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上智大学・史学科の歴史・点描

2015年度月例会

私とベルギー

磯見辰典名誉教授談 | 2015/5/30
磯見辰典名誉教授

磯見辰典名誉教授

 (豊田先生が)半分ぐらい話してくれちゃったかな。どうでもいいような気がしないでもないんですけれど。僕は別に研究報告をするわけでもないし、老人の昔話なんて聞いたってしょうがないという方もおられるでしょう。僕だって聞きたかないんですよ。でも、今ちょっと豊田先生が話してくれたように、昔はね、11月の史学大会の時には卒業生がわんさか来たんですよ。だから大会が終わってから後の懇親会はまるで同窓会みたいに賑やかだった。それがもう今はないなという、それがちょっと僕の懸念でもあるんです。

 しかし、だからといって、それじゃあ昔話だけしていいのかというと、題名があるんでね、私の話に。「私とベルギー」ね。それじゃあ、やっぱり、そこから入らなきゃならないね。

 どこから始めようか。ベルギー。ベルギーなんて、本当に知らなかったですよ。皆さんがどれくらい知っているか分からないけれど、南半分がフランス語で、北半分がネーデルランド、ま、オランダ語という、フラマン語なわけで、そんなことももちろん知らなかった。なのに、何でベルギーへ行ったのかという。もとよりそれは自分の意志じゃないのですね。

 その当時の上智大学はすごく学生も少ないし[1953年度史学科卒業生3名]、先生も少ないが、それでも、まあ先生は学生の割には多かったと思う。たとえば私は史学科なんだけれど、史学科以外の先生と随分付き合った。理工学部の先生。理工学部はずいぶん後になったできたんだけれど。

 僕は少しフランス語ができた。フランス語の話をしたら長くなるから止めますが、ただ何でフランス語なんかやったのかというと、これまた自分の意志では全くないわけです。では、なぜやったのか、これはまたちょっと別な話になった、少し長くなります。

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2015年度月例会

上智初期女子学生とその後

林 紀美子(1961年史学科入学)
著者近影

著者近影

 1964年に卒業致しました。その年は皆さんご存知の東京オリンピックの年でした。卒業いたしましてから、商社に勤めました。それから、ひょんなことからイスラエルへ参りまして、14ヶ月滞在しておりました。そしてその後ドイツ、当時は西ドイツでしたが、西ドイツへ参りまして、1970年までドイツに滞在しておりました。1970年というのは、また大阪万博で日本中が湧いている年でした。そこへ帰って参りまして、それから何年か経ちまして、日本語教師になりました。先ほど日下先輩は学校の先生をおやりになったのですけど、私の方は語学教師で、よく言われるように、口移しに教える言葉の先生です。これは思考を伴った学校の先生とは違いが大変あります。70歳まで、つまり4年前までやっておりました。

 上智大学では、一応西洋史専攻でした。先程豊田先生がおっしゃいましたけど、当時の上智大学というのは、大変珍しい学校で、史学科も第一外国語を選択することができました。英語の他にドイツ語とフランス語が選択可能でした。私はドイツ語を選びました。1960年代というのは、学生が大変荒れた時代でして、在学中に色んなデモがあって、あの、有名な樺美智子さんが亡くなった時でした。上智とそれからICUの学生がデモに参加したというので、世界中の英語紙のトピックニュースになるような時代でした。それはちょうど今のニューオータニの向こう側の入り口の前にある清水谷公園というところが学生の溜まり場、デモをする学生の出発地でした。それでデモ隊が上智の横を通っていくので、上智からも何人か参加しているようなところがありました。

 私は入学後、第一外国語にドイツ語を選択いたしました。1年生では語学でクラス分けをしますので、最初から史学科のクラスには入っておりませんでした。私の入ったクラスは、A4というクラスで、経済・法学・新聞・国文の学生の混成クラスで、女性は4人でした。毎朝1時限がドイツ語でした。皆さんお聞き及びと思いますけど、有名な鍵のかかる部屋で、しかも教室は今の1号館の3階と4階でした。地下鉄は丸ノ内線と銀座線があったような気がいたしますけど、他はそんなに発達しておりませんでした。それから四ツ谷駅にエスカレーターはありませんでした。ですからいつも満員電車に乗って、やっと走り込んで入ってくるのですが、まずホームを降りたら階段を走って上ります。地上に出て、学校に来たら、1号館というのは昔流ですから、地階から3階でも結構階段があります。階段のところから廊下を見ると先生が教室に入るところが見えます。先生はSJに住んでらっしゃいますから、目と鼻の先です。後ろのドアから入ってガチャン、前のドアに行って鍵をかけます。私たちは階段を上がったところから、「あー」って言うのですが、先生はにこっと笑って、「ヤア」と言ってガチャンです。3回遅刻、つまり欠席ですね、入れませんから、3回遅刻すると、名簿上から名前が消えます。もう本当に必死でした。それで、女性は3人ですから、代返はできないわけです。一人の女性の方は留年が決まり、二年に上がれないという事がありました。その頃は1年から2年、2年から3年へ、今とシステムが違いましたから、進級できない事になります。語学は単位数が多いのでそういう事になります。それもとてもいい時代の象徴ですけれど、クラス中で署名を集めまして、専攻が独文でもドイツ語でもないわけですから、ある意味ドイツ語は、手段だから(彼女は国文だった)と。とても美人だったこともあって、みんなが署名を集めて先生のところに行ったら、まあ、無事進級させて下さいました。そういうこともありました。ただ、ドイツ語とフランス語をとった史学科の学生は、私がドイツ語で、フランス語は2人、有名な國府田さん[武:東海大学教授]ともう1人、女性がいました。その3人でしたから、本当に史学科に馴染んだのは3年生からでした。ドイツ語やフランス語を選ぶと、第二語学はとらなくてもよかったです。ただとる人は英語と決まっておりました。私は英語が大変苦手でしたので、最初から、ABCからやるというのでドイツ語を選んだだけの話でした。あとで大変苦労しました。英語はともかく、必要です。

 それから、イスラエル建国史をえらんだのは、子供の頃日本人で初めてノーベル賞を受賞した人[湯川秀樹:1949年]がいました。そして大変話題になっておりました。その時にノーベル賞受賞者にはなぜこんなにユダヤ人というか、ユダヤ系の人が多いのかという疑問と、それから音楽家・画家・小説家・学者もありとあらゆる分野で、なんだか、ユダヤ系なんとかという人が非常に多いなという気持ち。それから、当時はナチズムに関しての本、映画、もう諸々いっぱいあった時代です。それでイスラエルに興味を持ちました。建国を可能にしたシオニズムから、テオドール・ヘルツルという名前に行き着きました。それで、第一外国語はドイツ語に致しました。彼はドイツ語で著作をしていましたから。卒論は「テオドール・ヘルツルとシオニズム」でした。今から考えると大変お恥ずかしいのですが、当時はまだ日本でのユダヤ史は聖書考古学が中心でした。

Theodor Herzl(1860-1904年)

Theodor Herzl(1860-1904年)

 当時の史学科長は、長寿吉先生とおっしゃいまして、近世ドイツ史の専門でらしたと思います。ただ私が2年生の時に定年におなりになって、ゼミは橋口ゼミでした。長先生が私に下さった本が全部ゴティック文字[Fraktur:亀の子文字、亀甲文字、髭文字]でした。私共は花文字と言っていました。私共はもう、今のローマ字しか習っていませんでしたから頂いた本はなかなか読めませんでした。ゴティック文字というのは、ちょっと書けませんが、読むのは慣れると簡単なようです。

 在学中に何を学んだかというと、本当に恥ずかしくて何をしていたのだろうというくらい、楽しんでおりました。卒論は、ゼミが橋口先生ですから、当然分野は全然違います。それで、早稲田の小林先生にお世話になりました。先生はイスラエル近代史が専門でらっしゃいました。それからイスラエル大使館の文化部とか、ユダヤ教のシナゴーグに参りまして、留学生の中の、教授レベルの人を、もう本当に生意気でお恥ずかしいのですが、紹介していただきまして、助けていただきました。当時は建国15年くらいのイスラエルでしたから、大変なキャンペーン中で、それはそれは親切でした。まあ、女子学生が珍しいというのもあったのかもしれません。

 卒業後半年くらい経って商社(伊藤忠商事)の仕事にも慣れた頃、交換留学生の試験を受けないかというお話をいただきました。当時イスラエルというと、留学生は皆さん聖書学者だったそうです。あとは、学生が英語を学ぶために留学生の試験を受けるという人が多かったようで、英文科の学生とかいう受験生の中に入ったので、珍しかったと思うのですが、なぜか3人残った中に入りました。試験を受けた方の中から当然の如く当時、東大の助教授をしてらっしゃった先生が選ばれました。席は一つですから、私ともう一人の方は違うルートで行かないかと言われました。そのルートは大使館の文化部の方から作っていただきました。どうしてそういうラッキーなことが起こったかというのは今でも謎です。大使館員の一人が帰国なさいまして、イスラエルに来て勉強するようにというルートを、もちろんヘブライ語は全然できなかったのですが、つくって下さいまして、それで行くことになりました。東大の先生は交換留学生としていらっしゃいましたが、私ともう一人、女性だったのですが、都立高校の数学の先生だった方とは違うルートで行くことになりました。彼女はイスラエル人の知人がいるので、私とは全くの別行動でした。

 日本からイスラエルへ行くルートとして、当時は今と違いまして、バンクーバー経由でヨーロッパに入る飛行機か、あとは南回りの飛行機でローマから行くルートがありました。私が卒業して、その行く年になってから、昔あったシベリア鉄道のルートというのが再開しました。それまで戦争で、第二次世界大戦中は閉鎖されていたのですが、それが再開したので、それを使って参りました。横浜から津軽海峡を通って、船でナホトカへ。ナホトカからハバロスクいうところまで、シベリア鉄道に乗りました。もうこれはこれだけ乗ったら十分っていうようなひどい電車でして、それでハバロスクから飛行機を使い、モスコーへ参りました。モスコーからまた今度は飛行機でオデッサというところに行きました。オデッサから船でイスタンブールへ入りまして、そしてイスタンブールからイスラエルへ参りました。モスコーでも2,3日滞在しましたし、いろんな所でちょこちょこと滞在しましたので10日以上かかりました。途中ブルガリアのヴァルナっていう所にも寄りました。どうしてこういうことをやったのかと言われますと若気の至りとしか申しようがありません。当時、色々な映画がありましたが、その中にエーゼンシュタインの映画、「戦艦ポチョムキン」[1925年:https://www.youtube.com/watch?v=_Glv_rlsdxU]というのがありました。ご覧になった方があるかもしれませんが、階段の上から、乳母車が転がり降りるシーン、あそこを見てみたい、それがオデッサでした。それで、オデッサ経由で行きました。ナホトカからハバロスク、モスコー、オデッサ、イスタンブール、イスラエルというルートでした。

映画でのオデッサの階段の虐殺場面

映画でのオデッサの階段の虐殺場面

乳母車

乳母車

 今どなたかが『女三人シベリア鉄道』[森あゆみ、集英社文庫、2012年]っていう本をお出しになってらっしゃいますけど、ちょうどあの本の、戦前と戦後いらした方の間に私が行ったような感じでした。モスコーはソ連の首都ですから、是非自分の目で見てみたいというのもありました。ソ連のニュースというのは高校の教科書に出てくる以外あまりありませんでした。いいことはたくさん書いてありましたが、自分で見てみたいと思ったので、それでモスコー経由で参りました。オデッサは、先程申し上げたように映画の「戦艦ポチョムキン」の舞台への興味でした。

 イスタンブールも今のように橋が2本ありませんでした。ですから、昔のままのイスタンブールが見られた時代でした。今行くと全然景観が変わっておりますけど東と西のかけ橋の都というのが良く分かるところでした。ブルガリアのバロナを経由してイスタンブールへ入りました。イスタンブールからイスラエルの飛行機が飛んでおりまして、それでイスラエルへ参りました。

 これは又、ユダヤ人がパレスチナからヨーロッパに移って、また追われてヨーロッパから再度パレスチナへという時代に辿った道の一つなので、それを通ってみようという気もありました。当時ソ連はニュースがほとんどありませんでした。行ってみたら当時のソ連は大変なところでした。デパートという所に何もない、ただの体育館みたいなところでしたし、何か買おうと思って換えたルーブルを、何も買う物がないから、円に換えてもらいたいと言っても戻してもらえないとか、色々な、なんというか、見ると聞くのとでは大変な違いがたくさんありました。私は三色ボールペンとかストッキングを会う人会う人にねだられました。地下鉄は、モスコーの地下鉄は昔から有名でしたから、あそこへ行ったら是非とも乗ってみたいと思い、切符を買って乗りましたが、ちょっと歩くといつの間にか後ろから誰かがちょんちょんって肩を叩くのです。「お前はここで何をしているのか」とか「ここにはお前は入れないぞ」という感じでした。大変威圧的で、怖い秘密警察のようでした。

 イスラエルでは10ヶ月間語学学校にまいりました。これはウルパンと言いまして、イスラエルはご存知のように移民の国ですから、モシャブとかキブツとか特殊な養成機関を持っております。キブツの中にあるヘブライ語学校というのに入りました。キブツの中のヘブライ語学校は午前中語学を勉強して、午後はそのキブツで労働をするというスタイルです。私はその、ルートをつくってくださった方が元在駐日イスラエル大使館の方で、日本人の事をかなりご存知の方でした。キブツの中で生活すると外国人がいっぱいだから、私には住み易いのではと考えて下さったようです。労働はしなくていいという、語学学校だけに出席するスタイルでした。色々なところを見るのに大変便利でした。というのは、当時のイスラエルは四国くらいの大きさでして、今とだいぶ大きさが違います。まあ、色々と戦争をしてきた国ですけれども、史跡の他にシャガールのステンドグラスが、ニューヨークのハダスホスピタルとまるで同じものがある場所があったり、それから、死海文書が出たばかりの時ですが、イサムノグチの設計でそれだけを見せるためにできた建物とか、結構色々なものがあって、午後の時間は随分色々な所に行きました。その頃は、動きまわるのがそれほど大変ではなかった様な気がします。日本人というと、ユダヤ人だけではなく、アラブ人も結構皆さん親切で、色々なところで様々な良い思いをしました。

 ヘブライ語のコースが終わって、いざ大学という時に、あの有名な六日戦争が始まりました[1967/6/5-10]。イスラエルの身元保証人になって下さっていた方から、よその国の戦争で、傷ついたり死んだりするのは馬鹿らしいし、ご両親にも申し訳ないから、出国した方がいいと言われました。その方は、ウクライナからの移住者で、大変な思いをしてイスラエルに着いた方でした。ですから余計にというか、とにかく五体満足のうちに出国した方がいいというふうに言われました。おばあさん、今の私ぐらいの年齢の方でした。気がつくとキブツからも年寄りと子供以外の男性がいなくなっていました。キブツのシステムをご存知の方もいらっしゃると思いますが、外国人はメンバーとは別の所に住んでおりまして、私もその寮に住んでおりました。私がいたヘブライ語を習うためのキブツはちょうどエルサレムから70マイルくらいの所にありました。そこは本当に荒野の真ん中でした。それで隣がスウェーデン人とフィンランド人でした。だいたい原則二人部屋ですが、私は一人で住んでおりました。

 スウェーデン人はご主人が科学者で、ハイファというところの工科大学にいらして、奥様は週末だけご主人が帰ってくるので週日はひまで、私は非常に仲良くなりました。もう一人のフィンランド人の姉妹は、キリスト教関係の方で、大変真面目な方でした。そのスウェーデン人の方がスカンジナビアの若者を集めて最後に脱出する船というのに誘ってくださいました。身元保証人になっていたイスラエル人からも、とにかくチャンスがあったら出て行くようにと言われていたので、それに乗りました。最後だったと思います、船が出たのは。飛行機はもう飛んではいませんでした。

 そこからあの有名な六日戦争が始まりました。第三次中東戦争です。イスラエルが大勝したというか、第四次は負けてしまうわけですけど、多くの一般のイスラエル人の予想に反して勝ちました。1967年の6月の5日から10日まででした。それでイスラエルを出ました。船は当然ですけどタダですから、キプロスで降ろされました。スカンジナビアの人達と私は全部キプロスで降ろされて、その戦争が終わるまでキプロスにおりました。キプロスはたぶんご存知だと思いますけど、マカリオス大主教[3世:1913-77年]という、ヒゲのギリシャ正教の僧衣を着た方が大主教で首相でした。イギリス領だったところが独立してからそれ程経っていませんでした。

Makarios III(1913-77年)

Makarios III(1913-77年)

 別邸、その大司教で首相の別邸というところに、外国人の避難民を全部入れて、滞在させてくれました。そこに、戦争が終わって船が出るか飛行機が飛ぶかまでいることになりました。1ヶ月弱いたような気がいたします。島からは軍、米軍よりもイギリス軍が多かったのですが、飛行機が飛ぶのが大変よく見えました。この戦争はイスラエルが勝ったので、それはよかったのですが、イスラエルに戻るかどうするか考えた時に迷いました。たった1年のイスラエル滞在でヘブライ語が満足にできるわけがないのと、それからまあ英語ができないという現実がありました。ヘブライ大学の英語とヘブライ語での授業にはついていけないと思いました。それでイスラエルにもどるのはやめてドイツへ向かいました。なぜドイツを選んだのかというと、大学での第一外国語がドイツ語だったということと、それからあれだけイスラエル人を、ユダヤ人を嫌ったドイツをみてみたいというのが一つ。そして経済的な理由です。あの当時日本とドイツは商社とか色々な関係がありまして、簡単ではないですが、ドイツに行けばお金がなんとかなるという点でした。皆さんにはちょっとわからないと思いますが、私共の時代は持ち出し日本円限度額というのがあり、確かあの時は300ドルだったと思います。一括で一回。留学生ですから一回だけで、それでしかも1ドル360円ですし、もう一回持ち出しているわけですからないわけです。送金方法というのが大変難しくて、結局父を頼らざるを得ませんでした。ドイツにたくさん日本の商社があったのですが、それまでハンブルグにあった多くの日本の商社や居住地がデュッセルドルフに移っていて、便利なこともあったので、デュッセルドルフへ向かいました。

 キプロス島を見てギリシャ、そしてギリシャからオリエント急行のルートで電車に乗ってユーゴ経由でウィーンまで行きました。歴史上、ユーゴは大変面白い国だと私は思っていましたので行ってみたいと思いました。当時、その年がたまたまユーゴの観光キャンペーンというので、ビザ無しで入れた事もありました。それに上智の同学年の方が、チトー大統領に招かれて、大変有名になってニュースになっていたこともありまして、ユーゴスラビアのベオグラードの学生寮に一週間くらい滞在いたしました。

 ドイツについては、ナチ時代のドイツ批判にもかかわらず、アデナウワーとか、あのエアハルトの時代のドイツ経済の好調はどうしてなのかと思いました。もう既にドイツ経済は大変好調でした。日本はまだまだでした。東京オリンピックが終わって経済は上向いてましたが、それでも大変な違いでした。それから個人的な経済的理由を考えたら、ドイツしか滞在できませんでした。ドイツのゲーテ・インスティテュートで2コースをとって、当時西ベルリンの自由大学に参りました。昔からある大学は東にありました。アメリカが中心になった新しい大学で図々しくも学生になりました。当時西ベルリンの学生は大変優遇されていました。西ベルリンの住民は当然西ドイツの住民ですが、住民の3分の1が学生、3分の1が年金生活者、残りの3分の1が働いて回っている、経済が成り立っていると言われていました。西ベルリンの学生になると、一月当時10マルクで交通機関全部乗り放題の定期が得られました。地下鉄とシュタットバーンの電車、それとバス、全部乗れるので、じゃあというので試験を受けました。試験は今でもよく覚えているのですが、週労働35時間と有給休暇についての講演があり、それについてのQ&Aでした。1960年代の終わりです。日本はまだ土曜日も働いていた時代です。

 有名なフンボルト大学は先ほど申し上げたように、東ベルリンにありますので、私が入ったのは自由大学、FU(エフウー)です。そこで2ゼメスターとった時点で個人的な理由で帰国することになりました。帰って参りましたら大阪万博真っ只中でございました、1970年。

 それから帰国後、何年か個人的な状況で主婦をしておりました。何年か経って日本語教師になりまして、4,5年前まで日本語教師として働いておりました。はじめは、教職免許は社会科とドイツ語を持っておりましたので、東京ドイツ学園で教えておりました。当時学校は大森にありました。今は横浜に移りましたが、そこで日本語を教えておりました。それと並行してドイツ人やドイツ語圏のビジネスマンにも教えました。東京のOAG(オーアーゲー)文化センターというのが赤坂にありますが、そのOAGで、四谷にあったエンデルレ書店というドイツ語の書籍を売っている本屋さんが作ったドイツ人に日本語を教えるコース、そこで教えておりました。そのうち日本の企業がどんどん外国人を入れるようになりましたので、教師が足りなくなりました。朝日カルチャーセンターの日本語教室、JALアカデミーとかそういうところでも教えておりました。お役所、色々な省で外国人を招いて、日本語を教えてからさらに各自の専門を学ぶ、というコースが毎年増えて来ました。そこでドイツ語圏の人だけではなく、色々な国の人に20何年間日本語を教えました。

 私は1964年卒なのですが、1964年というのは上智大学が学部1年から女子を受け入れて3年目でした。ですから卒業生は1961年に3年次から入った女子卒業生が2名いらっしゃいました。それから1962年は史学科の女子の卒業生は6名、そして1963年は8名、そして私が出た1964年には女子が、37名の史学科の学生のうち23名でした。そのあとはずっと3分の2以上が女子という時期が続きます。まあ、私共の学年から急に女子が多くはなったのですが、上智全体ではまだ女子は大変少なかったです。当時大宅壮一という評論家、今テレビで活躍の大宅映子さんのお父様ですが、彼が女子大生亡国論というのを唱えて話題になりました。私達も勉強しないとああいう風に言われるよと神父様方に、よく注意されました。まあ私も含めて女子大生はあんまり勉強してなかったような気もしますけれども。

大宅壮一(1900-1970年)

大宅壮一(1900-1970年)

 上智はそれまで男子校でしたから学校も大変気を使って下さったようです。今のクルトゥル・ハイムのところに大島館という建物がございました。私たちは女子部屋と申しておりました。

 

 

 有島暁子先生とおっしゃる大変お綺麗でエレガントな方、その有島暁子先生という方がカウンセラーみたいな格好で、常時大島館にいらっしゃいました。それで早く、行けばお弁当が食べられたりお茶が飲めたりします。それから違う学部の学生とのお話しもできますが、男子は禁制でした。神父様といえども入れなかった。それでも、史学科の女性は何故か、私で正規に入って三年目ですけど、行かない。先生から声がかかるのですが、なかなか行かなかったようです。私も例外ではなかった。その有島暁子先生っていう方が大変素晴らしい方だったのですが、華やかすぎて史学科の地味な女子学生とは、合わなかったのではないかと思います。有島先生は1971年に昭和天皇、皇后がヨーロッパにいらしたときに通事、通訳としてお付きになった方です。大変フランス語が達者な方で、それでお家柄もいいので、お父様が有島生馬さんで叔父様が有島武郎さん、もう一人の叔父様が里見弴さん。ですからいろいろなことで、有名な方が出入りする方でした。フランス語、英語もですけど、フランス語が大変堪能な方で、ガブリエル・マルセルというフランスの実存主義ではあるけれどもカトリック系の方が日本に見えた時は、通訳をなさって、ご活躍でした。

)Gabriel Marcel(1889-1973

)Gabriel Marcel(1889-1973

 大変お綺麗で優雅で素晴らしい方なのに、なぜか私共の学年までは、史学科の学生は、そこの部屋にはあまり行かなかったような気がします。その頃は女性が大学全体では大変少なかったので、私たちは自主規制っていうのをつくりました。有島先生が中心になって、色々と作りました。まず、下着が透けないブラウスを着て来ること。それからノースリーブは、今のタンクトップですが、それはダメとか。もちろんミニスカートはない時代ですからいいのですが、そういうのを女子学生、みんなで決めました。今では考えられない事です。

 それから女子が入って、正規に入学して三年目ですから、若い神学生とのトラブルも結構ございました。史学科の先輩にも、2年先輩ですが、ドイツの神学生と色々問題になりました。史学科の先輩は、男の方が僧院を出て結婚なさり、お子さんもいらっしゃいます。他はスキャンダルになりますので、松本清張の小説になったようなところがありました。

 私の時代までは、史学科卒の女性は地味でしたが、1967年に卒業なさった史学科の女性で、準ミス桜の女王になった方がいらっしゃいます。今松方さんとおっしゃるのですが、上智の女子学生ではじめてミスコンに出た方だと思います。今でも大変感じのいい人です。

 1969年卒業の方では自然環境を守るっていうことからいろんな活躍をしてらっしゃる藤井さんとおっしゃる方がいらっしゃいます。たぶんどこかでご存知かもしれませんが。今でもよくテレビに出てらっしゃる方ですがこの方は大学院でも勉強なさった方です。確か滋賀県から政治家にお成りになった方です。

 それから私が先ほど申し上げたとおり、第一外語がドイツ語でしたから、卒業したときに教職の勉強をしていれば、社会科と一緒に外国語という名目でしたけど、中高の免許が取れました。これは、第一外国語がフランス語とかドイツ語を取れば当時は難なく取れたようなところがありました。教育実習は社会科でやりました。教育実習を社会科でやって、ドイツ学園では見るだけでよかった。それで免許は、それが後の日本語教師の免状に変わりました。当時はなかなか就職が難しかったので、史学科の学生はみんな教職をとっていたような気がします。とってない方は親の会社を継ぐとか、最初からそれが決まっているような方はとっていませんでしたが、ほとんどの、特に女子学生はほとんどとっていらっしゃいました。でも先生になった方は少ないです。

 今史学科の同期で活躍していらっしゃる方はキリシタン文庫にいらっしゃった筒井[砂]さん、それから青木さんとおっしゃって、旧姓柳原さんですが、青木保先生[元文化庁長官、国立新美術館館長]の奥様で、フランス語の翻訳者として中世、近世の翻訳を、地味な本をコツコツ翻訳してらっしゃいます。

 私は橋口ゼミでしたが、ほとんどの女性は、今は主婦を経ておばあちゃんです。私も例外ではありません。卒論のテーマというのは、本当にまちまちでした。先ほど申し上げたように、イスラエル史をやっているのに橋口ゼミに入っているというのはおかしな事ですが、それは先生もゼミもそんなになかったからでした。全体の学生が20何人ですから。それを国史と東洋史とそれから西洋史に分けたら、本当に少ない。磯見先生もまだいらっしゃいませんでしたし、鈴木宣明先生も留学中でしたし、白鳥先生はちょうど私共が3年生の時ウィーンに留学なさった。桑田先生という東洋史の先生がいらっしゃいました。国史は2人、吉村先生と佐藤直弼先生。本当に今は女子の同窓生は、みんな好いおばあちゃんです。

鈴木宣明名誉教授SJ(1929-2014年)

鈴木宣明名誉教授SJ(1929-2014年)

 卒論のテーマというのがまた本当に面白いのですが、女性に関してお話いたしますと、フランス語が大変達者でドレフィス事件について書いた方。それから今でも仲良くしているのですが、彼女はスペイン語を他のクラスに取りに行って、上智はスペイン語のクラスが充実しておりましたので、スペイン語をマスターし、シモン・ボリバルについて書いた方もいらっしゃいました。それから、アイルランドとか北米のテーマを選んで、今から思えば一生懸命書いたと思います。今はインターネットでなんでもある程度まで調べられますけど、当時は携帯電話がこんな大きな時代ですから。コンピューターは大型冷蔵庫くらいの大きさでした。誰もスマホなど持っていませんし、本当にいろんなことを調べるのが大変な時代でした。図書館に行くか、現地に行くか、の時代でした。

 中にアメリカ史を書いた友人がいます。今はいいおばあちゃんですが、モンロ-・ドクトリンについて書いた方がいらっしゃいました。彼女は論文がとても優秀で、総代で卒業なさった方です。アメリカの、それをアメリカの歴史雑誌に載せるから英語に直せと言われたそうです。第一外国語が英語で英語ができる方でしたから、英語で書いて載せたと聞いております。それで、アメリカの大学から引きあいがきて、だけど「私は結婚するわ」と言って断ったと聞きました。そういう時代でした。今はもうお孫さんが大学生くらいの方ですけど、そういう方もいらっしゃいます。

 それからシモン・ボリバルを卒論に選んだ友人は、彼女は卒業後京都大学に入りまして、宗旨替えをしました。農学部に入ったのです。彼女の一族は大変有名な画家の一族で、彼女はそれに反抗して歴史を勉強したのですが、今は画家になっています。これは彼女の作品です。それで南米コロンビアに住んでいらっしゃいます。ずっともう、40年近く。卒業してすぐに京都大学農学部造園科に学士入学して造園家になりました。造園を勉強してコロンビアの独立記念のコンペに庭園の設計で応募して、招聘をもらって、それでご主人と二人でコロンビアへ渡りました。子育てが終わってからコロンビアの国立アカデミーに入り直して、絵の勉強をして、今は画家です。彼女は経歴的には一番変わっているかもしれません。毎年帰ってきて、展覧会をしています。

辻潤(1884-1944年)

辻潤(1884-1944年)

伊藤野枝(1895-1923年)

伊藤野枝(1895-1923年)

彼女は国史に出てくる伊藤野枝と辻潤の孫です。それで伊藤野枝と辻潤の子供、つまり彼女のお父様、辻まことさんという方は大変絵のお上手な方で、よく、昔の婦人公論や山の本で挿絵を描いた方です。お母様はまたちょっと変わった、竹林無想庵の娘なのです。

辻まこと(1913-75年)

辻まこと(1913-75年)

竹林無想庵(1880-1962年)

竹林無想庵(1880-1962年)

 いろんな意味で大変な歴史を背負っているので、彼女がコロンビアに住んでいるのは正解かもしれません。日本にいるとそういうテレビドラマとかある度に引っ張り出されるわけですから、淡々としてられないと思います。でも今彼女は、コロンビアで絵を描いて、造園家として、庭を作って、結構有名になっています。一年に一回ぐらい日本へ帰ってきて、展覧会をして、向こうで生活するというパターンを繰り返しています。

 その他に非常に変わった方というのは、東洋史の出身ですけど、桑田先生のゼミだったと思うのですが、ハワイに住んでる方がいらっしゃいます。そのハワイにいる方は、結婚して子供さんが2人いるのですが、大学教授だったご主人が、ロシア系のアメリカ人で、それで定年後に修練を受けて、ロシア正教の司祭になった方です。ちょうどベルリンの壁が崩れて、それで旧ソ連もあっちこっちに人が出て行く時代です。それで、多くの旧ソ連領の国からたくさんの人々がハワイにもいらしたと思うのです。ロシア正教の司祭というのは妻帯だそうですが、それで彼女は司祭の奥さんをしています。ご主人を助けて司牧をしているのですが、彼女は大学では東洋史出身で、確か、ムガール帝国でのイエズス会士について書いた方だったと思います。彼女のご主人は、ロシアで革命が起こった時に一族が離れ離れになって、ご主人の家族はアメリカへきて、そのままアメリカに住んでいた方だそうです。それで、ある時どこかで会った方が大叔母様だったそうです。そのことについて本をお書きになりました。これが、その『バレンティナ』という本です。

 

 

 大叔母様の名前だそうですけど、英語で書いてあります。作者のエミコ・リョビンという方が同窓生です。本をお見せしたかったのですが、丁度今北海道にいる友人のところにいっていて、現物が私の手元にないのですが、英語で書かれた本です。彼女は上智を出たあと、ご主人がサバティカルで、アメリカの大学から日本にみえた時に、一緒にきて教育学のマスターをとり、ハワイの高校の教師として定年まで働いてらっしゃいました。

 今日は昔の女子の卒業生についてのお話という事ですが、私共の時代は卒業してすぐ結婚する方が結構いらっしゃいました。3年生くらいからお見合いをして、4年生で結婚が決まってない人というのはそんなにいない、本当に勉強する人だけ。そういう時代です。卒業して4,5年以内には姓が変わっているのが、まあ普通でした。

 それでその中に、卒業してすぐ結婚して子供ができて、そしてその子育てが終わってから、古文書の読み方を勉強なさった方もいらっしゃいます。婚家が弓道の家元だったのですが、ご主人は商社マンでした。そのご主人が亡くなってから、古文書を読んで、今の言葉に直してまとめた方、そういう方もいらっしゃいます。お見合いをして結婚するのが当たり前の時代ですから、もう74か5です。それで恋愛して結婚するという方はそうはいなかったような気もします。特に上智はみんな素直なお嬢さん達が入学する時代でしたので。

 史学科に入学しまして、すぐに当時の史学科長の長寿吉先生とおっしゃる先生が、入学式の時、全体の入学式が終わった後、今の司祭館の前で史学科の新入生だけ集めて、お話しをなさいました。なにせ人数が大変少ない時ですから、外でした。その中で大変印象に残ったお話があります。今でも海外に住んでいるお友達と会いますと、しょっちゅう話題になります。

「あなたがたが史学科で4年間学ぶにあたって、一つだけ言っておきたいことがある。世の中の事件や物事をジャーナリスティックに見ないでほしい。史学科で学ぶからには、きちんと物事の本質を見つめるよう努力しなさい。ジャーナリスティックに見はじめるとキリがない。」
とおっしゃいました。女性は違うのですが、大学では、当時はみなさんの大学時代と違って私共はやっぱりどこかを受けて、男性はどこかを受けて落っこちて、不本意ながら入ったという方がたくさんいらっしゃいました。長先生が、もうお年の先生でしたが、その先生がそういう風におっしゃいました。
「世の中にはね、ジャーナリスティックには面白そうな事がたくさんある。そういうのに一旦のったら真実が見抜けなくなる。史学科4年間で、それを見抜くように努力して学んでほしい」
入学式の後ですぐおっしゃいました。それは今でも、おばあちゃんになってというか、学問に縁のない生活なのですけど、これだけ世の中が忙しく、おかしな時代になってくると、あの長先生の言葉が身にしみます。

 2年前金祝という卒業50周年のパーティーには全部で18名が集まりました。もちろん亡くなった方も6人くらいいらっしゃいますが、その内の13名が女性でした。
卒業後25年の時、銀祝のパーティーで集まりましたが、それ以来でした。25年ぶりにパリからも、コロンビアからも久しぶりに集まって、旧交を温めました。

 そして史学科の卒業生であってよかったと思える事が多々あります。それは海外の友人たちと話す時です。知識だけでなく、感じ方の教育を受けたのは上智大学の史学科での4年間だったような気がするからです。物事の見方を、ジャーナリスティックに見ないようにと常々戒めながら過ごしているつもりです。これは色んな事件が起こる中で大変役に立ったと思います。

 今も日本語教師をボランティアですが、やっています。皮肉なことにイスラエルにおりましたのに、イラン人とか、イラクとかその被り物をしている女性を教えたりしています。ちょっと勝手が違いますが、まあ、接してみたら世界中どこの国の人でも誰でも同じだと思います。ユダヤ人も、初めてイスラエルに住んだ時抵抗が全然なかったのを思い出したりしています。ですから、どこにいても人間は人間だなと思います。

 本日は拙い話を聞いて下さってどうもありがとうございました。

【後書き】
 上智大学の女子学生については、以下のウェブのNo.39参照。
 http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/websophia

文中の写真や[]内の記述は、すべて豊田がウェブから勝手に拾ってきたもので、全責任は豊田にあることを明記しておきます。

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2015年度月例会

断簡雑話

日下幸雄(1950年史学科入学・前史学科ソフィア会会長)
日下幸雄(1950年史学科入学・前史学科ソフィア会会長)

日下幸雄(1950年史学科入学・前史学科ソフィア会会長)

(日下さん)豊田先生からご紹介で来ました。日下[くさか]幸雄と申します。私は昭和25(1950)年、終戦が昭和20年でしたから、終戦から5年経ったときに史学科に入りました。そして、大学3年の時に体を悪くしまして、1年休学することになりました。昭和30(1955)年に学部を卒業し、大学院の修士課程まで進みました。

(豊田)指導教員はどなただったんですか?

(日下さん)指導教授は、亡くなられた佐藤直助先生[仙台市生まれ;東北帝国大学、同大学院、1941年本学講師、助教授、教授、1977年名誉教授]です。

佐藤直助(1906-1994年)

佐藤直助(1906-1994年)

(豊田)日本史ですか?

(日下さん)日本史です。
 因みに、佐藤直助先生は、東北大の史学科を出ておられて、たしか醸造元のご子息なんです。お金持ちでございましてね。学生の時にフランス語をフランス人の神父から習って、そして東京に遊びに出てきて、その足でフランスへ行ってしまわれました。当時で外国にいくなんて大変なことで。東京に遊びにいくような話から、いきなりパリへ飛んでしまうなんていうのは、大変なお金持ちでないと、当時はとてもじゃないけれど考えようがありませんでした。そんなお方でした。私が入ったころは、先生は50代くらいで、私の父親と同じくらいで、明治39年生まれかな?

 さて、豊田先生から何かお話をせよとのご下命を受けまして、何を史学科の学生に話しましょうか。今伺ったら、大学院に進まれている方がほとんどというお話でしたので、皆様には低級かもしれませんが、歴史のことをお話しようと思います。ということは、自分の歴史の考え方、歴史観の一端をしゃべれということだと考えました。実際にもう学問の道から50年も60年も離れています。個別な研究は史学会で皆さん発表されてると思いますが、ある特定のところをやってお話しするものだから、そこの分野に関係ないと、なかなかお話しが理解できない。そういうことが多いと思います。

 話の突端から申します。私の生まれた昭和7年と言いますと、まだ戦前で、中国と日本の間が刺々しい状態でした。昭和12年ごろから日中戦争が始まり、そして連戦連勝で、北京、南京を落としたなど良い話ばかり聞いていたため、子供のころは、日本は強いんだなぁ、連戦連勝でいくんだなぁというような感じでした。

 今のお若い方じゃ考えられないでしょうけど、天皇陛下が皇居から陸軍病院までお出ましした時の話です。昔の陸軍病院は今の国立国際医療研究センター病院で、今の戸山町にお出ましになるということで、私たち小学生は、道にゴザひいてそこに座り込まされました。そこへ、はるかむこうから天皇陛下がお乗りになった車が来ると、100メートルくらい手前から「礼」といってみんな地面に頭をこすりつけ、「直れ」というまで頭をぐっと下にし、車がすーっと通りすぎ、しばらくして「直れ」という号令がありました。昔のちょうど映画やなんかに出てくるような、お殿様を迎える人々みたいに……。そんな時代でありました。天皇陛下のお話を直接に聞くということはなく、天皇陛下というだけで、話を聞いていました。

参考]1930年昭和天皇静岡行幸啓風景

参考]1930年昭和天皇静岡行幸啓風景

[参考]戦後、昭和天皇巡幸をお迎えする小学生

[参考]戦後、昭和天皇巡幸をお迎えする小学生

 まだ日本は(今のように)こんな風に豊かではなく、ご飯は、飯に小さい魚がつき、たくあんに味噌汁というのが当たり前で、とてもじゃないけれどコーヒーや紅茶だとか、パンを食べるなんてことは、よほどの洒落た家庭でない限りありえませんでした。非常に貧しくて、各家庭で牛乳をうちに届けてくれるのですが、大抵大きい家族で1本くらいで、それをいかに使うかが問題でした。病人や年寄りを含め、たった1本だったため、牛乳なんてのはほとんど飲んだことがないなんていう時代です。

 電話も、ほとんどない時代で、電話を持ってるご家庭はほとんどありませんでした。いま皆さんがお持ちの携帯電話なんてのは、考えようもありません。その電話が私の家にありまして、ご近所の家で私どもが見も知らない人が、私どもの電話番号を自分の名刺に勝手に書いて、呼び出しをしていました。夜中、けたたましく電話がなると、「なんとかさんのお宅ですか?」「いや違います、日下でございます」というと、「電話番号にこう書いてあります。では呼び出しでしたか、よろしく呼んでください」と言われました。どこに住んでるのか、名前もなにもわかりませんでした。仕方ないので、玄関のところへ立って、近隣に向かって「おーい!なんとかさん電話だぞ!急いで来い!」っていうように触れ回りました。社会全体が今では考えようのないくらいに、みすぼらしい状態でありました。

(豊田)どの辺りにお住まいだったんですか?

(日下さん)私は、生れは牛込。新宿区牛込弁天町で、5歳のときに新宿区(旧牛込区)の若松町、現住所に引っ越してきました。そこから新宿から離れてことがありません。

新宿区牛込、若松町付近から四谷 (クリックすると拡大します)

新宿区牛込、若松町付近から四谷
(クリックすると拡大します)

 ほとんど、軍国一色の時代でした。全て天皇陛下のもとに、万世一系の天皇様を中心にそして当時は段々軍部が強くなって、明治史やなんかをやってる方々は、またそれじゃなくても、ご理解していらっしゃるのだろうけれども、そういう時代の中に私は生きていました。

 中学校は、私は早稲田中学に入り、終戦は中学2年の時でした。東京は焼け野原になりました。若松町は、その時代空襲の被害に遭いませんでした。ただ、[1945年]3月10日なんて大空襲で下町が燃えているときに、私の家の屋根から見ていると、見渡す限り下町が紅蓮の炎に燃えているわけです。非常にきれいだなぁというような感覚でした。まだ子供ですから、人様の苦しみだとか、大変な状態にあったことがわかりませんでした。

[参考]3/11大空襲後の焼け野原の東京

[参考]3/11大空襲後の焼け野原の東京

そして、中学生のときに友達とペンの先に懐中電灯がついているようなものを買いに、下町まで行ました。自転車に乗って行った下町は、まるっきりの焼け野原でした。残ってるのは何かっていうと、マントルピースと大きな金庫でした。そういったものが焼け野原の中にありました。道は当時、都電が走っていたものですから、レールの跡に従って、「あぁ、これはどこそこで曲がってるのか」と進み、牛込から深川の方まで片道7〜8キロを走って行きました。焼け野原の中で、きれいな女性が焼け野原の中に入っていきました。お手洗いをしに野原に入っていくのだろうと思ったら、しゃがみこんで地面の蓋を開けて、その中にはいっていくのです。昔防空壕を掘って、その中でみんな生活をしていました。そんな大きな空間は掘れていないと思うんですが、そういったような戦後でした。

[参考]1945年10末 焼け野原の防空壕:動画

[参考]1945年10末 焼け野原の防空壕:動画(http://ima.goo.ne.jp/column/article/2548.html

[参考]防空壕暮らし:大阪

[参考]防空壕暮らし:大阪

昭和25(1950 )年なんていうと、23、4年までは非常に食糧需要は悪く配給などで苦しい時代でした。私が上智に入ってきて、浅野屋なんていう蕎麦屋がありました。食料品の切符がないと食べさせてもらえないんです。食べ物も非常に厳しい時代で、本当に安定してくるのは、昭和20年の後半ぐらいから徐々に徐々にものが出回ってくるような時代で、そんな時代の学生生活でした。

[参考]1958(昭和33)年の食事風景 (http://m-iwai.jp/?m=200508)

[参考]1958(昭和33)年の食事風景
http://m-iwai.jp/?m=200508

上智は、司祭館の前あたりの「ボッシュ・タウン」っていうのを聞いたことあるでしょうけど、米軍の…。

1948年に竣工したかまぼこハウス(通称ボッシュ・ダウン)

 

学生に慕われたフランツ・ボッシュSJ

 

(豊田)あぁ、カマボコ型の

(日下さん)カマボコ型の外壁と屋根が一体となっているもので、当時、その舎監がボッシュ神父っていう名前だったので、それに従って「ボッシュ・タウン」と我々は呼んでいました。

 さて、私は、歴史が好きでした。中学1年に入る頃に頼山陽の『日本外史』[1829年刊行]を読みました。全部漢文で書いてあるものだから、字も難しいし、レ点や返点も難しかったため、結局は対訳本で読みました。歴史はみなさんご存知の通り、院生のみなさんならばそんなのは当然の常識でしょうけど、各王朝の王様の事績を年代順にずっと書き記していくものが歴史です。そういう常識があるためか、どの解説本でも、ただ何があった、何があったということをずっと書いてあるもがほとんどでした。特殊な研究史の知識は私には無かったため、概説本を読んでいました。

賴山陽(1780-1832年)

賴山陽(1780-1832年)

賴山陽(1780-1832年)吉川英治(1892-1962年)

吉川英治(1892-1962年)

 みなさんも『三国志』なんてのは読んだことありますよね。吉川英治が書いた『三国志』[全14巻、1940-46年]は、劉備玄徳だとか、諸葛孔明だとか、張飛だとか、関羽だとかの英雄が非常に面白く、ワクワクするような思いで読みました。それは、『三国志演義』を元にして書いてあるものです。いま、宮城谷昌光が『三国志』(2004-13年)を書いて出してますけど、あれは正統な歴史書の三国史なのです。これを読んでみますと、ただ事件は淡々と積み重ねられていくため、やはり『三国志演義』の方が面白い。ただ、それは一種の講談本みたいなものなのです。だから、本のクリティックをしながら、ものは読まなくてはいけないと考えています。例えば、古田[武彦]史学なんてものがありました。東北大学の出身で、その方の歴史書を読んでいくと、明快で非常に面白く時代が書いてあります。ただ、その方は、文学の方なので、歴史を自分の考えで理解し、こうだと断定的に書かれています。そのため、一度、歴史学者と大論争がありました。歴史学者は、不文律的なもので、文献史学では、何かの本や何かの記録にきちんと書いていない限りは、そうだろうと思うけれども、ものは断定できません。古田先生が、いくら自分の主張をして、私たちもそうなんだろうと思うんだけれども、そうだと賛同できません。なぜなら、そういうものを書いた証拠的な記録がないからです。

古田武彦(1926-2015年) 

古田武彦(1926-2015年) 

梅原猛(1925-)

梅原猛(1925-)

梅原猛さんの古代史を読んでいても、非常に面白く、説得力があります。私どもも、そうだろうとは思うけれども、やはり、古代史的な状態だと、それ裏付けできる資料が十分にありえません。みなさん、そうだろうと思うという賛同しかありません。結局、文学と歴史物語は、どこがどうなるのでしょうか。

 澤田ふじ子さん[1946年—]が書いた池坊専応の物語[『花僧:池坊専応の生涯』1986年]を読んでいると、室町時代の時代背景をよく踏まえて、実に理解しやすく書いてあります。しかし、あくまで小説であって、絶対的な細かな事やいろんなことは、事実とは無関係だと思うのです。歴史家は、先ほど申し上げたように、文献史学である以上は、その証拠たるものが見つからない限りは、それを断定できません。しかし歴史は史学科でなくても、歴史を説くことができます。何科であろうが、歴史を説くことができる。結局、我々は不文律的な学問の性格上、知れば知るほど、それを断定することは難しい、ということをつくづく最近は身にしみて思います。
    
 さて、そんな時代の少年は、やがて、ただ歴史が好きだからということで、この大学の門をくぐりました。やはり、1年、2年、先生方の……非常に大先生方がいらっしゃいましたね。

長寿吉(1880-1971年)

長寿吉(1880-1971年)

 ヨーロッパ史では、長寿吉先生[大分県出身、東京帝国大学卒、奈良女高師、学習院大、九州帝大を経て、本学教授]を筆頭に、慶應だとか色々な所からの応援部隊を受けながら、日本史では、辻善之助先生なんかの講義を聞いたことがある。いま、たまたま扇子を持っていて、「自分が勝つ、己が勝つ」と書いてある。いま、この「勝」という字はいまではみなさんお読みにならないでしょう。崩字を、辻先生は、反対側からみて、「これはなんという字で……」とずっと崩しの難しい漢字を読んでくださいました。それを覚えなくてはいけなかったのですが、未だに身につかず、難しいものは読めません。やはり、ある程度日本語の素養を身につけないと、古文や、色々な所に書いてあることを読み取ることすらできないということが実態です。そういった大先生がいらっしゃった……。

青山公亮(1896-1980 年)

青山公亮(1896-1980 年)

 明治大学の先生ですが、青山公亮先生[東京市出身;1920年東京帝国大学卒、1948年上智大学教授、1949-65年明治大学教授]がいらっしゃって、中国史が非常に面白いのです。例えば、中国の埠頭における労働者の話をされました。その話によると、埠頭で朝おかゆをたいて、人々はみんなそれを金で買って食べる。ある人は、ずっと、おかゆが炊けているのに見ているだけでした。見回して、すーっと消え、またしばらくして、ずっとおかゆをみては、ギリギリいっぱいの時間まで食べませんでした。なぜそんなことをしているかというと、おかゆは上と下では、水分が多い所と、水分の濃い所があるから、濃いのを待っているんだとおっしゃいました。おかゆの上澄みなのか、下のにごりをチョイスするのか、それが中国人の現実のスタイルである、なんてお話を聞いたり、青山先生のお話は、腹抱えながら聞くお話の連続でありました。

白鳥庫吉(1865-1942年)

白鳥庫吉(1865-1942年)

白鳥芳郎(1918-1998年)

白鳥芳郎(1918-1998年)

 白鳥庫吉先生[千葉県出身:東京帝国大学教授]のお孫さんにあたる、白鳥(芳郎)先生[1941年東京帝国大学卒、1948年上智大学助教授、1956- 年同教授]が30いくつの時、『魏志倭人伝』の日本の情景の所を持ってきて、勝手にどう読むかを、指導するというよりも、色々な格好で我々が好きに読むと、「あぁ、それもいいねぇ」とおっしゃったり、なんだか指導なのかよくわからないのだけれど、そういった授業を受けていました。長寿吉先生も、フランス史も非常に面白かったです。フランス革命は、当日は非常に暑かったそうで、もし当日の温度が2度違っていたら、あの暴動は起こらなかっただろうというお話を展開されて、「は〜、歴史っていうのは、温度2度くらいであんな革命が起こるのかなぁ」という感想を抱いた、面白い内容の授業でした。

 私共の学生生活は、この前磯見先生がおっしゃったかもしれませんが、私の時代は、大学全体で600人くらいでした。史学科は、磯見さん、中井さん、神父さんがいたり(鈴木宣明さん、去年亡くなられたけれども)、6名、私の学年も6名。その上下をみても、東洋史専攻の方は、一人もいませんでした。大抵、国史か西洋史でした。磯見先生は陸軍幼年学校へいった大秀才でした。陸軍幼年学校っていうのは、陸軍士官学校に入る前の若い中学生から、新制高校1年くらいのところまでを勉強させるところで、当時は学校の1番、2番くらいの優秀者を集めて養成するから、幼年学校出なんていうと、大変な秀才の集まりです。磯見さんなんかは、その中に入っていて、幼年学校を出て上智にこられたから、あの方はフランス語がとても、中学時代からやってるから猛烈できました。中井先生も、お体を途中悪くして、学生生活は、通常よりも3年くらい年食われていたんじゃないかな。長先生も舌を巻くくらいドイツ語が巧みでいらっしゃった、というような先輩方でした。昭和28年卒組は、6人のうち、5人が大学教授になられました。29年組・・・。私は30年となっていますが、(1年休学したため)29年組で、学者になったのは、一人だけ、南山に教えにいったのがいるけど、あとはみんなそうではありませんでした。

ハーバート・ノーマン(1909-1957年) 

ハーバート・ノーマン(1909-1957年) 

ジョセフ・マッカーシー(1908-1957年)

ジョセフ・マッカーシー(1908-1957年)

 詳しく知るにはその時代を研究して覚えていく。だから、量的に膨大なものを記憶し、理解しなくてはなりませんでした。私の場合はたまたま、ハーバート・ノーマン『日本における近代国家の成立』と日本語に訳されていますが、Japan’s Emergence as a Modern State: Political and Economic Problems of the Meiji Period. International Secretariat, Institute of Pacific Relations,1940というもので、出版されました。それから日本語に翻訳されて出てきました[1977年大窪愿二編訳]。その本を読むことによって、歴史の面白さを本当に理解した気になりました。このノーマン[Egerton Herbert Norman]さんは、生年月日は知りませんが、1957年4月エジプト駐在カナダ大使で、死んでしまうんです。自殺してしまうんです。そのころは、1950年代から……。1950年代っていうのは、非常に色んな年でして、朝鮮戦争が始まりました。それからアメリカで、マッカーシー旋風っていうのがありまして、アメリカの国防省内に、共産主義者がたくさんいるということをマッカーシー[Joseph Raymond McCarthy]上院議員が演説して大問題になり、アメリカで赤探しという格好で、色んな人が訴えられ、調べられ、多くの方が追放された、といった年代でした。ノーマンさんのお父さんが日本にやってきて、長野方面の宣教師をなさっていました。なので、ノーマンさんは日本生まれなんです。日本で生まれて、でも実際にはケンブリッジを卒業していました。当時、日本でケンブリッジなんて、やはりカナダの人だから、そういうような所へ行くことができたのでしょう。卒後、中国に渡って中国の色んなことを調べ、戦前の共産党的なことにある程度興味を覚え、彼は人道的な意味というのですか。若いころは私も共産思想で全ての人が財産を分かち、らくに(?)生きれるんだというようなものを一時、大抵の若者は、ある程度共産主義的なものに賛同したなんていう時代を心に覚えているわけです。多分、それしきな状態で、ノーマンはいたに違いない。カナダ大使なのに赤呼ばわりされて、それが原因だろうと思うんだけれども、カナダ大使という身でありながら、自殺してしまうというような方です。この方の歴史は、明治時代はどういうもので、どうなったか、その原因はどういう所にあるのかといって、帰納的な勉強をされました。今まで、私どもはどちらかというと、積み上げ式(演繹)の歴史をずっとやってきたのに、初めてノーマンさんによって、帰納的な学問の仕方っていうものを覚えたような気がします。非常にノーマンさんの歴史学のやり方が好きになって、それから、歴史はこういうような格好で勉強していくのがいいんだなあと私は思いました。そういう点で、佐藤直助先生も、どちらかというと、帰納的な学問の仕方を彼は教えてくださったと後になって理解しました。言葉一つ一つをとっても、「何とかを契機にして」というと、「お、日下、これは違う」とすぐに否定されてしまうんです。「これは契機じゃない。契機っていう意味合いをよく考えろ」それで、なぜ契機じゃないのかなぁと考ました。例えば、林子平の『海国兵談』[全16巻:1787-91年刊]は、彼は、世界の海は通じているという警鐘を日本にもたらしたため、それを契機だと言うと、「それは契機じゃないだろう。もっと前にいろんないわれがあるだろう」と言われました。「はんべんごろう事件」という、シベリアに抑留されていたポーランドの士官が[事実は、ハンガリー生まれ:実名モーリツ・ベニョヴスキー Móric Benyovszky をオランダ語読みした「ファン・ベンゴロ」により日本で「はんべんごろう」と呼ばれる]、シベリアからロシア船をぶんどって、逃げてくる途中に日本に立ち寄って、日本に警鐘を与えるなんて事件があったり、その当時はロシア船が日本近海に現れて、北側の北海道周辺で少々問題があったなどがありましたから……。林子平が言ったから、契機という言葉でいいんだろうかなど、非常に言葉を大事にされる、そんなことを思い出してきます。

林 子平 (1738-1793年)

林 子平
(1738-1793年)

M. ベニョヴスキー (1746-1786年)

M. ベニョヴスキー
(1746-1786年)

H.スペンサー (1820-1903年)

H.スペンサー
(1820-1903年)

 話は飛躍しますが、私は大学院に行った時の主な研究は、ヨーロッパ文明を日本にいかに受容するかという問題でした。それで私が、研究したのは、ハーバード・スペンサー[Herbert Spencer]でした。大体18世紀の後半から、19世紀の初めに生きた、進化論を中心として、歴史の発展を紐解いていくような、史学……社会学と言いましょうか、そういった専門の方でした。結局、そういうものが[日本で]読まれたんじゃないかという見当付けで、やったのですが、残念ながら答えはNOでした。一つも影響力がなく、読まれた形跡もありませんでした。なぜならば、明治の人々がヨーロッパに行っても……例えば、福澤の『文明論之概略』[1875年]なんかを読んでも、彼が驚いていることは、郵便ポストに郵便を入れると、なんでそれで目的地に届くのだろうかということでした。日本ではそれまで、飛脚、自分で行く、または旅人に依頼する方法があり、それが本当に到着したか、してないのかも分からないままで、そうした世の中に、なぜヨーロッパの郵便は届くのか。そんなようなベースメントが理解できないわけでありました。今では郵便なんて余程のことが……郵便局員が破ったりとかしない限りは、まず確実に着くというのが当たり前です。飛脚時代から考えると、その仕組み自体が分からない。そういうものを、一生懸命探していました。実学的な、戦争に勝つためには、いかに新しい鉄砲が必要なのか、武器だとか、船を作るだとか、実学的なものへ、だいたい江戸末から明治の初期くらいまでは、向っていました。なので、社会学的なところまではとても、日本が吸収していくには時代がそぐわなかった、ということなんです。私の目論見は、的を外れて勉強していたという事なんでしょう。もうちょっと詳しく歴史的なところを考察していたならば、的を射た研究をする事ができたんだろうけれど、私の場合は空振りでした。結局、先生は、その勉強の仕方が幼稚で至らなかったけれども、ある程度そういった事に気がついた私なんかが歴史の勉強に取り組み始めたという事を評価して、卒業させてくれたんだろうと思います。自分の非常に恥ずかしいお話を展開しましたけれども、そんな時代でありました。

 上智には非常に感謝し、今のこんな時代の中で、上智の標榜であるfor others, with othersっていう言葉の意味が、非常に素晴らしく、そうしなければ、我々は生きていけないんだなぁとつくづく感心し、我校がこの標榜を掲げている事を非常に誇りに思っています。

質疑応答

(豊田)大学院を修了されてから、どうされたんですか?

(日下さん)大学院に入りまして、その年の9月、史学科の先輩で、久保田恭平さんという方がおられます。北海道で、濱田彌兵衞[江戸時代初期の船長、「タイオワン事件」の実行者]に縁故を持つ方でありました。その方が、大学の図書館で本を読んでいたら、女学校の白百合学園で教師をしていた方なんだけれども声をかけてきました。私なんかは、時代が時代で、男女7歳にして席を同じくせずということでした。その時代で、女性なんてのは、話した事も、一緒に机を並べたこともない。大学院に入ったときに、女性の名前が2人入っていたから、喜んで、初めて共学ができると思って喜びました。しかし、部屋をのぞいて周り見渡しても、女性がいないのです。名前はちゃんと書いてありました。先生に女性の名前が2人書いてあるんだけれども、出鱈目なんですかと聞くと、いるじゃないかというんです。確かに後ろを見ると、尼さんの服を着た女性が二人座っていらっしゃいました。たしかに女性であることは間違いないんだけども、それが初めての共学でした。余談になりますが、磯見先生などの方々もそうでしたが、尼さんのあの下は、日本の尼さんみたいに髪を剃っているのか、ついているのか、それも分からなくて、あるときみんなで、恐る恐る「本当にくだらないのですが、その下は、剃髪なんでしょうか、有髪なんでしょうか?」なんて聞いた覚えがあります。

白百合学園旧九段校舎正門

白百合学園旧九段校舎正門

 それで、その久保田さんに女学校の先生だからいいですね、なんて話をしたら、翌日、いきなり白百合から電話がかかってきて、とにかく学校に来いというので行きまして、いきなりフランス人の院長のところへ連れて行かれ、フランス語でペラペラ喋べられ、よく分からなかったけれども、つい、やだというのに「ウィ」って言っちゃったんです。後でいくら否定しても、お前あのとき「ウィ」って言ったと、賛同したんだということで、翌日から、9月の終わり頃だったと思うけれど、前任者が金沢大学にコンバートされ、穴が空いたので人がいないといわれ、とにかくやれと言われました。教えるものが何かというと、地理といわれたんです。人文地理。私の時代では人文地理は、小学校で聞いて、中学校で1年のときに習ったか習わなかったという感じで、大学へ行って、地理概論は習いました。途中何も知らないんです。なのに、「お前は歴史やっていて、社会科だから、とにかく教えろ」と言われました。そんなの知らないと言っても、ダメだと言われました。びっくりしてその日、神田にいって、地理の本を大量に買い、一晩で読み込みました。とにかく、何が何でもやれっていうものですから、習ったこともない地理を、教えることになりました。地理1時間教えるために、3時間くらい一生懸命に予習しないと分かりませんでした。白百合の講師を始めて、半年経って、これで勘弁してもらえると思ったんですが、また社会科の先生が病気で休むことになったため、今度は、日本史と西洋史と教えろと言うのです。これまたびっくり仰天でした。素人よりも、多少は知っているけれど、教える立場なので、嘘をつくわけにはいきません。毎日のように、大学院の勉強はそっちのけで、教科書の教える割り当てのページの本を国史も西洋史も、一生懸命、夢中になって読みました。ということで、史学科の大学院を卒業するのに4年かり、そのうちの、丸3年は、中学高校の教科書を毎日下調べする連続でした。

 ただ、頭には今となっては何も残ってなくて、けろっと忘れてしまっています。実に4年勤めました。白百合学園は女子ばかりでした。大学入試[の指導]も面倒で、何気なしに佐藤直助先生に、「白百合は女ばっかりでやになっちゃう」と話したら、先生が、教授会かなんかで「日下が女の子ばっかりに教えるのやになったって言ってるぞ」という話になったんでしょう。そうしたら、私はまだ辞めると話す前に、ある日校長に呼ばれて、「先生、うちの学校やめるそうですね」と言われ、「え!?」というふうになりました。他の教授から、お前の次は、他の方を当てがうという話が来たということでした。そんなつもりはなかったけれど、それならと辞めさせていただきました。白百合を辞めてからは、成城学園で公募しているから、やってみないかと言われたため、仕方がないから成城学園に応募しましたら、たまたま採用され、丸7年くらい勤めました。その後、父親が病気になりました。その父が会社をやっていたのですが、会社の経営がどうにもなりません。十数名の会社でしたが、社員に給料を払わないと生活が成り立たないから、どうしてもやってくれということで、仕事を途中で放擲して、いまの会社[日本医学広告社、1957年設立]を引き継いでやることになりました。学校の教師は、乞食と同じで、3日やったら辞められない商売でして、大学の先生は大変だろうけど、いうなれば、中高の先生は善意を売っていれば、根底的には成り立つ商売だと、私は思っているんです。

【後書き】
佐藤直助先生については、以下の訪問記がある。武市英雄「名誉教授訪問記 佐藤直助先生」『ソフィア』29-4、1981年、99-100ページ。なお業績一覧は、『上智史學』22、1977年(http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handle/123456789/10270

フランツ・ボッシュ師については、以下参照。
 http://sophia100.jp/100/12_omoide/bu09.html

長寿吉先生については、以下参照。
 長博士還暦記念論文集刊行會編輯『政治と思想:西洋史論叢長寿吉博士還暦記念』冨山房、1941年。
 肖像画については、http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/art/post_5.php

青山公亮先生については、以下参照。
  「青山公亮先生の思い出」編集委員会編『青山公亮先生の思い出』、1981年。
 松崎つね子「青山公亮先生を悼んで〔含 略歴と著作〕」『駿台史学』52、1981,pp.107-110.

白鳥芳郎先生については、以下参照。
 白鳥芳郎教授古希記念論叢刊行会編『アジア諸民族の歴史と文化:白鳥芳郎教授古希記念論叢』六興出版、1990年。

久保田恭平氏(ご存知の方からの情報を求めてます)には以下の論文があるようだ。
 「シャトル聖パウロ修道女会(函館)の育児事業について」
 http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_06-01/shishi_06-01-04-01-03.htm

 なお、文中の写真や[]内の記述は、ほとんどすべて豊田がウィキペディア等から勝手に拾ってきたもので、責任は豊田にあることを明記しておきます。

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「上智大学史学会第50回記念大会を祝して」(2000年11月)

上智大学史学会の記念冊子を掲載してます。
名誉教授の諸先生が初期の史学科についてお書きになってます。
表紙を左クリックしてご覧ください。

なお特に西洋史学の、明治草創期から50年間のお歴々については、以下の著作もご参照ください。本学関係者も登場してます。
土肥恒之『西洋史学の先駆者たち』中公叢書、2012年6月。

表紙

後書き11-12

09-10

07-08

05-06

03-04

01-02

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上智大学史学会大会写真集

1958(昭和33)年 第8回上智大学史学会大会写真

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写真説明(人名同定は上智大学教員関係に限定します)

前列左から、 松本馨(国際政治史)
佐藤直助(日本近世史)
長寿吉(西洋史)
ヨハネス・ラウレス SJ(キリシタン史)
寺田四郎(法学部長・当時)
吉村茂樹(日本中世史)
白鳥芳郎(東洋文化人類学)
橋口倫介(西洋中世史)
中列左から5人目 中井晶夫(当時・高校教員)
右から3人目 鈴木宣明 SJ(当時・神学生)

(橋口倫介「上智大学史学会大会四十周年の回顧」『上智史学』第35号、1990年、13ページより転載)

1965(昭和40)年 第15回上智大学史学会大会写真

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  • 2 栗原益男(東洋古代史)
  • 3 佐藤直助(日本近世史)
  • 5 中井晶夫(講演者・西洋現代史)
  • 6 大久保利謙(講演者・立教大学・日本近代史)
  • 7 吉村茂樹(日本中世史)
  • 8 白鳥芳郎(東洋文化人類学)
  • 9 橋口倫介(西洋中世史)
  • 10 アルカディオ・シュワーデ SJ(キリシタン史)
  • 23 青山英夫(当時・学部4年生)
  • 29 朝倉文市(西洋中世史)

1971(昭和46)年 第21回上智大学史学会大会写真

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  • 1 三浦一郎(西洋古代史)
  • 2 佐藤直助(日本近世史)
  • 3 八幡一郎(考古学)
  • 4 井上光貞(日本古代史・東京大学:講演者)
  • 5 吉村茂樹(日本中世史)
  • 6 白鳥芳郎(東洋文化人類学)
  • 7 栗原益男(東洋古代史)
  • 8 橋口倫介(西洋中世史)
  • 12 青山英夫(昭和41卒業:当時・横浜雙葉学園教員)
  • 13 磯見辰典(西洋近世史)
  • 14 尾原 悟 SJ(キリシタン史)
  • 15 量 博満(東洋考古学)
  • 19 鈴木宣明 SJ(西洋中世史)
  • 20 ハンス・ブライテンシュタイン SJ(西洋近現代史)
  • 22 平田耿二(日本古代史)
  • 24 中井晶夫(西洋現代史)
  • 26 中塚発夫(東洋古代史)

1990(平成2)年 第40回上智大学史学会大会

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前列 左2人目から 鈴木宣明 SJ、磯見辰典、橋口倫介、江上波夫、H・ブライテンシュタイン SJ、白鳥芳郎、中井晶夫、藤村道生、尾原悟 SJ
2列目 左から 大澤正昭、一人おいて平田耿二、青柳洋治
3列目 左から 佐々木英夫
4列目 左2人目 青山英夫、右2人目から:山内弘一、豊田浩志

【コメント】上智大学が男女共学になったのは、1958(昭和33)年のことだった。学年の男女比がえてして女性上位な昨今とは文字通り昔日の感がある。なお、SJとはイエズス会(ラテン語:Societas Iesu, 英語:Society of Jesus)所属修道士を示す。人物同定は、青山名誉教授を煩わせた。(豊田記)

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上智大学史学会・『上智史學』について

 上智大学史学科は1942年の創立です。上智大学史学会は史学科と連動して活動する専門学術学会として、戦後まもなくの1951年に誕生しました。そして機関誌『上智史學』創刊号が発刊されたのは1956年のことでした。

 本年度で史学会大会は65回、『上智史學』は60号を数えます。そして『上智史學』の掲載論文・記事はほぼすべてSophia-R(上智大学学術情報リポジトリ)で読むことができますが、ここでは初期の学会・学科の息吹を伝える資料として以下を紹介しておきます。

 豊田浩志「『上智史學』創刊五十号に寄せて(PDF)」『上智史學』第50号、2005年

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シンポジウム:女子学生と上智大学

上智大学は1957年以前は男子校でした。以来半世紀以上を経て、学生数でも男女均衡、女子卒業生の活躍は華々しいものがあります。その足跡をたどった座談会を、Sophia-R (上智大学学術情報リポジトリ)で読むことができます。

   「シンポジウム:女子学生と上智大学 (<特集>花の女子学生50年)(PDF)」
      季刊誌『ソフィア』55/4、2006年冬季

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