実名と匿名の間

面白くない政治記事

NHKラジオ第二放送(1999年7月31日 午前零時半)


 

  この一週間に新聞が伝えたニュースのなかで、私たちをもっとも驚かせたものといえば、間違いなく、全日空機のハイジャック事件だったろうと思います。飛行機は無事着陸し犯人は逮捕されましたが、機長が殺害されるという痛ましい結果になりました。

 この事件そのものは一週間前の金曜日に起きたものですが、その後の調べで次々に新しい事実が明らかにされ、一つ間違えば500人以上を乗せたジャンボ機が墜落していたかもしれない、深刻な事態に直面していたことが分かってきました。犠牲になった機長の冷静な対応と、最後の瞬間に犯人を取り押さえた他の乗員たちの機敏な行動が、大惨事をかろうじて防いだといえ
そうで、墜落を免れたことがむしろ奇蹟に近いように思われます。

 一連の報道を読みながら気になったことの一つは、犯人の若い男が事件前に空港当局や一部の報道機関に対して、空港の警備の甘さを繰り返し指摘していたといわれること、それにもかかわらず、空港当局が格別の警備強化策をとった様子がなかったといわれることです。

 空港当局も、これを監督する立場にある運輸省も、空港の警備体制に問題があったことを認めているようです。男の警告や指摘を受けてすぐにも対策を講じていれば、今回の事件は防げたと思われるだけに、早急な対策を怠った関係当局の責任は、非常に大きいと思います。いまのところ事件の解明に関心が集まっているせいか、この責任追及の声はさほど大きくないようですが、この点はいずれあいまいにせず、けじめをつけてほしいものだと考えます。

 もう一つ気がかりだったのは、この事件の犯人をめぐる報道の仕方です。どの新聞も、事件が発生した23日の夕刊段階から26日の夕刊段階まで、一貫して犯人を「若い男」「無職の男」といった匿名の扱いで報じていました。27日の朝刊段階で「産経新聞」が初めて男の氏名を明記して伝え始めましたが、他の新聞は依然として匿名のままで報道を続けていました。産経新聞」は27日の紙面で、匿名から実名による報道に切り替えた理由として、犯行が計画的であったこと、事前にインターネットで警備の欠陥を指摘していることなどを挙げ、さらに、事件の深刻さを考慮して、匿名は適当でないと判断した、とも述べています。

 ほかの新聞は朝日が26日の朝刊で、毎日はその日の夕刊で、読売と東京は27日の朝刊で、それぞれ短い「おことわり」を掲げ、男の刑事責任能力が疑問視されることを理由に、匿名報道を続けるとの姿勢を伝えていました。「産経新聞」が実名報道に踏み切ったことに対して,ほかの新聞から何らかの反応があってもよさそうに思えますが、その後の各紙の紙面にはいまのところ、何の変化も見受けられません。

 犯罪の容疑者に精神障害などの疑いがあるとき、容疑者の人権に対する配慮から、匿名で伝えるのが報道の原則であることは、多くの読者にも理解されているはずです。しかし今回の事件の場合、その原則をそのまま守らねばならないのかどうか、議論の余地があるように思われます。事件の深刻さを考えると、言い換えれば、機長を殺害し、500人以上の人たちの命を危険にさらした行為の重大さを考えると、あくまで匿名を貫くだけの十分な根拠があるかどうか、疑問に思う市民は少なくないと思います。「産経新聞」が実名報道に切り替えた理由も、いわばそうした市民の感覚を意識したからではないか、と私は受け止めました。

 これに関連してもう一つ付け加えますと、この問題をめぐる新聞の対応は、新聞が読者の関心事についていかに鈍感であるかを、よく示していると思います。それは、各紙が先に触れた「おことわり」をそれぞれの紙面にのせるまでに、最初の報道から3日以上経っていたということに、よく表れています。しかもその「おことわり」がいずれの場合もわずか数行のおざなりな記事だったことは、新聞の鈍感さを一層よく示していたように思います。
 この事件の報道に関して読者がもっとも強い関心を持った点は、のっとり犯人がどういう人間であったのか、なぜこんな事件を引き起こしたのか、と言うことだったはずです。ところが新聞は、「二十八歳の若い男」とか「無職の男」、あるいは「飛行機に異常に強い関心を持つ男」と言った以上のことは伝えませんでした。なぜそうした扱いをするのかについても、三日以上の間、何の説明をしなかった。その後ようやく掲載した「おことわり」も、きわめて不十分で不親切な説明でした。

 おそらく新聞を作る人たちは、自分たちがわかっていれば読者に説明の必要はないと考えたのかも知れません。知りたい情報が提供されず、提供されない理由の説明もされないままで、多くの読者がいらいらしていたことを、新聞作りに携わる人たちは思いつかなかったのでしょうか。

 「おことわり」の仕方がきわめておざなりであったと言うことは、乗っ取り犯人を実名でほうどうするかどうかと言うこと以上に、いまの新聞にとって大きな問題ではないか、と私は思います。つまり、「おことわり」の扱いに表われた、読者に対する新聞の鈍感さは、新聞と読者の間にいつのまにか深いミゾができていることを示しているように思われるからです。しかし新聞の側はそのミゾの存在に気づいている様子がないだけに、問題はさらに深刻といえるかも知れません。こうした受け止め方が私の思い過ごしであれば、もちろんそれに越したことはありません。

 新聞と読者の間のミゾと言えば、新聞が伝える政治のニュースにも、この「ミゾ」を感じることがしばしばあります。先週は、小渕首相が政権の座についてちょうど一年目にあたっていたため、どの新聞にも小渕政権の一年を振り返る記事が目立ちました。各紙とも、ほとんど例外なく指摘していたのは、発足当初あまり評判のよくなかった小渕政権が、その後予想を超える実績を残し、内閣への支持率が高まっているということでした。それぞれの記事は、首相の人柄や政治手法、この一年間の政権を取り巻いた環境など、いくつかの理由を挙げて政権の人気上昇を説明していました。しかしいずれも政治家や政党の動きを中心にした説明ばかりで、政治の大局的な流れを知る上では物足りなさが残りました。

 いま多くの読者は、日本の政治が大きな転換点に差し掛かっていることを予感しています。日本が今後どの方向に向かって進もうとしているのか、それが日本国民の将来に何を意味しているのか、読者としてはそうしたことをもっと知りたいと考えています。しかしそうした関心に十分こたえる記事は、今回はあまり見当たらなかったように思います。

 政治に関する新聞の報道は、これまでも「面白くない」とか「わかりににくい」としばしば批判されてきました。その理由は、政治に関するニュースが政治家や政治を担当する記者の視点で取り上げられ、この人たちの言葉で表現されてきたからだと思います。政治家や政党の動きばかりを扱うのもそれですし、建前と本音が異なる政治家のあいまいな発言をあいまいなまま伝えてこと足れりとしてきたのも、その例です。読者の側から言えば、政治家や政党の動きも、それが政治の大きな流れの中でどのような意味を持つのかと言うところまで説明してもらいたいところです。政治家の建前の発言だけでなく、本音との間の食い違いを追及することも、忘れないでもらいたいのです。

 最近の政治報道には、それなりに工夫がこらされている跡もうかがえます。重要な争点について特集を組んだり、解説に質疑応答方式を取り入れたりと言った試みがそれです。こうした試みにはむろん、一定の幸かはあると思います。ただ、記事を書く側の視点にはそれほど変化があったようには見えません。それはおそらく新聞社の政治を取材する仕組みがほとんど変わっていないためではないかと思われます。政治家に密着しすぎるきらいのあるこれまでの取材では、どうしても政治家や政党の視点に記者が引き寄せられることを避けられません。そうした仕組みを変えることが必要ですが、しかし何よりも現場の記者に、市民の視点に立って取材し伝えると言う姿勢を、あらためて確認してもらいたいと思います。

 市民の視点に立って報道する必要は、なにも政治ニュースの報道に限ったことではありません。あらゆる分野の報道についていえることです。そしてその姿勢を貫くことが、結局、先ほど触れた、新聞と読者の間のミゾを埋めることにつながるのだと思います。
(了)