|
宗教団体に甘い?
メディア/予告記事は不可欠か
NHKラジオ第二放送(1999年12月05日 午前零時)
| |
1900年代最後の一年もあと一カ月をきりましたが、この一週間の新聞を読んで、相変わらず、世紀末的なニュースが多いことに、うんざりさせられました。宗教法人の「法の華三法行」が病気や悩み事を持つ人たちから「研修費」と言う名目で多額のお金を騙し取ったとされる事件もそうですし、第二地方銀行の国民銀行の経営者がずさんな融資を繰り返して、特別背任容疑で逮捕された事件もそうです。宗教団体や銀行、証券会社などがからんだこの種の事件は、これまでもしばしば伝えられており、読者としては「またか」という気持ちにさせられます。しかしそれにしても、人間はよくこりもせず、これほどまでに同じような悪事を繰り返すものかと、情けない気がしてきます。
「法の華三法行」については、警察が一斉捜索に踏み切った12月1日以降、新聞は大きなスペースを割いて、この宗教法人がどのような手法で信者やお金を集めてきたかを、事細かに報じていました。新聞の見出しのなかには、「生き血を吸うよう」という被害者の言葉を使ったものや、教団のことを「宗教企業」あるいは「マネー教団」と表現したものもあり、教団のあくどい活動振りが強調されていました。また『東京新聞』は、この教団でのいわゆる「修行」中に、この5年間で少なくとも4人が死亡していたとも伝えていました。
これらの記事を読んで一つ気になったことがあります。それは、この教団がこれほどひどいやり方でお金を集めたり、命に関わる修行をさせたりしていたことが事実なら、なぜもっと早くそうした事実を、新聞やテレビが報道しなかったのか、できなかったのか、と言う疑問です。同じような疑問は、かつてオウム真理教による地下鉄サリン事件や、坂本弁護士一家の殺害事件についても感じたところです。あのときも、オウム真理教が事件以前からいろいろ問題を引き起こしていたことが後になって伝えられ、なぜ事前に報道機関が問題を指摘できなかったのか、不思議に思いました。
宗教団体に関する報道は、信仰や思想、信条の自由とのかかわりがあるだけに、報道する側が慎重にならざるを得ないことは理解できます。しかしもし明らかに法律に違反するとみなされることが行われている場合、あるいはそれが強く疑われるような場合には、報道機関はもっと勇気をもって事実を伝える必要があるのではないでしょうか。警察や検察が捜査を始めるまで待っているのではなく、十分な事実を揃えて告発する義務が報道機関にはあると、私は思います。
もう一つ、この事件にも関連したことですが、新聞報道のあり方について、気づいたことに触れておきます。「法の華三法行」の捜索に関しては、12月1日の朝刊各紙に、「きょう強制捜査へ」という記事が出ていました。またこれより先、『朝日新聞』は11月29日の朝刊で「週内にも一斉捜索」と報じ、『東京新聞』はその翌日、朝刊で「近く強制捜査」と伝えていました。また国民銀行の不正融資事件については、11月28日の『読売新聞』が「前頭取ら、週明けにも逮捕」と伝え、『毎日新聞』は30日に「前頭取ら強制捜査へ」と書いていました。このほか、クレスベール証券の前会長とヤクルト元副社長の脱税事件についても、『毎日新聞』『産経新聞』がともに29日の朝刊で「脱税事件立件へ」と報じていました。新聞の第一面に載ったこれらの記事は、その見出しからもわかるとおり、いずれも強制捜査の開始などを予告した、前触れ記事といわれるものです。
こうした報道の仕方は日本の新聞にはよくあることですが、ただこれらの前触れ記事は本当に必要、不可欠なのだろうかという疑問を、私は持っています。前触れ記事には当然のことながら予測を交えた不確定な要素がどうしてもつきまといます。その内容は、半日か一日経てば明らかになることですから、事実をきちんと確かめてから報道しても決して遅すぎることはないと思うのですが、実際には、こうした前触れ報道が繰り返されています。
これは新聞社同士の厳しい競争の表れだといえます。少しでも早く他の新聞に先駆けて伝えたいという、特だね競争の結果です。しかし半日たてばより正確な情報が明らかになることがらを、他の新聞より半日、早く、不確定な要素を交えて伝えることにどれほどの意味があるのか、読者としては首を傾げます。競争をするのなら、もっと意味のあることで競争してもらいたいと考えます。世の中には、国民の生活に深く関わる問題でありながら、関係者がひた隠しに隠しているために、表面化しない事件や出来事があるはずです。そういう問題や事実を掘り起こして伝えることこそ、新聞でなければできないことであり、競ってやってもらいたいものです。
これに関連してもう一つ気になることを付け加えますと、いまいくつか数え上げた前触れ記事にほとんど例外なく共通していることは、それぞれの事件について「警察当局は・・・・する方針を固めた」という表現で伝えられていることです。文章の字面を素直に読むと、新聞が警察当局の言い分をそのまま鵜呑みにして報じているようにも読み取れます。「方針を固めた」という情報が当局の誰かの発言として伝えられていればそういう疑問は湧いてこないのですが、そうでないために、あたかも記事を書いた記者と当局者が一心同体であるような印象を受けるわけです。それは決して新聞の意図するところではないと思いますが、情報源の扱いをあいまいにしている結果、報道する側が当局とべったりの関係になっても、あまり違和感を持たないという体質になっているのではないか、と心配になります。
次に、最近、国会でも個人情報の保護が大きな議論になりつつありますが、12月一日の『毎日新聞』が、昨年中国の江沢民国家主席が早稲田大学で講演した際、この講演の聴講を申し込んだ人たち1400人分の名簿を大学当局が警察に提出していた、と一面トップで伝えました。『朝日新聞』や『読売新聞』は半日遅れの夕刊で小さく扱っていましたから、『毎日』の特だねだったものと思われます。早稲田大学では十年以上前から、大学で海外からの要人が講演などをした際、同じように出席者の名簿を警察当局に渡していたとのことです。これは、警備を目的とした警察側からの要請に応じて行われてきたようですが、講演に出席した人たちはそうした事実をまったく知らされておらず、明らかに名簿が目的以外のところに利用されたといっていいでしょう。大学側は手続き的に問題はない、と言っているようですが、個人情報保護の必要性が叫ばれているときだけに、大学側の対応が安易過ぎたという批判はまぬかれないように思います。
また11月30日の『朝日新聞』がやはり一面トップで、病気の履歴などを記載した個人情報が公然と売買されていると伝えていました。病歴などを含む医療情報は最も個人のプライバシーに関わる情報ですが、いまのところこうした情報の売買を取り締まる法律が不備のままといわれます。情報メディアの急速な発展で私たちの身の回りのネットワーク化、情報化が、実感できる以上の速さで進んでいます。個人の情報がみだりに、あるいは不当に悪用されないために、早急に法律の整備を急ぐ必要があることを、この記事は教えてくれています。
ちなみに、さきほど新聞に「意味のある競争を」という期待を述べましたが、この個人情報をめぐる『毎日』と『朝日』の報道は、新聞だからこそ掘り起こせた、意味のあるニュースの例だといえます。
新聞の報道には本来、暗いニュースが多いものですが、最近はとくに、幼い子供を巻き込んだ殺人事件や、いつ果てるとも知れない汚職や金融関係の不祥事など、読んで暗い気持ちにさせられるニュースが目立ちます。現在の日本の世相を映しているのだろうと思います。ただできれば、もう少し、心温まるような話題、われわれを元気付けてくれるような出来事も伝えてもらえればありがたい。「悪いニュースほどいいニュース」だというのがジャーナリズムの常識ではあるようですが、ときには「いいニュースをいいニュース」として伝えてもらえれば、読者の気持ちも少しばかり和むのではないでしょうか。(了)
|