チョコレートとアイデンティティー

堀内 美沙子

 ベルギーを選んだのには、理由がありました。それは私のあまのじゃくな性格のせいです。みんなフランスを留学先に選ぶだろう—–人と違うことがしてみたくなってしまう性分の私はそう思ってベルギーを留学先に選びました。しかし上智から選ばれたのは私一人。いざ決まってみると、頼れる人が少ない分心細さもなかなかのものでした。ベルギーに到着した瞬間、自分の住む場所まで無事辿り着けるのか、という不安に始まり、寮の鍵の受け取り方、銀行口座の開き方、病気になったらどうしよう、友達はちゃんとできるのか——様々な不安を胸に私は、大学の最寄り駅のホームに降りて、スーツ片手に地上に続く長い階段を呆然と目の前にしていました。その時、一人のベルギー人の青年が「持ってあげるよ!」と言って私の荷物を上まで運んでくれたのです。自分も思い荷物を持っているにもかかわらず。それが私にとってのベルギーの第一印象でした。「私でも、なんとかやっていけるかもしれない。」そう思った瞬間でした。
私の住んでいるルーヴァン・ラ・ヌーヴを訪れた友人は口を揃えて、不思議な街、変わった場所、と言います。この街は、ベルギーのフランス語圏に位置する、大学のために作られた人工都市です。大きさは東京都の約240分の1、人口の約半分は学生、必要なものは全て徒歩10分圏内に収まっているこの街は、たしかに変わっているかもしれません。
それでも、私はこの街と人が好きです。ベルギーは本当に優しい人ばかりで、色々なところで私を助けてくれます。もともとそこまでアクティブな性格ではないのですが、留学は受け身になったら負け、という言葉を何度も聞いていたので、様々なアクティビティにも積極的に参加するようにしていました。周りが現地の学生ばかりの授業では、「わからないことある?」「大丈夫?」と声をかけてくれる生徒もいました。失敗することはやはり今でも怖いですが、周りの人々に支えられてきたおかげで、一学期を穏やかに終えることができました。
そして、特筆すべきはやはりベルギーの食文化です。定番のワッフルやチョコレートはもちろん、牛肉とたまねぎをビールで煮つめて作る伝統料理のカルボナードや、独特の二度揚げ製法で知られるフリット(いわゆるフライドポテト)は日本では味わえないまさに絶品の料理です。フランスではパン屋を目にする機会が多かったのですが、ベルギーではあまり見かけません。その代わりなのでしょうか、街中にワッフルの店がいたるところに立ち並んでいます。観光客向けのものかと思ったところに、現地の人も日常的に食べているので驚きました。街ではワッフル片手に授業に向かう生徒もよく見かけますし、ワッフルメーカーがあるという家庭も多いようです。私に関して言えば、私のチョコレート好きはすさまじく、「ミサコは本当にいつもチョコレートを食べているね!」とベルギー人の友人にも笑われるほどです。こうして、私はベルギーを文字通り“独り占め”する毎日を過ごしています。

ブリュッセルに軒を連ねるワッフル屋さん。ワッフルはベルギーfierté(誇り)の一つだろう。

ブリュッセルに軒を連ねるワッフル屋さん。ワッフルはベルギーfierté(誇り)の一つだろう。

曇りの日が多いベルギー。湖も人工的に作られたもので、背景に見える建設現場とのコントラストが不思議な印象を与える。

曇りの日が多いベルギー。湖も人工的に作られたもので、背景に見える建設現場とのコントラストが不思議な印象を与える。

アイデンティティってなに?
よく耳にする言葉だと思います。皆さんは自分のアイデンティティについて立ち止まってしっかり考えたことはありますか?アイデンティティとは、その人を唯一無二のものにして他と区別するものを指したり、「他とは違う」という感情そのもののことを指したりします。そしてアイデンティティは自分の思考に大き な影響を与えます。絵画を見てきれい、とか素晴らしい、という感情が生まれることはよくあることだと思いますが、それにも個人のアイデンティティが大きく 関係しています。一般的にヨーロッパの美に関する意識はギリシャ・ローマ時代にさかのぼると言われています。
正直、私は留学に行くまでの 20年間、自分のアイデンティティについて考えた事はほとんどありませんでした。その理由は、日本は島国であるため、日常的に異文化交流を行うことは稀で あり、“違い”について考える機会が少なかったからだと思います。こちらの大学でヨーロッパのアイデンティティについての授業を受けており、レポートを書 く際に友人の意見を聞く機会もあって、それをきっかけに自分のアイデンティティとは何かについて考えるようになりました。

 私のアイデンティティ
私は、自分のアイデンティティは日本で生まれ育って来たことと大きく関係があると思います。ヨーロッパは行動様式から食べ物、街の建物に至るまで、すべて日 本のそれとは大きく異なるものです。私が手を合わせて「いただきます」と言う時、靴を脱いで部屋に入る時、共同のキッチンで日本の食材(例えば納豆)を食べている時、彼らは少し不思議そうな目で私を見ます。私はその時、「あ、今私すごく日本人だ」と感じるのです。ヨーロッパでは基本的に「いただきます」は 言いません。(よくBon appétit! というふうに訳されますが、私は的確な訳はないと思っています)靴も履いたまま部屋に入ります。そしてヨーロッパにおける日本食のイメージは圧倒的にスシです。驚くべきことに、「日本では毎日何を食べていたの?スシ?」と真剣に聞かれたことが何回かあります。このように、私たちの「普通」はヨーロッパにおける「 特別」であり、それを認識した瞬間に日本人としてのアイデンティティを強く感じます。
周りに日本の文化に一致するものが極めて少ないという状況は、私に時々疲れを感じさせます。そんな時ふと恋しくなるのは、日本にいる時あれほどうんざりしていた東京の喧騒や、コンクリートでできたビル群、さらには駅のホームで流れる電車の発車メロディまで恋しくなってしまうので、不思議なものです。
ここで私が言おうとすることは、自分を作るものは、そこから離れてみないと案外気づけないものであるということです。日本にいる時には近すぎて見えなかったけれど、日本を離れてから気づく諸外国との違い、ふとした時にノスタルジーを感じさせるようなもの、それが私を作っているものなのだと思います。
ベルギーは、フランス語の他にオランダ語、ドイツ語も公用語とする多言語国家です。ベルギーのフランス語の中には彼ら独自の語彙もあり、フランスのフランス語とは異なります。そして彼らはその違いを誇りに思っているように思えます。ベルギーのユニークさは、島国であるがゆえに独自に栄えて来た日本のアイデン ティティに通じるものがあると感じます。

上からフランス語、オランダ語、ドイツ語、英語で「電車が停車するまでドアを開けないでください。」多言語国家ならではの電車の注意書き。

上からフランス語、オランダ語、ドイツ語、英語で「電車が停車するまでドアを開けないでください。」多言語国家ならではの電車の注意書き。

留学で経験することは全てが学習であり、その学習は新しい自分の形成につながります。私は今大好きな村上春樹の本をフランス語翻訳で読むことに挑戦しています。しかし、日本で育って来た私とベルギーにバックグラウンドを持つ人とでは、読んで見えてくる世界は異なるものでしょう。さて、留学生活の半分が終わりましたが、ベルギーは私のアイデンティティの一部になっているでしょうか。そして帰国後、日本でチョコレートを食べた時に、私はベルギーのことを思うのでしょうか。
(2018年1月25日)

この文の筆者堀内さんは、Louvain大学とLille第3大学の語学学校共催のブログ・コンクールの「挿絵入り描写」部門で2018年度一位を獲得しました。
受賞した文章(フランス語)はこちらで読めます。