小泉人気とイチロー人気 2001年6月号


泉政権に対する支持率が、発足直後の各社調査によると、いずれも八〇%前後と高い。ご祝儀相場にしても、異例の高さである。前の森政権に対する失望や反発への反動が、新政権への期待の大きさとして跳ね返っている部分もあるだろう。しかし同時に、この小泉人気の背景には、これまでになくメディアの果たした役割が大きかったのではないか、という気がする。
 小泉さんの約束した「改革」がどの程度実現されるのか、これからお手並み拝見というところだが、もしそれが中途半端に終わるようなら、メディアも片棒担いだ責任を問われる羽目になるかもしれない。




   「地殻変動」を読めず

 四月の自民党総裁選挙で、小泉さんがあれほどの大差をつけて選ばれると事前に予想したものはほとんどいなかった。橋本元首相の優勢揺るがず、というのが選挙前の大方の見方だった。が、一般党員票の開票が始まると、あれよあれよという間に小泉さんの当選が決まった。
 新聞やテレビは、自民党の政治家たちが自民党内で進んでいた地殻変動を読み取れていなかった、と指摘していた。が、メディアについても同じことが言えるだろう。政治の現場で取材に携わっている記者たちも、政治の「改革」を求める声が、自民党内でもこれほど高まっていることに気づいていなかったのではないか。少なくとも、気づいていたことを感じさせるような記事に、総裁選前の報道ではお目にかかれなかった。
 小泉選出が予想できなかっただけではない。そこに至る過程の報道も、きわめて不十分だったという印象をぬぐえない。テレビは各局が入れ替わり立ち代わり、四人の総裁候補を並べて議論をさせていた。しかし経済・財政をめぐる目先の対応策についてのやり取りばかりで、長期的なビジョンや具体的な政策内容にわたる議論はあまり聞かれなかった。やたら耳についたのは、小泉さんの声高に主張する「改革」。ただこれも具体性を欠いたスローガン以上のものではなかった。
 新聞も同工異曲。自民党内の派閥の駆け引きや連立与党との関係について、永田町の事情通めいた情報や解説を伝えるばかりで、小泉総裁選出を後押しするような(小泉さんの言葉を借りれば)「マグマ」が動いていることを指摘したものはなかった。

 

  「改革派」のイメージ

 この間、メディアの役回りは、ひたすら小泉さんの「改革派」としてのイメージを振りまき、他の三人との違いを際立たせることのように見えた。「改革」の具体的中身についてはさしたる検証もなし。当面の経済・財政政策を別にして、その他の内政問題、安全保障や外交問題についての政策論争もなかった。結果的には、いかにも小泉さんだけが「改革」の担い手であるかのようなイメージを、視聴者や読者に植え付けた。
 小泉さんは他の三人の候補者にくらべると、格段にテレビ受けがよかった。容貌や服装のことはひとまず措いても、話が簡潔、明快で分かりやすい。訴えようとするメッセージが明確だった。しかもいまの自民党に一番何が求められているかを、少なくとも小泉さん本人は分かっているように見えた。
 このテレビ受けのよさが小泉さんの生来の性格によるものか、それともだれかの知恵を借りて意識的に努力した結果なのかはわからない。しかしとにかく、テレビは小泉さんの好ましいイメージをきわめて短期間に繰り返し伝え、全国に浸透させた。新聞は多分に、テレビの伝えるイメージに引きずられ、同じようなメッセージを紙面で拡大再生産した。こうしたメディアの報道がなければ、小泉さんが総裁に選ばれることもなかったろうし、首相になることもなかっただろう。

 

  状況追随の報道

 選挙に至るまでのメディアの報道は、どうも状況追随型の報道に終始していたように思われる。目前に展開する新しい状況を追いかけるのに精一杯で、状況に先回りしてメディアの側から問題を提起するといったことが、ほとんど見受けられなかった。それは、憲法改正問題や靖国神社公式参拝などに関する小泉さんの見解が、総裁選挙戦の過程ではほとんど問われなかったことにも表れている。
 これらの問題で、小泉さんの考え方が自民党の中でも右寄りに属するものであることをメディアが指摘し始めたのは、小泉総裁が誕生し、小泉政権の実現が確実になった後のことである。政権を担当する人物の見解として当然、候補者に質しておくべきことがらだった。メディアがそれをしなかった(あるいはできなかった)のは、メディアの怠慢というべきだろう。
 総裁選挙の報道でもう一つ気になったのは、それがあたかも即、首相選びの選挙であるかのような扱いで報じられていたことである。一連の報道を見ていて、四人の総裁候補がそのまま首相候補と錯覚した視聴者や読者がいてもおかしくはない。自民党総裁が首相になるのが現状では既定の事実だとしても、報道する側は少なくとも両者を明確に区別して伝えるべきである。
そうでないと、本来、与野党含めた全体での政策論争であるべきものが、自民党の派閥間の主導権争いにすりかえられてしまう心配がある。現に今回の総裁選報道では、自民党以外の選択肢はまったく除外された形で事実上の「首相選び」が行われたようなものだった。この点でもメディアは状況追随型の報道にとどまったと批判されても仕方あるまい。

 

  問われるニュース判断

小泉人気と同列にするわけにはいかないが、イチローの人気も今年はいままでにも増して高い。米大リーグでの活躍ぶりから当然といえるが、ただその人気を支えているメディアの報道は、少しばかり度を越しているのではないか、と思われてならない。
イチロー(と新庄)が大リーグに移籍した今シーズン、日本のメディアは大リーグの公式戦開幕前からイチロー熱に浮かされていた。新聞もテレビも両選手のキャンプやオープン戦での動静を事細かに報じていた。シーズンが始まると、NHKが日本人選手の出場試合を全中継したり、ニュースの時間に試合途中の安打の数まで伝えたりと、大変な熱の入れようである。最近のイチロー人気は、こうしたメディアの大々的な扱いを抜きにしては考えられない。
新聞の紙面でもテレビ・ニュースの時間枠でも、イチローや大リーグ関連のニュースの扱いが大きくなった分、その他のニュースが割を食っている。日本のプロ野球に関するニュースが、明らかに以前より手薄になっている。スポーツ以外のニュースで、本来伝えられねばならないものが伝えられていない、ということもあるかもしれない。
イチローらの活躍を過小評価するつもりはさらさらないが、試合途中の打撃成績まで、ニュースの時間に逐一報道するほどの必要があるのかどうか。イチロー人気に安易に便乗してはしゃいでいるだけ、というところがないかどうか。ごく平均的な野球ファンである筆者の目から見ても、最近のイチローに関する報道は明らかに過大でバランスを欠いているように思われる。
小泉人気を盛り立てたメディアの報道も、目先の状況に振り回され全体状況を把握しきれていなかったという意味で、やはりバランスを欠いていた。ニュースとして何をどう伝えるか、メディアは日々、判断を問われている。市民が必要とする情報を過不足なく的確に伝えることが報道機関としてのメディアに課された責任である。判断に狂いがあったり、状況に振り回されたりしては、その責任が果たせなくなる。

 

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