化」に染まっているわけではあるまい。ほとんどの人たちは「文化」が醸し出す浮ついた雰囲気に流されることなく、地道に自分の職分を全うしているに違いない。職分を忘れ、それに伴う責任をわきまえられなかった少数の人たちが、今回のような不祥事に名を連ねる結果になったといえるのではないか。
もう一つ、企業社会にありがちな、仲間同士のかばいあいの「文化」も不祥事の遠因と考えられるかもしれない。犯罪行為になりかねない問題が生じても、組織の外に露見しない限り仲間内だけで処理する場合が少なくない。組織防衛のためにとか、当事者の経歴を傷つけないためにといった大義名分がまかり通り、責任の所在がうやむやにされてしまう。そうしたことの積み重ねが組織としての無責任体制をつくり、責任感の乏しい人間を生み出していくのではないか。これはTBSやテレビ業界に限らぬ、日本の官僚機構、企業社会全体にあてはまることでもある。


 卑劣な行為も大目に

話の範囲を広げたついでにもう一つ付け加えると、TBS社員の痴漢だののぞきだのといった破廉恥行為がいま突然のように問題にされたのは、こうした問題をめぐるこれまでの日本社会のいびつなありように、ようやくわずかながら光が当たり始めたからではないかと思う。痴漢行為などは随分昔からあったに違いないのだが、最近になってやっと問題にされ始めた。セクハラ防止策に企業が取り組み始めたのもごく最近のことだ。男優位の社会の「文化」が、女性の目からみると卑劣、不当な行為さえ、なんとなく大目に見てきたといっていいだろう。
光が当たり始めたとはいっても、この「文化」が容易に変わる気配はない。サラリーマン向け週刊誌やスポーツ紙は女性のヌードを載せ、しかもそれらを男たちが通勤電車のなかで平気で広げている。子どもたちが目を通すかもしれない漫画雑誌にも、露骨な性と暴力が溢れている。女性を対象にする、性が売り物のアニメ本もあるという。何年か前のことだが、日本人が人目も構わずこうした雑誌や新聞を読むのを目にして、外国からきた友人がひどくショックを受けた。「これではまるで日本人みんなが色情狂ではないか」と半ば冗談で言った。
この種の雑誌や新聞が外国にないというのではない。日本での発行を規制しろというのでもない。ただ、これらのものを読むにせよ眺めるにせよ、時と場所を考えるべきではないか。せめて、人に(とりわけ女性に)不安や不快な気分を与えるようなことは避けるべきではないか。その程度の心遣いもできない無神経さの行き着く先が、痴漢やのぞきといった犯罪行為への垣根を越えさせる結果になっているように思われる。
 

 無責任体制の見直しを

話をジャーナリズムに戻そう。テレビであれ新聞であれ、ジャーナリズムの仕事に携わる人たちに格別の道徳観や倫理観を求めることは無理だろう。ジャーナリストも普通の市民であり、そうであることが望ましい。ただメディアが大きな影響力を持つことを自覚し、それにふさわしい、強い責任感を持つことが、当然のこととして求められる。普通の市民が犯したものなら責められることのない小さな過ちでも、ジャーナリストが犯した場合は責められる。TBSの不祥事が問題にされるのもそのためだ。
TBSは「倫理委員会」を設けて問題に対処するという。一九九六年にオーム報道をめぐる不祥事が批判された時も、同様の対処をしたのだが、今回の事件を防ぐ役には立たなかった。今回また「倫理委員会」設置によって、形だけの自粛や反省だけに終わっては意味がない。「テレビ局文化」だけでなく「企業社会文化」が抱える問題点にまで踏み込んで、改革を進める覚悟をTBSには期待したい。報道に携わる人たちにジャーナリストとしての自覚と責任感をきちんと持たせること、それにぬるま湯的な無責任体質を根本から改めることを求めたい。
他のテレビ局にとっても他人事ではない。新聞を含めたすべてのメディア企業も、それぞれのなかにはびこる、職業上の「文化」を見直し、無責任体質の有無を子細に点検する必要がある。そしてさらには、日本の社会が抱えるいびつさにも目を向け、いくらかでも歪みを正すために持てる影響力を行使すべきだろう。それができなければ、情けない不祥事がこれからも繰り返される心配はなくなりそうにない。

 

目次ページへ戻る