だれのためのカタカナ語 2000年11月号


聞に相変わらずカタカナ語が氾濫(はんらん)している。もう何十年も前から繰り返し指摘されていることだが、一向に改まる様子がない。日本人はそれほどに、自分たちの日常使う言葉に無関心なのだろうか。仮に普通の市民がそうだとしても、新聞や放送の仕事に携わる人たちには、もう少し敏感であってほしい。現場の記者や編集者が、無秩序にカタカナ語の溢れる現状をなんとも思っていないとすると、これは本当に憂慮すべきことではないかと思う。繰り返しを承知で書く理由もそこにある。





 元凶はお役所言葉

どの新聞社にも放送局にも、それぞれの用字用語や言葉遣いの原則の一つに、なるべく外来語やカタカナ語(和製英語も含めて)を使わない、という項目があるはずだ。ほとんど日本語化した古くからある外来語は別として、カタカナ語には意味のあいまいなもの、不正確なもの、原義とは異なるものなどが少なくない。なにより、読者や視聴者が理解できないものだって数多くある。そんなカタカナ語をメディアが使うこと自体、記者、編集者としては無神経だろう。
 しかし実際問題として、この種のカタカナ語が、毎日の紙面やアナウンサーの読む原稿に溢れている。いい例が、介護保険関係のニュースだ。ケア、ケアハウス、ケアマネジャー、ケアプラン、デイケアなど、ケアとつくものだけでもいくつもある。ショートステイ、デイサービス、グループホーム、ホームヘルプサービスなどと続くと、多少、英語になじんだ人でも、これらの言葉が具体的に何を意味しているのか、覚束なくなるだろう。
 介護保険に関わりが深い高齢者は、介護認定やその他の手続きをめぐって、こうしたカタカナ語まじりの説明を読まされたり、聞かされたりしなければならない。高齢者の身になると、相当のいらいらが募ることにもなりかねない。介護や福祉関係の業界用語には、このほかにもカタカナ語が多い。バリアフリー、ノーマライゼーション、ケースマネジメント、ゴールドプラン、シルバーサービスなどなど、枚挙にいとまがない。
 これらの多くは厚生省が使い始めたものだろうが、それにしても、この役所はいったいだれに向かって仕事をしているのか、問い返してみたい気がする。高齢者や社会的弱者に対して、この役所がいかに不親切なところか、この一事にもよく表れている。
 ことは厚生省に限らない。他の役所が作成する公式、非公式の文書を見ても、カタカナ語の横行は目に余る。ディスクロージャー、アセスメント、ヒアリング、モラルハザード、セキュリティ・ポリシー、ペイオフ、レイオフなど、日本語で表現できるものをわざわざカタカナ語にしているものが少なくない。カタカナ語氾濫の元凶は役所だといっていい。

 

 メディアの怠慢

高齢者に対する厚生省の度し難い無神経さはしばらくおくとして、問題はメディアがこれらの役所言葉をそのまま口移しに、ニュース報道で使っていることだ。現場の記者は、情報の発信元である役所が使うから仕方がない、というかもしれない。が、それではニュースを読者、視聴者にわかりやすく伝達するメディアの役割を果たしていることにはならない。受け手が理解できないかもしれない表現を使ってニュースを伝えるのは、メディアも役所と同様、読者、視聴者にとって不親切とのそしりを受けるだろう。
メディアとしては、一致して役所にカタカナ語を使わないよう働きかけることもできるはずだ。自分たちの手で日本語に置き換える工夫も、その気になればできなくはない。しかしいままでのところ、そうした努力をしている形跡がメディアの側にはうかがえない。これはメディアとして、著しい怠慢と非難されても抗弁できないのではないか。
 「怠慢」の証拠はいたるところにある。一つは、きちんとした日本語があるのに、何の必然性もなくカタカナ語を使っている場合。先のディスクロージャー(情報公開)、アセスメント(評価)、ヒアリング(公聴会)などは日本語にすれば字数も少なくて済む。もっと日常的なアドバイス(助言)、コミュニケーション(意思疎通)なども、カタカナ語でいわねばならない理由はどこにもない。メディアに頻繁に登場するカタカナ語の大半は、この種のものといえる。
 仮に、ぴったりした日本語が見つからない場合には、メディアの現場で新しい日本語を作り出せばいい。安易にカタカナ語を使うのではなく、新しい日本語を生み出す努力をすべきではないか。明治時代、西欧の思想や学術を取り入れて数々の日本語を作り出した先人の心意気に学ぶべきだろう。それができなければ、メディアのなかで働くものとしての怠慢というだけでなく、日本人としての知的怠慢といわれても仕方がない。カタカナ語を無定見に新聞や放送で流しつづけるメディアは、「元凶」である役所に唯々諾々と付き従う「共犯者」といってもいい。

 

 国籍不明の企業名

 三和、東海、東洋信託の三銀行が来年四月に経営を統合してつくる金融グループの名称が「UFJ」と決まったそうだ。これは「ユナイテッド・フィナンシャル・オブ・ジャパン」の頭文字をとったもので、新聞報道によると「わが国を代表する総合金融グループを創造するとの思いで命名した」という(『朝日新聞』十月五日朝刊)。一企業がどんな名前を名乗ろうとむろん自由だが、日本の企業でありながら、こんな名称をつける経営者の感覚には、首をかしげざるを得ない。
 アルファベット三文字の「UFJ」がなにを意味するか、即座にイメージもわいてこない。頭文字をとったという英語名もすわりが悪い(「フィナンシャル」は形容詞だ)。固有名詞だからそれでいい、という議論もあろうが、英語でそこまで無理をする必然性がない。しかしなによりも、日本の、それも「国を代表する」ことを自負する企業がこんな国籍不明、意味不明瞭な名前を採用する理由がまったく理解できない。
 こうしたことはなにもいまに始まったことではない。旧国鉄が民営化して衣替えしたとき、つけた名前が「JR」だし、それを真似たかどうか、農協がいつのまにか「JA」に変身、高速道路公団も「JH」を名乗るようになった。身の回りいたるところアルファベットやカタカナの企業名が溢れている。商品やサービスの名称になると、もっとひどい。いまはやりの情報通信技術(これもITだ)関連分野が、アルファベットやカタカナ語の氾濫に拍車をかけている。

 

 日本語を大切に

 こうした風潮と、新聞やテレビがカタカナ語を無雑作に使いすぎることと、根は同じだろう。カタカナ語をまじえて書けば記事がもっともらしくなり、アルファベットの社名だとイメージがハイカラ風になる、と考えるからに違いない。しかしそんな記事や名前に砂をかむような思いをしている人間がいることを忘れないでほしい。
 アルファベットやカタカナ語の氾濫は、日本人が日本語をいかに粗末に扱っているかを示している。自分たちの言葉を大切にできない国民は、いくら最先端技術に長じていても、自分たちの本当の文化を守っていけるかどうか、心もとない感じがする。
 遠い先のことまで心配しては、笑われるだけかもしれない。しかし、せめて介護保険関係のカタカナ語の濫用については、メディアは早急に考え直してもらいたい。高齢者に「ケアマネジャー」だの「ショートステイ」だのといわせるのは、不親切、無神経の極みだし、メディアにそんな厚生省のお先棒を担いでほしくないと思うからだ。

 

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