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警察の不祥事とメディアの姿勢
NHKラジオ第二放送(2000年3月5日 午前零時半)
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この一週間、新聞がほとんど毎日のように大きく伝えたのは、新潟県での女性監禁事件をきっかけに明らかになった、新潟県警と警察庁の幹部に関わる不祥事のニュースでした。開いた口がふさがらない、あきれてものが言えない、という表現がありますが、一連の報道を読んでいると、つくづくそんな思いがしました。報道機関に対してウソの発表をする、女性が保護された当日、県警本部長は宴会に出席し、深夜までマージャンに興じている、しかもその接待の相手が特別監察にやってきた警察庁の幹部だった、というのでは、文字通り、あきれ果てた話というしかありません。
しかし話はそれだけでは終わらなかった。特別監察で県警を訪れたはずの関東管区警察局長は、わずか15分ほど県警本部にいただけで、ろくに監察の仕事もしなかった、あとは温泉での宴会とマージャン、翌日は公用車で観光に出かけた、とのことでした。これだけいいかげんなことをしておきながら、県警本部長は減給一ヵ月の処分、管区警察局長に対しては処分もなし、というものでした。二人の警察幹部は二月末で辞職しましたが、案の定、市民の間からは処分が軽すぎるという批判や苦情が殺到し、もたもた議論をしたあげく、国家公安委員会が警察庁長官を減給処分にする、という異例の事態に発展しました。
これらのニュースを読んでいて強く感じたことは、この問題に対する私たち市民の受け取り方と、警察当局や公安委員会の考え方に途方もない大きなミゾがあるのではないか、ということです。市民の側から見ると、県警本部長が報道機関にウソの発表をしたり、事件に重大な進展があったときに宴会やマージャンにうつつを抜かしていたりするのはむろん論外です。しかしそれにもまして問題なのは、特別監察に訪れた管区警察局長が監察の仕事もそこそこに、監察される側の県警幹部と酒食を伴にし、マージャンにふけって、翌日も一緒に観光にでかける、というでたらめさ、です。
警察庁長官はこうした行為を「言語道断」と呼んでいたようですが、本当にそう思っていたのかどうか、二人に対する処分を見ると、とても本気で「言語道断」と思ったようには見えません。口先では非難しながら、実は身内の不始末をなんとか穏便に処理しようと言う思惑が見え透いていたように思われます。それだからこそ、警察庁に対する批判の声が高まったわけですが、県警本部長や管区警察局長に退職金の受け取りを辞退させたりすることで、処分そのものは見直さないままに終わりました。
今回のような不祥事が起きる背景として、ほとんどの新聞が指摘していたのは、キャリアと呼ばれる少数のエリートが警察組織の上層部を独占する構造です。上級職の試験にパスしさえすれば、あとはエスカレーター式に出世できる仕組みが、組織の利益を優先させ、仲間内の不始末をかばいあう、馴れ合いの構造を生んだと考えられます。辞めた県警本部長や管区警察局長が警察内部でとりたてていいかげんな人物だったというわけではないと思います。言い換えると、現在の制度のもとでは、同じような問題がほかでも起きる可能性がつねにある、ということでもあります。
今回はまた、警察を監督する立場にあるはずの国家公安委員会の役割についても疑問が投げかけられました。県警本部長と管区警察局長の処分について、国家公安委員会は警察庁側のとった措置を追認しただけでした。処分が軽すぎると言う批判が強まると、警察庁長官の監督責任を問うという形で体裁を取り繕いました。国家公安委員会は警察庁のほとんどいいなりで、警察を監督するという本来の役割をなんら果たしていないことが、この一週間の大騒ぎで、明らかになったといえます。
こうした警察や公安委員会のありようを見ると、警察組織にこの先、自浄能力、つまり自らを改革する能力を期待するのは難しいと、考えざるを得ません。公安委員会の役割や監察制度のあり方を含めて、根本的な制度改革が必要と思われます。しかし少なくとも当面は、新聞を初めとする報道機関に、警察のありように厳しく目を光らせてもらいたいと思います。今回の不祥事を一過性の出来事とせず、今後も継続的に警察の仕事を監視し続けてもらいたい。今回と同じような手抜き監察や、馴れ合い接待、ウソやごまかし、が行われていないかどうか、普段から警察を主要な取材対象の一つとしている報道機関に、この際、ぜひお目付け役を期待したいと思います。
今回の一連の不祥事について、もう一つ気がかりだった点を指摘しておきます。それは、監禁されていた女性の保護の経緯や県警幹部による管区警察局長の接待の状況などに関して、警察当局がなぜこれほど平然とウソの発表をしたり、隠し立てをしたりしたのか、という点です。昨年の神奈川県警の不祥事でも、県警幹部はウソやごまかしの発表を繰り返し、事実を隠そうとしました。組織防衛のためにはウソをつくことも恥と思わない体質が警察の側にあるのかも知れません。しかし報道機関の側にも警察側から甘く見られるようなことがなかったかどうか、ちょっと気になるところです。辞めた新潟県警本部長が、ウソが発覚したあとも記者団との会見を拒み続けたというのは、明らかに記者団が見くびられていたからではないか、という疑念が沸いてきます。
日本では、警察に限らず、政治家や官僚、それに企業を代表するような人たちが、公の場で、あまりにも簡単にウソをつく、前言、前に言ったことを翻す、といったことが目立ちます。それは、公の場での発言について、厳しく責任を問われることがあまりないからだと思われます。新聞を読んでもテレビで記者会見を見ても、これらの人たちの発言はおおむねその場限りのおざなりなものが多い。しかし報道機関がこの人たちのおざなりな発言を厳しく追及するような場面にはお目にかからない。発言にウソやごまかし、矛盾があっても、徹底的にこの人たちの責任を問いただすということが、あまりないように見受けられます。そうした報道機関側の姿勢が、今回のような事件の背景にもう一つの要因としてあるのではないかと、思います。
新潟県警に端を発した一連の不祥事で、新聞は各紙とも連載企画や解説などを通して、事件の背景や問題点をおおむね適切に報道し、読者の理解を助けてくれたと思います。これまで批判されることが少なかった警察という巨大な権力組織に、市民の厳しい目を向けさせる上でも大事な役割を果たしたといえます。そうした役割を今回限りのことにせず、権力の側に不正や問題を見つけたときは文字通り、社会の木鐸として警鐘を鳴らす役割を、新聞に期待したいところです。
話題を変えます。3月1日の各新聞は、少年による犯罪の場合でも、凶悪で重大な犯罪であれば、少年の実名や写真を報道することも違法ではない、との判決が大阪高等裁判所で出たことを伝えていました。これは、19歳の時に起こした通り魔殺人事件で有罪判決を受けた男性が、月刊誌に実名と顔写真を報道されたため、名誉を傷つけられたとして訴えていたもので、一審では男性側の訴えが認められていましたが、高裁の判決はそれを覆して、出版社側の主張を受け入れたものになりました。
犯罪に関わった少年の報道に関しては、少年法61条で、本人とわかる記事や写真を新聞などの出版物に掲載してはならないことが規定されています。男性側はこれを根拠に出版社を訴えたわけですが、高裁判決は、凶悪事件の場合は、少年を実名で報道することも「国民の関心にこたえる正当な報道」と判断したわけです。これはいわば、少年の保護、育成という少年法の精神よりも、憲法の「表現の自由」を優先させた考え方、といえます。
少年による犯罪の凶悪化、低年齢化が進むにつれて、新聞や雑誌が少年犯罪をどう伝えるかが、最近大きな議論になっています。少年法そのものの改正を求める声も上がっています。今回の判決を受けて、新聞が一気に実名報道に向かって動き出すことはまずないと思われます。しかし、これまでも幾度か実名報道を試みてきた一部の週刊誌や月刊誌が今後、実名報道への傾斜を強めることはあるかも知れません。問題は、今回の判決が、「表現の自由」に名を借りた営利主義に利用されるかもしれない、という心配です。新聞にしろ雑誌にしろ、営利本位の立場から少年報道の扱いを決めるようなことをすれば、いずれ読者の信頼を失う結果につながると思います。新聞は今回の判決で、少年事件を今後どう報道するか、新たな課題を背負い込んだといえるかもしれません。(了)
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