活動記録

9月16日書評シンポジウムの参加報告記②

立教大学ほか兼任講師 橋本みゆき先生による書評シンポジウム参加報告記です。
2016.09.26

参加報告

 橋本みゆき

 書評対象文献の著者である李洪章(敬称略。以下同じ)とは、以前李がユニット代表を務めていた共同研究に参加したことがあって、同書第3章のもとになったインタビューに同行したり、同じデータで書いた当時の拙稿が今回いくぶん批判的に参照されていたりすることから、今般のシンポジウムには、仲間の船出を祝うような好敵手の出方を探るような、少なからぬ関心をもって参加した。(なお当該共同研究の成果は、後に『コリアン・ディアスポラと東アジア社会』(京都大学学術出版会、2013年)に加筆修正を経て出版されている。)

 書評「シンポジウム」というだけあって、同書の内容検討にはとどまらない、広範にわたる議論が展開された。各コメンテーターからは、社会学の在日コリアン研究への同書の位置づけ(柏崎報告)、ネイションあるいはstatelessという観点からの同書への問いかけ(李里花報告)、異なる学問領域=歴史学からの同書解読作業(外村報告)がなされた。著者リプライの後、参加者による自由なまたは指名を受けて多方向から発言が続いた。シンポジウム全体を通して、「盛りだくさん」(同書が取り組んだ複数側面を指す柏崎の言葉。同書のこうした特徴を反映するかのような質疑があった)な論点が出され、焦点が絞られた討論というよりは、著者の問題提起に対する再投げかけが生産的に繰り広げられていた。

 以下では「歴史」ないし「歴史性」について若干考えめぐらせたメモである。「歴史」は、このシンポジウムのテーマの一部を成していることに加え、李が拙著について、若い世代にとっての「歴史性の重要さ」の軽視を問題として指摘しているからだ。私としては反論を展開したいところであるがそれは別の機会に回し、ではその重要さを李はどのように書き、それがどう受け止められたかを書き留めるが、それは私も大いに関心ある論点であるからだ。なお私は本書を1度は通読したものの読み落としがあるかもしれず、今後再読するつもりでいること、さらに当日の記憶違いがあるかもしれないことを申し添えておく。

 さて歴史に関連して、各コメンテーターがそれぞれの専門領域から言及したポイントは、いずれも興味深かった。たとえば外村によれば、歴史学では「○世」という言い方をせずに「○は×年生まれで△のとき何歳だった」と表現するという。社会学のエスニシティ研究や在日思想史では半ば自然視されてきた世代概念なので意表を突かれたが、確かにそうだ。移住世代に注目して歴史を考えることの意味・意義は何だろう。

 柏崎は、李の言う共通点としての「歴史性」に、一歩踏み込んで問いかけた。実践の多様性を描くなら、歴史観も多様であっていいのではないか? この問いへの直接的な答えではなかったかもしれないが、李は「“植民地主義の克服”と言っておけば議論が成立するかのような在日朝鮮人団体の風潮」を挙げ、それへの問題提起という実践的関心を明かした。言葉を換えて言うと、“加害‐被害”図式の“(過去の)被害”という位置に身を置くことで見えにくくなった(現在の)現実を照射するということか。しかしそれが他の固定的歴史観に依っている、というのが柏崎の指摘であるかと思う。多様な歴史観を内包する共同性とは、面白そうな検討課題である。また李里花はこう投げかけた。「現在の生きづらさ」と「民族」は、どう結びつくのか? 「民族」を「民族の歴史」と読み替えてみると、柏崎の問いかけと重なるように思われる。

 過去と現在、加害と被害、共同体と個人、渡日世代と次の世代とさらに次の世代、また在日朝鮮人とその同時代者。現実生活ではどうつながりあい、どのような区別や対話が必要・可能なのか。また研究としては何を明らかにするためにどの概念を使うのか。在日韓国・朝鮮人のエスニシティ研究がこれから活性化することを期待せずにはいられない、知的な刺激を受ける4時間であった。

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