首脳会談めぐる日米報道の落差

1999年7月号


じ芝居を観た二人の記者がそれぞれ別の新聞に感想を書き送ったとしよう。一人は「大変面白かった」と書き、もう一人は「まったくつまらなかった」と評価する。それぞれの新聞の読者はもう一方の新聞の報道にほとんど目を通す機会がないとすれば、双方の読者は芝居についてまったく異なる印象を持ったまま終わってしまう。




 ▽地味だった米側報道

五月初めにワシントンで行われた日米首脳会談をめぐるメディアの報道は、この芝居と同じような印象を、日米双方の読者のなかに残したのではないかと思われる。日本側の報道は、華やかな「首脳外交」を通じて小渕首相が、控えめにみても、そこそこの成果を上げた印象を確実に振りまいた。しかし米国側のメディアの報道はいたって地味で、うっかりすると日本の首相がワシントンを訪れていたことさえ気づかないでやり過ごしてしまいそうな扱いだった。
新聞について言えば、今回の報道がとりわけ派手だったというわけではない。会談が五月の大型連休のさなかに(日本時間三日夜から四日未明にかけて)行われたため、会談前後の一両日は夕刊がなく、会談終了後も六日付朝刊が新聞休刊日であったことなどから、むしろ紙面の扱いは控えめだったといえる。しかしそれでも主要各紙は五日の朝刊で、一面トップにこのニュースを置き、二面(政治面)、総合面、経済面などでも大きなスペースを割いて、それぞれ分野別に会談の成果や意義を伝えていた。各紙はまた、会談前の段階でも、会談の見通しやワシントン入りするまでの小渕首相の動静などを詳しく報じていた。
一方米国の新聞は、国際報道で定評のある『ニューヨーク・タイムズ』でさえも、会談後の四日付紙面に一本の記事を載せただけで終わっている。『ワシントン・ポスト』は会談のニュースを経済のセクションに収め、社交欄に夕食会の様子などを載せていた。いずれの扱いも、日本の新聞のような特大級の扱いからは程遠い。
日米の新聞による扱いの違いは、単に記事の量的な差だけではない。記事の内容にも際立って対照的な相違がうかがえる。日本の各紙はおしなべて今回の首脳会談では日本の景気対策や貿易問題だけにとどまらず、北朝鮮問題や新しい日米防衛協力の指針など安全保障問題も重要な議題となったことを伝えていた。新聞によって重点の置き方に多少の違いは見られたが、おおむね総花的に会談の議題を網羅し、小渕首相にとって会談が成功であったとの印象を打ち出していた。
しかし、『タイムズ』や『ポスト』の記事はほとんど経済問題に終始し、新指針や北朝鮮問題などにはまったくといっていいほど触れていない。『タイムズ』は小渕首相が言及した問題のなかに「北朝鮮問題や安保問題も含まれていた」とわずかに一行足らず書いているに過ぎない。『ポスト』にはそうしたくだりさえ見当たらない。




 ▽無視できない報道の落差

日本側の報道と米国側の報道には、とてつもなく大きな落差のあることが分かる。かりに読者が双方の報道を目にすることができても、とても同じ首脳会談に関する記事とは思えないだろう。
むろん、国が違えば同じ首脳会談に対しても関心の持ち方が異なるのは当然だろう。この首脳会談が日米両国の外交課題のなかで占める比重には差があるし、それぞれの国益にも左右される。首脳会談が行われた時期は、米国にとってはコソボ問題が重大関心事だった。
しかし問題は、この日米の報道に見られる情報の不均衡が今回限りのことではないことである。これまで毎年のように行われている両国首脳の会談をめぐる報道は、ほとんど例外なく今回と同じパターンの繰り返しである。日本側は大々的に鳴り物入りで報道し、米国側はごくあっさりとしか報じない。時にはまったく無視されたことさえある。
それぞれの事情の違いは十分考慮に入れても、こうした報道の落差が毎回繰り返されるようだと、日米双方の新聞読者の間には、首脳会談に関する限り、それぞれの見方に途方もない隔たりが生じることは避けられない。それが両国間の相互理解に支障をもたらすことはいうまでもない。立場の違い、ということだけではすまされまい。
責任はむろん双方のメディアにある。米国の新聞はとかく対日関係を軽視しがちである。差し迫った貿易摩擦でもあればともかく、そうでなければ日本が問題視されることは少ない。日米関係は「もっとも重要な二国間関係」という米政府当局の表向きの評価とは裏腹に、メディアでの関心度は低い。
しかし首脳会談の報道がもたらすギャップの、より大きな責任は、日本側のメディアにあるのではないかと思う。新聞もテレビも、首脳会談が持つ実際の意味合いよりはるかに大きく報道しているからである。
首脳会談はほとんど例外なく、事前に事務レベルで十分調整した上で行われる。予想外の結果が伝えられることはまずない。極端にいえば、会談そのものは双方の首脳が主役を演じる「メディア・イベント」的色彩がむしろ強い。会談の結果によほど意外な展開がない限り、実質的なニュースとしての価値はそれほど高くない。米国の新聞がとかく会談を大きく報じないのは、そうしたニュース価値の判断に基づくところがあるからではないかと思う。



 ▽習慣化した報道パターン

日本のメディアが米国のメディアより会談を大きく報じるにはそれなりの理由がある。日米関係は依然として、米国より日本にとって、より重要な意味を持っているからである。しかしそれにしても、事前にほぼ想定された結果通りの会談を、新聞があれほどのスペースを割いて報道するだけの価値があるかどうか、大いに疑問である。
戦後の日米関係のなかで、こうした報道のパターンが何十回となく繰り返されてきたのは、基本的には、日本が米国に対して相対的にいまよりはるかに弱小であった時代の日本側のメンタリティを、いまだにメディアが引きずっているからではないかと思われる。米国がくしゃみをすれば日本が肺炎にかかる、といわれた時代の報道の仕方がほとんど習慣化していまに引き継がれているのではないか。
もうそろそろ、そうした習慣を見直して、もっとニュースの実質的価値に基づいた首脳会談報道を、次の機会には期待したい。それができれば、日米間の報道のギャップは多少とも狭められるのではないかと思う。
日米間のギャップはさておき、今回の首脳会談報道では、日本の新聞同士の間でも、いくつかの違いが目についた。際立っていたのは『産経』が四日、五日とも一面のトップに(北朝鮮による)「拉致問題」を取り上げ、クリントン大統領が疑惑解決に支援を約束したことを会談の主要な成果として報じていたことである。『産経』の独特の視点がよく表れていたといえる。他紙もこの問題に触れてはいたが、記事の扱いはそれほど大きくなかった。
『朝日』『読売』の一面(五日)は会談の成果を経済から安保まで総花的に紹介、これに対して『毎日』は経済問題を中心に据えていたのが目立った。米国側メディアの視点に近かったのが『毎日』ということもできる。しかしいずれも総合面、政治面、経済面にはそれぞれのテーマで書き分け、小渕首相の訪米をまずまずの成功と受けとめていることが感じ取れた。
各紙の紙面が分かれることはむしろ歓迎すべきことだろう。「拉致問題」を会談のもっとも重要な成果と見なすかどうかは別にして、さまざまな見方が提示されることは、すべて横並びの紙面を押し付けられるよりありがたい。芝居評も相反する二つの見方があったほうがいい。


 

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