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市民の自由や権利が制限されるような事態は、なにも鳴り物入りでやってくるわけではない。むしろ正義や人権を守るために、との旗印のもとに推し進められていることが、いつのまにか自分たちの自由や権利を縛る結果になっているかもしれない。いま実は、そんな事態が静かに進行している。なのに、この種の問題に最も敏感であるべきメディアがあまり危機感を抱いている様子がないのはどうしたことか。 |
日弁連が設置提案へ
『東京新聞』(八月十六日)の報道によると、日本弁護士連合会は「あらゆる人権侵害」を取り扱う「政府から独立した新しい人権機関」の設置を呼びかける提案を、十月初めに発表する準備をしているという。この人権機関は、報道機関に対しても「強制力のある調査権を行使でき、継続中の行為を人権侵害と認めた場合には中止を求める差し止め手続きも盛り込まれている」という。
提案の具体的内容は詳らかにされていないが、『東京』が伝えた事実から判断するだけでも、この提案が表現の自由や報道の自由を大きく制約する可能性を持っていることは、容易に理解できる。報道機関に対して「強制力のある調査権」が行使されること自体、報道の自由にとって大きな脅威だ。まして「継続中の」報道活動に人権侵害があったと認めて「差し止め」が行われることになれば、これは憲法二十一条が禁じている検閲以外のなにものでもない。
提案にある「人権機関」は一応、政府から独立したものとされてはいるが、公的性格を持つ準司法機関となることは疑いない。そうした機関が、「あらゆる人権侵害」について、報道機関や大学も対象に含めて、行政罰、刑事罰を伴う強制調査権を行使できるようにしようというのだ。となれば、報道活動や学問研究の場に公的権力が容易に介入できる環境が生まれる恐れは多分にある。
日弁連はこの十月五、六の両日、岐阜市で開かれる第四十三回人権擁護大会でこの提案を論議することになっている。昨年の人権擁護大会で日弁連は、報道機関による人権侵害の救済方法として、自主的な報道評議会の設置を検討するよう求めていた。今年の大会への提案は、日弁連が報道機関に対して、より強硬な方針に転換したことを示唆したものとも受け取れる。
法務省の審議会も検討
日弁連の動きとは別に、法務省の人権擁護推進審議会も、独立した人権救済機関の設置を提言する方向で検討を進めている。審議会ではすでに具体的な「論点」を公表、来年夏までに法相への答申をまとめる方針という(『朝日新聞』七月二十九日)。この「人権救済機関」もやはり、人権侵害行為の禁止を命じる「行政命令」を出す権限をもたせることなどを視野においており、報道機関も対象に含める可能性を検討することになっている。
また自民党内には昨年から「報道と人権等のあり方に関する検討会」が設けられて、報道規制の可能性が検討されているという。
日弁連や法務省の動きの背景には、一つには国際的な動向もあるようだ。国連は一九四八年の世界人権宣言以来、数々の人権条約を成立させ、地球規模でこれらの人権基準の実施を推進している。その一環として求められているのが「実効性のある国内人権機関の設立」で、今回の提案ないし検討対象となっている人権機関もその流れに沿ったものだ。
問題は、そうした人権機関の必要性の有無ではなく、人権機関がどのような機能、役割を果たすのか、だろう。警察などの公的機関による人権侵害は確かに調査も救済も難しい。それに対処するための機関は必要だろう。しかしこの機関に、報道機関や大学をも強制調査や規制の対象に含める権限を与えるとなると、話は別だ。表現の自由や報道の自由を損なう事態が生じる危険は極力避けなければならない。日弁連が提案しようとしている「人権機関」の構想に、そうした危険を回避するための配慮のあとがあまり見受けられないのはどうしたことか。
あと絶たぬ報道被害
ある弁護士の話によると、法曹関係者には報道機関を人権侵害の元凶の一つと見なす人が少なくないという。かれらの間には、人権侵害に関わる調査や規制の対象に報道機関も当然、含めるべきだとの考え方が強いらしい。一般市民の間でも、法律論は別にして、報道機関がニュース報道の過程で人権を踏みにじるケースが少なくないことに反発がある。そうした空気が、今回の日弁連や法務省の動きの背後にあるもう一つの要因といえそうな気がする。
それはむろん、報道機関自らがまいた種でもある。報道活動によって被害を受けたという訴えはあとを絶たない。被害を受けた人たちに十分な救済の手が差し伸べられているともいえそうにない。しかしだからといって、他の公的機関による人権侵害と十把ひとからげに同じ手法で報道機関の問題を扱おうとするのは、報道の自由や表現の自由に対する配慮があまりにも足りなさ過ぎる。仮に人権機関の設置が日本での人権擁護にどうしても必要だというなら、表現の自由や報道の自由を最大限保障する観点から、大学や報道機関を人権機関の規制対象から除外すべきだろう。
これとは別に、政府が法制化を検討している個人情報保護基本法も、報道の自由を脅かす可能性を含んでいる。こちらは先に「大綱案」がまとまり、これに対して新聞・通信・放送計三百十四社が「報道に関する個人情報を基本法適用の対象外にするよう」求める共同声明を中川官房長官に提出している。
危機感乏しいメディア
こうした一連の動きをめぐって気になるのは、この種の問題に一番敏感なはずの報道機関の反応があまりに鈍いことだ。日弁連の構想について報道したのは、九月初めの段階で新聞では先の『東京』だけ。法務省側審議会の動きについても『朝日』などごくわずかの新聞が関心を示したにとどまっている。報道の自由を根底から脅かしかねないこの問題に気づいていないのか、気づいていても、問題を提起して論議を呼び起こそうという気にならないのか。どちらにしても、自分たちに最もつながりの深い報道の自由に関わる問題だけに、もっと真剣な取り組みがあっていいと思うのだが、どうだろう。
問題は、日本のメディア全体に漂っているように見える、危機感の乏しさではないか。法曹界や自民党の政治家だけに限らず、読者、視聴者を含めて市民が報道機関に向ける眼差しは非常に厳しい。その眼差しの厳しさを、報道機関がきちんと受け止めていると思わせる兆しが少しもない。
この数年、報道機関が自主的に第三者機関として「報道評議会」を設け、報道への苦情や注文に対処すべきだとの声が高まってきている。日弁連の昨年の要望もその一つだった。各社ごとにオンブズマンを置いて対応することも提起された。しかしいままでのところ、これらの問題が報道各社の間で真剣に議論されている気配はないし、具体的な計画も取りざたされていない。
このままでは、日弁連と法務省審議会の構想を土台にした「人権機関」が登場する可能性が大きくなる。そうした事態になることを避けるには、報道機関が自主的に、自分たちの身じまいを正せる、実効のある仕組みをつくり、世間に示す必要がある。オンブズマンでも報道評議会でもいい。あるいはその他の構想でもいい。いま早急に求められているのは、報道機関が具体的な行動を起こすことのように思われる。
報道の自由を脅かしかねない事態が進行していることをまずしっかり見据え、それを阻止するために必要な手立てを、急ぎ講じるときだろう。
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