記者クラブと情報操作 2001年7月号


野県は田中康夫知事の「脱記者クラブ宣言」(五月十五日)に基づき、七月からこれまでの記者クラブを廃止して、代りに「表現道場」と名づけた、プレスセンターに相当する場を設置する。また知事の記者会見は「県の主催」に切り換える方針を表明、すでに実施されている。
 東京都は都庁舎内の記者クラブについて、クラブの会員各社に室料と諸経費の負担を求める方針を固めたという(『産経新聞』六月九日)。一社あたりの負担は一ヵ月十万円前後になるらしい。記者クラブ制度が、ここへ来て急に揺さぶりをかけられている。



 クラブの閉鎖性を批判

 記者クラブの廃止は一九九六年に鎌倉市の事例はあるが、県政レベルで実施に移されるのは長野県が初めてである。これをきっかけに今後、各地で同じように記者クラブのあり方を見直す動きが出てくるかもしれない。取材現場もおちおちしてはいられまい。記者クラブの諸経費の一部を関係各社が分担するケースはこれまでにもあるが、都庁のクラブのように相当まとまった金額の支払いを求められるのは、やはり今回が初めてらしい。
 田中知事は新しい措置をとった理由として、記者クラブの閉鎖性や排他性を指摘し、これからは「すべての表現者」に知事による会見の場を開放する方針を明らかにした。「すべての表現者」がどの範囲を指すのか、必ずしも明確ではないが、とにかく県の情報発信の場を可能な限り開放しようという考え方は歓迎したい。
 記者クラブの閉鎖性に対する批判は過去何十年も続いてきた。日本新聞協会の加盟各社はこれまで何度か、記者クラブの運用指針を改め、そのつど徐々にクラブをメンバー社以外にも開放するよう改善に努めてはきた。が、その歩みはあまりに遅すぎたし、成果はあまりに乏しかったといわねばならないだろう。
 田中知事の打ち出した「宣言」は、権力の側からの痛烈な批判の一撃である。本来ならメディア側が率先してより開かれた記者クラブに向けての方策を示さなければならないのに、それを権力の側の、いわば一方的な実力行使でメディア側がそれを受け入れざるを得なくなったのは、なんとも無様で情けない。

 

 説得力ない抗議

 田中知事の「宣言」に対して、県政記者クラブ(十六社)は抗議文を突きつけた。抗議文は、知事会見が県の主催になれば「公権力の都合で左右されたり情報操作が行われかねない問題をはらんでいる」と指摘し、今後もクラブ主催の会見を求めていく―としている(『信濃毎日新聞』五月二十二日)。メディア側が「脱記者クラブ」に反対する最大の理由はこの点にあるようだが、はなはだ説得力に欠ける。
 田中知事は「(記者クラブが)時として排他的な権益集団と化す可能性を拭いきれぬ」と指摘し、その閉鎖性、排他性の弊害を批判した。しかしクラブ側の抗議文には、この点についての反論は見当たらない。事実上、反論できないメディア側の完敗というほかない。
会見を県とクラブのいずれが主催するかの問題は、単に建前上の問題でしかない。現に全国各地の記者クラブで日常的に行われている記者会見を、当事者とクラブといずれの主催であるかを確認しながら取材している現場はまずあるまい。
 県が知事会見を主催すると「県側の都合で時間や議題が左右されたり、気に食わない取材者を閉め出すなどの情報操作」が行われる恐れがあるというのは、それ自体、メディアの弱さ、だらしなさを告白していることにほかならない。その程度の「情報操作」を跳ね返せないようなメディアなら、主催がだれであろうと容易に操られる心配がある。クラブ主催で行えばその心配が少ない、などという議論は到底、通用しない。
 メディアが権力による情報操作に踊らされる危険は報道の過程で常に存在する。長野県政記者クラブが情報操作の可能性に細心の注意を払うことはむろん結構だ。が、メディアはしばしば、露骨な情報操作にも至って無頓着であるようにさえ見える。田中真紀子外相の問題発言をめぐる一連の報道は、明らかに情報提供者の側の意図に、新聞やテレビが易々と踊らされた事例だろう。

 

 官僚の思惑に加担

 問題発言は、田中外相がオーストラリア、イタリア、ドイツの外相と個別に行った会談で、米国のNMD(本土防衛ミサイル網)配備や日米安保条約に関して、日本政府の公式の立場とは異なる見解を語った、とされるものである。発言の内容が新聞に伝えられると、田中外相の言動に対する批判が高まり、自民党内にも外相更迭を求める声が強まったと報じられた。
 報道された発言内容が正確であったかどうか、外相個人の見解が妥当かどうかは、いまは問わない。問題はこの情報の伝えられ方である。外相会談の内容は、これに同席したか、その記録に目を通す資格を持つものしか知りえない。新聞にその情報を提供したのは、限られた数の外務省幹部であることは常識的に明白だろう。しかも田中外相の就任当初から外相と外務官僚との間に激しい確執があったことも周知の事実。とすれば、この種の情報を報道機関にリークする情報提供者の思惑が、外相を窮地に追い込むことにあったことは明白である。
 しかし新聞は一連の情報を、情報源にいっさい触れずに報道した。ほとんどの新聞は「(田中外相の発言内容が)明らかになった」という表現で伝えた。しかもこの情報の報道に先立って、当事者である外相の確認や見解を求めた形跡がない。その結果、一方的に外相を糾弾する形の報道になってしまっていた。
これは、自分の身を隠して相手に切りつける、闇討ちにメディアが手を貸したものといえる。現場の記者が情報を提供した官僚の思惑に気づかなかったとは思えない。「真紀子降ろし」の意図を十分知りながらこうした報道の仕方をしたのは、メディアが外相対官僚の抗争で一方の側に加担したと見られても仕方あるまい。

 

 権力への依存の温床

 日本のニュース報道、とりわけ政治報道では、情報源を示さないことが常態化している。情報源を安易に伏せて報道することは、情報提供者に無責任な発言や意図的な情報操作を許すことにつながりやすい。それを避けるには、できる限り、記事の中で情報源を明示することである。米国ではそれが報道の基本原則だが、日本ではなぜかその原則がないがしろにされている。
 理由の一つは、日本のメディアが伝統的に、役所や大企業など大きな権力にニュースの主な情報源を頼ってきたからでである。権力が発信する情報を疑問なく受け入れるうちに、それをそのまま伝達することがニュース報道と考えるようになる。情報提供者(権力)とメディアの間の境界があいまいになり、取材するものが情報提供者と一体化しがちになる。その結果、記者が時には政治家と、時には官僚とまったく同じメンタリティに陥ってしまう。情報源を明示しない報道のスタイルはその表れといえる。
 取材現場で権力との間にそうした危うい関係を生む温床が、中央、地方を問わず主だった官庁に設けられている記者クラブである。長野県政記者クラブが考えるように、記者クラブを存続することが権力による情報操作を妨げる歯止めなどにはなりえない。記者クラブが健在でもまんまとメディアが官庁側に操られることを、田中外相の問題発言報道が雄弁に示している。
 メディア側がいまなすべきことは、権力に大きく依存する取材態勢を根本から見直すことだろう。田中知事の「脱記者クラブ宣言」はそのきっかけを与えてくれたと考えればいい。

 

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