専攻主任からのメッセージ
研究するということ
フランス文学を研究するというのは、どういうことでしょうか? 研究の対象が何であれ、それはまず、フランス語で書かれたテクストを読解していくことだということに異論の余地はないでしょう。では、テクストを読解していくとはどういうことであり、わたしたちはそこで何を身につけるのでしょうか?
研究という行為をとおして学ぶとても大切なことは、注意深く待つということです。作家が書いたテクストを前にして、わたしたちはその一言一句に耳を傾け、それらが発している声を聞き取ろうとします。しかしその声を正確に聞き取るのは簡単な作業ではありません。言葉は多くのニュアンスを帯び、ときには時代や社会といったフィルターがかかっているからです。一方で、テクストを前にしてわからないという状態もまた、あまり居心地のいいものではありません。そんなときしばしば起こることは、わからないという不安を解消するため、まだ十分に輪郭があらわれていない考えにとびついたり、安易な思い込みにまかせて、はやばやと「理解」してしまおうとすることです。待つことができないということは、テクストの間違った読解にわたしたちを導き、わたしたちが本当の声へ向かう道をふさいでしまいます。すべての誤解は、急ぎ過ぎたことから生まれると言ってもいいでしょう。研究はつまり、わからないという不安に耐え、思い込みを排し、忍耐強くテクストの声を聞き取り、本当の声に近づこうとする力を養うことだといえます。そしてまた、間違えてしまったなら、自分はどこで間違えたかを考える勇気を身につけるということでもあります。間違いにはいつも不安や思い込みが潜んでいることを教えてくれるのも研究です。
シモーヌ・ヴェイユ(1909−1943)という哲学者は、学校で学ぶすべての勉強の目的は注意力を養うことだと述べたあとで「注意深くあろうとする努力が、たとえ何年もの間不毛なままであったとしても、ある日、この努力に正確に釣り合ったひとつの光が魂に満ちあふれることだろう。注意深くあろうとしたひとつひとつの努力は、この世界のいかなるものも奪いえない宝に、またほんのすこしの黄金を付け加えることになる」と述べています(「神への愛のために学校の勉強をどう用いるかについての考察」『神を待ち望む』所収)。
さまざまなテクストを前にしながら、わたしたち教員と院生はいつもこの「注意深くあろうとする努力」を続け、テクストの声を正確に聞き取る力、待つ力を身につけようとしています。
フランス文学専攻主任 小倉博孝