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この四月から『朝日新聞』が紙面改革の一環として文字の拡大化を実施した。これまでの一行十二字から十一字になった。『読売新聞』はすでに昨年十二月から、十五段組みを十四段組みに変えてやはり拡大文字の使用に踏み切っている。『毎日新聞』も五月の連休明けに拡大文字に移行することを予告しており、一層の文字拡大化が新聞界の大きな流れになりつつあるように見える。
拡大文字の使用は高齢の読者にとってはありがたい。しかし、新聞が伝える情報の量や質のことを考えると、紙面改革は結構ずくめといえるのかどうか。
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十年ごと、三度目
新聞が活字を大きくするのは、この二十年ほどの間で三度目になる。一九八〇年代の初めに一段十五字から十三字に、九〇年代初めに十三字から十二字に、そして今回の十一字へと、ほぼ十年ごとに大きくしてきた。十五字時代の紙面と比べてみると、現在の紙面はずいぶんスカスカになった感じがする。
見出しや写真を抜きにして計算すると、新聞の一ページに収容できる文字の総数は、七〇年代までの十五字時代は一段九十行の十五段分で約二万字だった。それが今回の十一字時代には、一段の行数は七十五行となり、総文字数も一万二千五百字ほどに減った。四割近い減少である。
字数が減れば当然、情報の量も減ると考えねばなるまい。厳密に比例するかどうかは別として、文字の量が四割近く減少すれば、情報の量も相当程度、目減りしていると見てよかろう。
実際の記事に使用される活字の数は、十五字時代と十一字時代でさらに大きな落差があると思われる。それというのも、七〇年代以降、文字の拡大と併行していわゆる新聞の「ビジュアル化」が推し進められ、紙面で写真や図表の占めるスペースが大きくなって、活字の比重が大きく減少しているからである。この点に関しては、七〇年代と九〇年代の新聞の第一面について、記事の量や内容を分析した湯地英里論文「●●」(『新聞研究』二〇〇〇年●月号)のデータがそれをはっきり裏付けている。
中身は軽・薄?
前記論文によると、今回の十一字への移行前の九〇年代でも記事の本数や長さは、七〇年代に比べると、際立って少なく、短くなっている。一面トップを飾る記事は、十五字時代には百行を超えることも珍しくはなかったが、九〇年代には七、八十行程度に短縮されていることがわかる。今回十一字体制をとることになって、その傾向は一段と強まることになるだろう。
もっとも、新聞のページ数がこの二十年間で増えているから、新聞が伝える記事の総量としては見かけほど大きく減ってはいない、という見方もできる。しかしそれにしても、文字の拡大に伴う字数の大幅な減少が、新聞の伝える情報の量や質に大きな影響を与えずには済みそうにない。
『朝日』は拡大文字の使用により「記事量は若干減るが、簡潔に書き、情報量は減らさないように」努力すると宣言している(三月十五日付)。しかし、例えば十五字百行(千五百字)の一面トップ記事と同じ内容を、十一字七十行(七百七十字)に盛り込めるかどうか。ことはそれほど簡単ではあるまい。これまでよほど冗長な記事を書いていたというのならともかく、すでに相当簡潔に書かれてきた記事をさらに簡略にすれば、内容が犠牲にされる可能性は避けられない。
新聞の活字が大きくなり、どんなに読みやすくなっても、記事の中身が軽くなったり薄くなったりしたのでは、読まされる身には、少しもうれしくない。新聞の記事がいま以上に短くなると、テレビが伝えるニュースの中身とあまり代わり映えしなくなる。それはニュース・メディアとしての新聞の命取りにもなりかねない。
生き残りの道筋
文字拡大を含む一連の「紙面改革」にはもう一つ気になることがある。それは、この改革が単に「読みやすく」する以上の改革を目指しているのかどうか、必ずしもはっきりしないことである。『朝日』は読書面を隔週で一ページ増やしたり、月曜日に経済面を新設したり、それなりに新しい試みを打ち出してはいる。しかしこれらが本当に「改革」の名に値するものかどうか、しばらく様子を見なければなんともいえない。
いま新聞にとって必要な「改革」があるとすれば、それは二十一世紀に新聞の生き残りをかけた「改革」でなければなるまい。若者の新聞離れに歯止めがかからない。デジタル多チャンネルのテレビが現実のものとなる。インターネットはこの先さらに高速、安価になり、利便性が高まるだろう。となれば、紙の新聞がいまのままで生き残れるかどうか、大きな問題である。「改革」はこの問題をどう克服するかの道筋を示せなければならないはずのものだろう。が、『朝日』に限らず、いま次々と打ち出される新聞の「紙面改革」には、この道筋がまだ見えてこない。
メディアの技術が急テンポで発展するいま、十年先のメディア状況をきちんと見極めることは容易ではない。しかし新聞が打ち出す「改革」には、少なくとも文字を拡大して「読みやすく」する以上のものがほしい。それがないと、本当の生き残りは難しくなるのではないか。
報道の充実を
新聞がいまのところ他のメディアに比べて優れているのは、情報を収集し、分析し、編集する力においてだろう。新聞の一覧性や携帯性などのメディア特性にも一定の利点はあるが、これはいつまで維持できるか分からない。新聞が他のメディアとの競争に対抗していくには、結局のところ、情報の収集・分析・編集力を最大限に活用し、紙面で信頼できる情報を十分かつ的確に提供していくほかない。言い換えると、ニュース報道をいかに充実させるかということに尽きる。
問題は「充実」の中身である。テレビの映像やインターネットの双方向性が対抗できない部分で新聞の能力をいかんなく発揮することである。おそらくそれは、正確なニュースを迅速に伝え、適切な解説や論評を加え、理性的な議論の場を提供すること、それによって公共の利益に奉仕することに行き着くことになる。それはもともと、伝統的な新聞ジャーナリズムに期待された役割にほかならない。
そうした役割を果たすための努力は十分なされているのだろうか。八〇年代以降、幾度か試みられた「紙面改革」は目指した成果を挙げてきたのだろうか。読者の間にはいぜんとして、新聞に対するさまざまな不満の声がある。多くの若者が新聞に背を向けている。すべてが新聞の側の責任ではないかもしれない。しかしその最も得意とするニュース報道の側面だけをとっても、新聞が期待される役割を十分に果たしていると胸を張れる状況にはない。
いま何をすべきか、新聞の「紙面改革」にはその問いに対する新聞側の回答を期待したい。大型企画もいい。増ページもいい。が、その背後に新聞としてのどのような意思が貫かれているのかを、読者としては知りたいところである。拡大文字で「読みやすい」新聞を、というだけでは、「改革」への意思が読み取れない。
ともあれ、この二十年間に三度も新聞の文字が大きくなったことをどう解釈していいのだろうと、ふと考える。八〇年代以前には、高齢者のことなど新聞の眼中にはなかったのだろう。その後の二十年、読者の間に高齢者層の比重が急速に高まったということか。そしていま、さらに高齢者に擦り寄らざるをえないほど、若者の新聞離れが深刻になっているということか。
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