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いつものことだが、夏休みなどに田舎に帰って数日を過ごすと、東京との違いをあらためて思い起こさせられることが一つある。夕刊がないことである。夕刊が配達されない、いわゆる統合版地域ではあたりまえのことなのだが、朝刊だけでニュースを読んでいると、いかにも新聞の報道が間延びしているように感じられる。とくにテレビが前日の午前中に報じたようなニュースについては、ことさらその印象が強い。 |
しぼむ夕刊への需要
夕刊があればせいぜいテレビから半日遅れで届くニュースが、夕刊がないと一日遅れになる。慣れてしまえばどうということはないのだろうが、「半日遅れ」のペースになじんだものには「一日遅れ」は、かったるい。夕刊がなくては困る、という思いを新たにする一方で、夕刊を含めて新聞のニュース報道のありようがいまのままでいいのだろうかと、あらためて考えさせられる。
夕刊はいらない、という声が読者の中には根強くある。夕刊発行地域でも朝刊だけの配達を希望し、購読料を相応に安くすることを求める読者も少なくないらしい。テレビのニュース報道が充実するに伴い、夕刊でニュースを読もうという読者が少なくなっているから、という。
夕刊に対する読者の需要がしぼんでいることは疑いない。一九八〇年代以降、夕刊の発行を取りやめる新聞社が相次ぎ、夕刊専門紙のいくつかは廃刊に追い込まれた。米国でも、一九八〇年当時、千三百八十八紙あった夕刊紙が九九年現在では七百六十紙に落ち込み、多くは廃刊したり朝刊紙に転向したりした。夕刊の総発行部数は八〇年の三千二百八十万部から九九年には九百九十万部へと三分の一に激減している。
読者の夕刊離れを食い止めようと、日本の新聞が懸命に取り組んだのが「夕刊対策」だった。どの新聞にもおしなべて共通していたことは、紙面を「親しみやすく」することだった。政治、経済、国際といった硬派の記事を減らし、話題もの、読みもの記事を増やし、芸能・娯楽や催しもののページを新増設したことだった。写真のスペースが増え、文字のスペースが減った。
しかしそんな「対策」にもかかわらず、夕刊離れに歯止めがかかった様子がない。「対策」は本当に正しかったのだろうか。
夕刊対策の「定説」
読者は硬派のニュースを読みたがらない、というのが、新聞を作る側の定説になっている。(それが本当なら、朝刊の将来だって危うくなる)。実際は、夕刊が硬派、軟派にかかわらず、読者が求めているニュースを伝えていないことが問題なのではあるまいか。夕刊はニュースの紙面が限られているため、細切れのストレート・ニュースだけになりやすい。時差の関係から欧米の国際ニュースが大きな比重を占める。編集上の時間にも限りがあるため、深みのある記事にも乏しい。そんな事情が、夕刊のニュースを魅力の薄いものにしてきたように思われる。
「定説」に反して、もっと夕刊のニュースの紙幅を広げ、多彩なニュースを扱ってみてはどうだろう。木で鼻くくったようなテレビの速報では尽くせない内容のニュースを伝えることである。いかにも新聞らしい、時間をかけた取材の結果を重厚な記事にまとめて読ませることはできないだろうか。テレビから「半日遅れ」でも読みたくなるニュースは必ずあるはずだし、テレビが伝えない、新聞が伝えなければならないニュースだって数多くあるはずである。
しかし夕刊の直面している問題は、実は即、朝刊の問題でもある。夕刊離れの背景にある原因は、新聞離れの原因そのものでもある。新聞はテレビとの競争に勝てない理由に、テレビが速報性や映像の衝撃力で優位にあることを数えたがる。そのこと自体に間違いはないのだが、読者や視聴者がニュースに求めているのがそれだけではないことに、新聞はあまり注意を払っていないように見受けられる。
「新聞ならでは」の報道
二十年前の紙面に比べ、最近の夕刊は明らかに読みもの化し、軟派化し、視覚化している。それは、テレビの側に擦り寄ることで読者をつなぎとめられると新聞の側が考えたからに違いない。しかしその「対策」はあまり効果をあげなかった。おそらく読者や視聴者が夕刊に期待していたものは、新聞が試みたこととは逆のことだったのではないか、という反省と発想の転換がそろそろあってもいいような気がする。
八〇年代以降、新聞は相次いで紙面改革を実行した。活字を大きくし、写真をカラー化し、図表や挿絵をふんだんに使って「目にやさしい」新聞がつくられるようになった(新聞による最近の拡大文字化はこの二十年間で三度目のことになる)。半面、それによって記事の長さが短くなり、記事の本数が減った。硬派の記事より軟派の記事が優遇されるようになった(新聞はそのことをあまり宣伝しようとはしない)。昔に比べて読みごたえのある記事が少なくなったというのは、長年の読者の単なる印象論ではない(本誌二〇〇〇年六月号本欄)。
読者が新聞に求めているのは、テレビがすでに伝えたニュースの二番煎じや焼き直しではない。テレビが伝えきれない部分に目配りしたニュース、さらにはテレビが目を向けようとしないところから掘り起こしたニュースである。新聞であるからこそ報道可能なニュースがある。そうしたニュースを新聞ならではの手法と切り口で伝えれば、それを読む読者は必ずいるはずである。
新聞の役割見直しを
新聞はいま、単なる「夕刊対策」を超えて新聞そのものの「生き残り」を考えるときにきている。テレビとの競争ばかりでなく、インターネットをはじめとする新しいメディア・技術を視野において報道機関としての生き残りを図らなければならない。
そのためには、新しいメディア環境の中での新聞の役割を基本から見直す必要がある。一方でテレビがデジタル化しマルティ・チャンネル化し、他方でインターネットが急速に普及する中で、新聞の役割が従来のままにとどまっていられるはずがない。にもかかわらず、新聞は依然として、昔ながらの手法で昔ながらの価値判断に従ってニュースを報じているように見える。新しい環境の中で読者は新聞に何を求めているのか、新聞には何ができるのかを、急ぎ検討し直さねばならない。
過去二十年の紙面改革は、うわべの化粧直しでしかなかった。その結果は、報道の先輩格であった新聞が新興のテレビに振り回され、新聞本来の役割を見失いそうになる事態に立たされている。インターネットの普及は、新聞の立場をますます複雑、困難なものにしている。
十年先のことは分からない。が、いまニュース報道に携わるメディアの中で、迅速な情報収集や情報分析に最も高い能力を備えているのは、テレビではなく、新聞である。ニュース報道において最重要視されるのが情報の質だとすれば、それを提供できるメディアは、やはり新聞をおいてない。新聞はその財産を守り、生かしていくことで、生き残りの道を開くべきである。
新聞が取り組むべきことは、そのもてる能力をより強化し、効率的に活用する手段を確保することである。テレビに引きずられて紙面をやたら「親しみやすい」ものにしたり、若者の活字離れに配慮して軟派記事を多くしたりすることは、新聞の能力を高めることにはつながらない。むしろ新聞の本来の可能性を矯める結果に陥る心配がある。
夏休み中の数日間、一日遅れの新聞のニュースを読みながら、新聞が多くの読者の期待に背を向けているのではないか、という思いを反芻した。
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