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新聞は通常、朝刊と夕刊を発行している(朝刊だけの統合版地域もあるけれど)。つまり一日のニュースを二回に分けて、半日ごとに伝えている。この場合、半日がニュース報道の一サイクルとなる。テレビも、主要なニュースの時間帯がNHK、民放とも一日二回ないし三回設定されているので、新聞同様、一サイクルの長さはほぼ半日と見なすことができる。
米国でもかつては同じだったが、一九八〇年代以降、様子が大きく変わった。理由は、ケーブルテレビに二十四時間ニュースだけを放送する、いわゆる「ニュース・チャンネル」が登場したことにある。最初はCNN(八〇年放送開始)だけだったところへ、九六年にMSNBC、FNC(フォックス)の二つが加わって競争が激しくなった。それによって、のべつまくなしにニュースがテレビで放送される環境が生まれ、ニュースのサイクルが限りなく短くなったのである。
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犠牲にされる正確さ
幸か不幸か、日本にはまだそんな環境が誕生していない。しかし放送のデジタル化が進み、マルチチャンネル化が進めば、そんな事態になる日もそう遠くはない。ニュース・サイクルがゼロに近くなって米国のジャーナリズムが直面している問題に、いずれ日本のジャーナリズムも向き合わざるを得なくなる。いや実のところ、日本もすでに同じ問題に向き合っているといっていい。
米国で問題とされているのは、メディアの取材、編集の過程で情報を確認する作業がおろそかにされる傾向が強まっていることである。ジャーナリズムの基本であるニュースの「正確さ」が犠牲にされ、速報と横並びの報道が重視されるようになっていることである。
かつてニュースのサイクルが半日であったころは、どんな突発ものの取材にしても、一つのサイクルが終わったあと次の締め切りまでに少なくとも数時間の余裕があった。その間に確認や裏づけのための作業ができた。ところが「ニュース・チャンネル」がひっきりなしにニュースを流すようになると、それが難しくなる。「ニュース・チャンネル」はほとんど十五分ごとにニュースの内容を更新する。その要請にきちんと応えようとすれば、結局、確認が取れないままの情報でも使わざるを得なくなる。
こうしたケーブルテレビの報道は、他のネットワークや新聞のニュース報道にも影響を与えずにはおかない。ニュースが大きくなればなるほど、他のメディアもケーブルテレビにあおられ、危うい未確認情報が「ニュース」としてテレビや新聞に流れることになる。
トークショウで埋める
「ニュース・チャンネル」がもたらしたもう一つの問題は、ニュースの時間枠が大幅に広がったことである。それまで一日の合計がせいぜい二、三時間であったものが、一挙に二十四時間に膨れ上がったのに、その枠を常に新鮮なニュースで埋め尽くすだけの取材態勢はない。
ニュースで埋まらない時間枠を埋めたのが「トークショウ」である。ニュースの当事者や専門家、取材にあたった記者たちが意見や感想を述べあうおしゃべり番組である。この種の番組はコストがかからず、放送の時間枠をお手軽に埋められることから「ニュース・チャンネル」には歓迎された。
しかしこれらの「トークショウ」で提供される情報は、あくまで個人の意見や感想でしかない。専門家と称する人たちの意見でさえも、信頼できる情報とは限らない。時間に追われた取材の結果がとかく正確さを欠くように、不十分な情報を基に述べられる専門家の見解も、必ずしも事態を正確に説明できるわけではない。
そんな状況のなかで大きな話題を呼んだのが、一九九八年から一年あまり続いた、いわゆる「クリントン大統領不倫疑惑」の報道だった。当初、インターネットのウェブサイトに載った情報があっという間にテレビにも新聞にも大きく報じられ、大統領と若い女性の間の芳しからぬ関係が、微に入り細にわたって伝えられた。それらの情報のなかには、メディアからメディアへ、確認のとれないまま報道されることによって、「ニュース」として独り歩きしたものも少なくなかった。
「混合メディア文化」
一連の報道を細かく検証した『ウォープ・スピード』(一九九九年)のなかで、著者のトム・ローゼンスティールとビル・コバッチは、そうした無責任報道がはびこる背景の主要な要因として「ニュース・チャンネル」の果たした役割を挙げている。米国では、情報源を明示できない情報をニュースとして伝えるためには、少なくとも二つ以上の情報源で確認することが報道の基本原則と考えられている。しかし二人によると、「不倫疑惑」の報道ではその原則がしばしばないがしろにされ、他のメディアが報じたことを、別のメディアが未確認のまま引用して報道するというケースも目だったという。コバッチらは、伝統的な報道の価値基準が崩れ、ジャーナリズム全体がタブロイド化している、こうした現在の傾向を「混合メディア文化」と名づけている。
「混合メディア文化」の源は、七〇年代のENG(エレクトロニック・ニューズ・ギャザリング)の開発で、テレビによる現場中継が飛躍的に容易になったことにある。それは単にニュースの速報に威力を発揮しただけでなく、ニュース報道の過程を大きく変質させた。それまで、ニュースの取材者と受け手の間に介在していた編集者の役割を、大幅に縮小してしまったのである。
編集者のフィルターを通さない現場からの情報は、迅速さに優れてはいるものの、正確さや公正さに欠けるものも少なくない。九〇年代のメディアの環境が、そうしたテレビ・ジャーナリズムのもつ危うさを何倍にも増幅して、今日の問題を生んだといえる。
日本のジャーナリズムは
さて、日本にはCNNのような「ニュース・チャンネル」はいまのところない。しかしメディアの取材現場に未確認情報が横行するような環境はないだろうか。正確さと公正さを守るための厳格な報道の基準は守られているだろうか。残念ながら、米国の状況を他人事と見なせるほど、日本のジャーナリズムが手堅い仕事をしているとは思えない。
米国では、原則が崩れつつあるとはいえ、なお報道においては情報源を極力明示することが求められ、匿名情報に関しては複数の情報源で確認することが重要な指針とされている。日本では、そもそも情報源を明示することさえ、十分には行われていない。情報源の伏せられたニュースがどの程度、厳密な確認の作業の上で伝えられているのか、読者や視聴者には判断の手がかりさえ与えられていない。
他紙の特ダネを半日遅れで追いかけながら、他紙が先行した事実に触れようともしないことが、日本ではごくあたりまえのように行われる(本誌二〇〇〇年八月号本欄)。それでは、内容の十分な確認もせずに、先行したメディアの報道をそのまま引用する米国のテレビを笑えない。
新聞社や通信社がかかわる電子メディア上の速報競争が、こうした問題をさらに複雑にする。証券市場や為替市場は根拠に乏しいうわさにも時に敏感に反応する。この種の情報は「マーケット・ムーバー」と呼ばれ、報道すべき「ニュース」と考えられる。この世界では、正確さや公正さより速さが何より重視される。そうしたメンタリティは、いま確実に伝統的なメディアの分野にも浸透しつつある。
米国のジャーナリズムの格言に「真っ先に情報を、しかしなにより正確な情報を」(Get it first, but first get it
right)というのがある。米国でもいまこの格言が揺らいでいる。
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