ケータイ・バッシング 2000年6月号


ごろ、大学二年生のクラスで「二十一世紀 日本の課題」という題を与えて短いエッセイを書かせた。「財政の建て直し」「少子高齢社会への対応」「教育改革の推進」など、「定番」と思われる課題が多く論じられていたなかに「高度情報社会」に関するものがいくつかあった。パソコンや携帯電話の急激な普及によって、これらの情報技術を使えるものと使えないものの間に生じる大きな情報格差がこれからの問題になる、といった趣旨のものである。



 情報強者と弱者

情報格差に関する議論には、ほとんど例外なく、より多く情報を持つものが強者であり、情報の乏しいものは弱者だ、という考え方が前提になっている。情報技術を使いこなせるものは優位に立ち、使えないものは「情報弱者」に甘んじざるをえない、というものである。
確かに、さまざまな電子通信機器を自在に操れる人は、そうでない人より多く情報を入手できるし、その情報を活用して情報を持たない人より有利な立場に立つ可能性は大きくなる。しかしそれは、あくまで可能性の違いであって、情報の量が強者の勝利を保証するとはかぎらない。問題は、手にした情報をいかに有効に活用できるかの能力にかかっているはずである。情報の量だけ多くても、それを持つ人が情報の質や重要性を的確に判断し、それを次の決定に生かす能力を欠いていれば、あまり意味をなさなくなる。
などと書けば、「情報弱者」の世迷いごと、と笑われそうな気がするが、わが身の周りで進行中の「情報通信革命」を見ると、やはりそう思う。筆者自身、この数年、eメールやインターネットを利用し、その恩恵に浴している。米国の新聞記事がその日のうちに読めるのはありがたい。かつては郵便で取り寄せるのに何週間もかかった資料などを、インターネットで簡単に取り込めるのも、このうえなく便利である。しかしそうして簡単に入手できる情報がいつのまにか机のまわりに紙の山となっている。いざというときにすぐ活用できない。「情報強者」というには程遠い。
学生たちの携帯電話の使い方を見ていると、なおさらそんな思いが強くなる。大学生の携帯電話保有率は、限りなく一〇〇%に近い。(百二十人ほどの教室で聞いてみると、携帯電話を持たない学生はわずか三人だった)。本やノートは手にしていなくても、携帯を手にしない学生はまずいない。授業中の机の上にも携帯がある。持つこと自体が問題なのではない。問題は、それがどのように利用されているのか、である。
学生たちが携帯電話に向かって話している会話の中身は「いまどこ」「あ、すぐいく」「遅れてごめん」「次の授業さぼる?」などなど、である。(聞き耳立てなくとも、人「耳」はばからぬ「携帯会話」はいやでも聞こえてくる。)狭いキャンパスのなかで、電話してまで友だちを探すこともあるまい、と思うのは年寄りの余計なお世話だろう。が、この種の会話のほとんどは、携帯電話のなかったほんの数年前まで、学生たちの間でも必要のなかった会話だったといっていい。

 

 たわいない会話

最近の携帯電話は実にさまざまな機能をもっている。eメールもできるし、インターネットもできる。切符の予約も、銀行預金の出し入れもできる。将来その活用の範囲はさらに広がるだろう。しかし将来の若者たちは、携帯電話でたわいない会話を交わすようなことはなくなるのだろうか。現在の学生たちの姿を見ていると、そうなるとの確信は持てそうにない。
少なくとも、現在の若い人たちの携帯電話の使い方を見る限り、それが持っている「情報強者」への可能性が生かされているようには見受けられない。むしろ携帯電話に費やされる費用と時間を考えると、よほどマイナスのほうが大きいように思われる。
学生たちに聞いてみると、一人が携帯電話にかける費用は、少ないもので一ヵ月五千円ないし六千円、多いものでは二万円以上になる場合があるという。この額は、数年前までの学生が負担する必要のなかった新たなコストである。この支出のために、いまの学生たちはアルバイトを増やすか、これまでの生活費の一部を切り詰めるかしなければならない。アルバイトを増やせば、学業に費やす時間は短くなる。まして携帯電話を耳にあてたり、それとにらめっこしたりしている時間を考え合わせれば、時間的なロスも大きい。
携帯電話にあてられるこの費用と時間は、ひょっとすると、学生生活の質を変えかねない問題をはらんでいるのではないか、と思われる。携帯電話料を払うために削られる生活費の一部は、間違いなく書籍代をふくむ学費だろう。学生たちがますます本や雑誌を買わなくなる。そのうえアルバイトや携帯でのおしゃべりに時間をとられると、勉強の時間は一段と短くなる。ただでさえ学生の学力低下がいわれている折り、このままでは日本の将来がどうなることか、という心配にも、理由がなくはない。

 

 情報を判断する力

パソコンやインターネットにしても、携帯電話と同様の問題がある。ゲームに興じるだけでは時間を浪費するだけだし、資料をたくさん集めても、的確な分析力、判断力がなければたいした意味はない。情報技術がどこまで急速に進んでも、人間がそれを有効に使う能力をもっていなければ、宝の持ち腐れである。
いやいや、あまり悲観的に考えなくてもいいのではないか、と自分に言い聞かす。テレビが新しく登場したときにも、似たような議論があったではないか。テレビが日本人を総白痴化するといった警告に、もしかしたらと半信半疑になったこともある。それから五十年近くたって、それほどひどいことにはならなかったではないか、という議論はできる。
しかし半面、総白痴化とはいわないまでも、テレビ・メディアの生み出した状況が手放しで安心できるわけではないことも、多くの人が認めるところだろう。だとするとこの先、携帯電話がもたらすだろう結果に、安心してもいられない。携帯電話にすっかり取り込まれてしまったかに見える現在の若者たちがやがて日本の社会を背負う立場にたったとき、世の中の様子がどうなっているか、年寄りの心配をまったくの杞憂と決め付けてしまうわけにもいくまい。
現在の若者たちが使う携帯電話は、とても「情報の高度化」のために利用されているとは思えない。不要不急の会話やeメールのやり取りが携帯電話の主な使われ方だとすると、携帯を持つものと持たざるものの間の「情報格差」など多寡がしれたことになる。携帯無用とはいわないが、いまはそれに費やす時間とコストを、もっとほかのことに振り向けるべきではないか。最先端の情報機器を通して得られる大量の情報を正しく分析し、間違いない情勢判断ができる力をこそ、大学四年間で蓄えておくことだろう。
エッセイを書かせた翌週、こんな感想を教室で話したら、学生の一人から、情報機器を使いこなせない年寄りの「感情的なケータイ・バッシングだ」という反論を受けた。少しクスリが効きすぎたかな、と思ったりした。
授業で使う参考文献が図書館にないので貸してください、といって研究室に現れる学生がときどきいる。一冊七百円ばかりの新書である。買うことを勧めると、小遣いがなくて、という。「君、携帯電話を持ってるんだろ」といいそうになって、口をつぐむ。「コーヒー二杯分だぜ」と、こちらがつい気を使ってしまう。#

 

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