第45号ダイジェスト版 2001/3/15発行

健康で、元気に長生き 岩村真理
われら社会人―お元気ですか
シリーズ 定年後新たなる第二の人生 
のんびり老後はお預け 競馬担当記者からJRAへ

小糸忠吾・元新聞学科教授

健康で、元気に長生き 岩村真理 
 生きがいを持ちながら、健康で元気に長生きし、家族に見守られながら長寿を全うする。誰もがそう願っているに違いない。とは言え、たいていの人は現実とのギャップに戸惑い悩むことだろう。とりわけ、私のような「熟年世代」ともなると、否が応でも健康が気にかかる。
 気に掛かるのは山々だけれど、「健康診断」もつい面倒くさく、忙しさにかまけて先送りする。そんな私に昨年、健康診断書の提出が求められた。
 三度目の転職がきっかけであった。それまでは、重厚長大産業そのもの、発電機や各種産業機器を輸入・製造・販売している外資系企業に勤めていたが、昨今の産業構造の急激な変化により、転職を余儀なくされた。

 ゲノム創薬企業
 現在の会社は、スイス系ヘルスケア企業の大手で、図らずも、自分の健康と向き合う機会がもたらされたわけである。医療用医薬品を中心に、売上げ世界五位、日本十位(一九九九年度)のノバルティスファーマは、「移植・免疫領域」「悪性腫瘍領域」「循環器・代謝・内分泌疾患領域」「中枢神経領域」「眼科領域」の各分野で、研究・開発・製造・販売・輸出入を行っている。
  医薬品業界は、熾烈な企業競争の真っ只中にあるが、将来の医療分野に革命を起こすと期待される遺伝子研究(ゲノミックス)が脚光を浴びている。先進国の多くは高齢化社会を迎え、冒頭の「健康で元気に長生き」が求められており、各社とも創薬にしのぎを削っている。弊社も、世界七か所に主要研究所があり、革新的医薬品の開発と市場導入を目指している。
 
 長寿の秘訣
病気や健康に関わる言葉に囲まれて過ごす毎日であるが、年を取れば誰しも、悪いところのひとつやふたつ抱えるのが当たり前。、それほど悲観したものではないかもしれない。大部分は老化現象と生活習慣があいまって、悪化すると思われる。時間を止められないのだから、老化も致し方ないが、少なくとも悪い生活習慣は改善しなければならない。
 先頃フランスと日本のノバルティスで、五世代家族を募集した。日本では、昨年七月から十二月の半年間で、五百五十件の応募があり、書類等で確認した結果、三百七十八件の五世代家族が確認された。第一世代の平均年齢は九十五歳。玄孫との年齢的開きは百歳におよぶ人も珍しくない。
 長生きのこつを探ってみると、性格的には前向きで楽天的、穏やかで他人を思いやる。食事は好き嫌いなく何でもおいしく食べるが、常に腹八分目。朝は早起きで朝食はしっかり食べる。こまめに働き、体を動かすことをいとわず、好奇心も旺盛。周りには常に気にかけてくれる家族の誰かがいて、玄孫とも交流がある。地方では、水も空気もよく、隣近所や地域社会との交流も深く、穏やかな時間の流れとともに生活している人が多い。 彼らから学ぶことはたくさんあり、全国様々な五世代家族の健康と元気の素を盛り込んだ写真集の出版を予定している。

 都会人の健康
 都会に住む現代人にとって、生活環境は悪く、仕事のストレスも大きく、健康で長生きには不利な条件が揃っている。よほど心して気をつけないと「後悔先に立たず」だ。企業検診や人間ドックで、「ガンの早期発見」と「動脈硬化を促進する要素の発見」を行い、「死の四重奏」といわれる高脂血症(血液中のコレステロールや中性脂肪が高い)、高血圧、糖尿病、肥満を抑えて行かなければならない。それには産業医やかかりつけ医とのコミュニケーションをよくして、自分に合った薬を処方してもらい、生活改善に心掛けるべきであろう。
 最後に、「諸悪の根源」、たばこを止めたいと思っている方に、「ニコチネル」をお勧めしたい。医家向け医薬品なので、医者に処方してもらう薬だが、無理なくたばこを止められると言われている。ニコチンパッチなるものを肌に直に貼り、皮膚からニコチンを吸収させるので、禁断症状に苦しむことなく、たばこをやめられるので、ぜひ健康のために試してみては。
 (昭和51年大学院博士前期課程修了、ノバルティスファーマ株式会社、広報グループ マネジャー)

 野田 実 先生 ご退任
 大学院で二十年近く「マス・コミュニケーション調査特講」を担当されていた野田講師が本年度をもって定年退任された。野田先生は統計学がご専門で、一九八二年以来大学院で留学生をはじめとして多くの学生に調査、統計を教えられた。
韓国からの訪問
 大学院博士課程新聞学専攻には世界各地から多くの留学生が学んでおり、卒業後日本で、母国でそして世界各地で活躍している。戦中、戦後にも数多くの留学生がいたが、いわば第二世代の活躍も目覚しい。そうしたうちの一人である韓国京畿大学の李虎栄・講師(H10院)が昨年九月、約三十名の学生を引率して、母校を訪れた。
 図書館や構内を見学後、TVセンターを訪問し、金山勉講師から説明を受けた後、鈴木雄雅教授から、「日本のマス・メディアと大衆文化」についてレクチャーがあり、熱心な質問が相次いだ。その後、場所を移動し、現役留学生を交えての懇親会が開かれた。

▼全英美さん(院前期H2)翻訳『心を開けば人生が楽しい』(長谷川洋三著、ソウル・グリーンハウス、二〇〇〇年)

われら社会人―お元気ですか

「林檎妊娠もニュース」の時代  吉田忠展

 夜討ち朝駆けに追われた政治部から、文化部に移ってもうすぐ二年。通信社文化部の仕事内容をよく聞かれるが、地方紙の家庭、文芸、芸能面に載るような記事を書いていると言ってほぼ間違いない。
 守備範囲は「食と健康」ということになっているが、最近は、猫も杓子も健康志向。その先にあるものを探し当て、光を当てなければと思いつつ、現実は、半ばパターン化した話題モノ取材にも追われている。
 そんなある日、人気シンガー・ソングライターの椎名林檎が妊娠五カ月であることをホームページで報告したという話が飛び込んだ。私がニュースチェックの当番だった一月二十九日のことだ。
 私の第一印象はボツ。通信社が配信する話じゃない、出産とか結婚ならまだしも、一シンガーの妊娠などワイドショーに任せとけばいい、ととっさに思った。
 そして、「こんな話、要らないですよね」と言って、忙しそうにしていた芸能班キャップに相談。すると意外にも「要るよ。要る要る」という反応が返ってきた。しばらく社内にいた部員の間で「タレントの妊娠なんてニュースじゃない」という声と、「一応出しておこう」という意見が錯綜したが、結局、ごく短く書くことに。
 結果は、キャップの判断が正解。翌日の朝刊は、朝日、毎日、読売の三大紙もしっかり顔写真付きで報道していた。
 彼女のキャラクター性が、ニュース価値を高めた。電子媒体の氾濫でいわゆる軟派記事が歓迎されているという時代の流れもある。
 妊娠報告をキャッチした時点で、すぐに「絶対必要なニュースだ」と思わないまでも、「ひょっとしてなんでもありのご時世。どこかに書かない見識みたいなものがあってもいいとも思うが、今回は、子作りまでも創作活動になぞらえて面白いかも」ぐらいに反応できなかった鈍感さを反省した。
 一昔前ならボツになったろう 話も時にはびっくりするほど大ニュースになる。それを嗅ぎ分ける感覚は常に磨いておかなければいけない。記者という仕事の難しさを感じる日々だ。
(平成4年卒・時事通信文化部)

顔出しリポートにこだわる  猪谷朋代

 NHKのヨーロッパ総局(ロンドン)に赴任する前、「特派員は顔出しでリポートするのが原則」と先輩や上司に言われた。理由は「その方が説得力があるから。」声だけでリポートすると「本当に海外で取材しているのか、視聴者が疑問に思う」とも。
 言われた通り、ロンドンに赴任した九八年夏から、ニュースで放送したリポートはすべて顔を出して行った。その中でも特に多く取り上げた北アイルランド和平問題については、国内で紛争の火種を抱えている唯一の先進国、イギリスが、なぜ、未だにこの問題を解決できないのか興味深く、頻繁にベルファストまで取材に行った。
 北アイルランド和平交渉の行方は、イギリスにとっては大きなニュースで、連日、大勢のマスコミが会議場に押し寄せていた。そこで多くの記者やリポーターと知り合いになったが、ほとんどの人が、四十代、五十代前半のベテラン。NHKで言えば、内勤の管理職クラスに当たる。こうした白髪交じりの記者たちが、交渉担当の閣僚らが部屋から出てくるのを待っている光景は、日本ではまず見られない。
 逆に、彼らも、私が現場でリポートしている姿に違和感を覚えたらしい。国籍の次に聞かれるのが、決まって「記者歴は何年か」なのである。北アイルランド問題のような大きな政治ニュースを取り上げる場合、私のような三十代前半の記者は、テレビに出ることはなく、現場でベテラン記者をサポートする他、情報収集と人脈作りに徹するのが一般的だと分かった。現場へ足を運ぶ回数が増えるにつれ、少しでも年齢が上に見られるよう、化粧や黒のスーツでいくらかごまかそうとする自分がいた。
 欧米のテレビは、若手をニュース番組のメインキャスターとして起用することはまずない。これは現場の記者も同じで、ニュースバリューが高ければ高いほど、その分野で経験豊富な人がリポートする。BBC放送のベテラン記者のリポートは、内容もさることながら、画面でも大きな説得力を持っていた。聞いたこと見たことすべてが、自然と頭に残るのである。
テレビの記者として当然、心得ているつもりでも、「経験の積み重ね」が、一種のオーラのように画面から伝わってくるBBCの政治ニュースを見ていると、自分のリポートはあまり伝わっていなかったのでは、と思わざるを得ない。
去年 、結婚を機に東京に戻り、リポートする機会こそ減ったが、日ごろの取材の積み重ねを大事にしないといけないと思う。

 (平成4年大学院博士前期修了・NHK報道局スポーツ報道センター)

 シリーズ 定年後 新たなる第二の人生 
のんびり老後はお預け 競馬担当記者からJRAへ

「競馬に興味はありますか」
 のっけからギャンブルの話で申し訳ないが、多少の興味があれば、私の近況の理解度が増すというものだ。
 それにしても、あまりの仕事の変わり様に自分でも時々苦笑する。定年後の再就職は、普通自分の得意分野で、あまり時間に縛られないところが理想。それが畑違いの分野に入り込んだものだから、おかしなものだ。
 一九九九年二月、三十八年勤めた共同通信社を定年退職した。現役時代の大半はスポーツ記者。プロ野球、ゴルフ、陸上などを担当して、海外でもマスターズゴルフやオリンピックなども取材した。
 定年後、就職したのが、JRA(中央競馬会)の関連会社「中央競馬PRセンター」で、常勤嘱託に。たまたま共同時代に、二年程競馬担当記者をした関係から話があり、その年の八月から勤め出した。
 
 厄介な苦情、クレーム
 ところが、自分が描いていた勤
務と実際とはだいぶ違う。時間に厳しい、いわゆるサラリーマン生活が始まったのだ。
 朝七時起床。小平の自宅から約一時間十分程かかって九時過ぎに新橋の会社に着く。そんな時刻は早くない、という声が聞こえそうだが、長年マスコミで比較的自由な時間に慣れてきた身には結構こたえる。拘束は夕方五時半まで判で押したような日が週五日続く。
 仕事は、一般ファンからの電話による様々な問い合わせに答えるのが第一。そして「広報コーナー」という図書室風の所でファンが望む資料を提供したり、場合によっては競馬関係書籍等の販売もする。
 主要な仕事はいってみれば新聞社の「読者相談室」。日程や成績の問い合わせから、複雑な血ことまである。ファンは結構マニアックな人が多いから、重箱の隅を突っついたような質問に出くわすとお手上げになる。
 一番厄介なのは苦情、クレームだ。例えば当たり馬券の有効期限
は六十日で、それが一日オーバーしても無効になる。
 「おれは知らなかった。確か一年じゃなかったか」。
 「お客さん、それはもう平成四年に法律改正があって、変わっています。馬券にも書いてあるし、ほかの競艇、競輪でも同じです」。それでも、何とかならないかと粘られるが、こればかりはどうしようもない。最後は納得してもらうが、けんか腰の人もいる。
 
 武ファンの無理難題
 九九年最後のレース、有馬記念。武豊騎乗のスペシャルウイークと的場騎乗のグラスワンダーが、ほとんど同時にゴールに雪崩れ込んんだ。片手を上げ、「勝ったぞ」とアピールする武。ところが写真判定の結果、グラスワンダーの勝ちとなったが、その差はわずか四センチという際どいものだった。
 翌日、武ファンの中年女性から、長々と抗議の電話を受けた。
 「あれはスペシャルが勝っている」。
 「いや、写真ではっきりしていますね」
 といっても納得してくれない。最後はあの優勝は武に譲るべきですよ、という酷い話になってしまった。この間約十分。私の口のきき方がいかんと怒る人もいた。あまりの愚問にちょっと失笑したのがいけなかった。
 記者時代は、知った相手にこちらから電話する方法が多かった。今度は不特定多数、しかも年齢も顔も分からない相手から一方的に受けるだけ。これは果たして続けられるだろうか、と心配になった。しかし、同じことをしている先輩二人も初めは苦労したんだ。おれにやってやれないことはない、と慣れを待った。そして、夜十一時には寝て、翌日に備えることにした。深夜TV番組も残念ながら禁止。新聞もじっくり読まなくなったし、世間の動きにも鈍感になった。非常に限定された競馬の世界に没頭しなければならないからだ。

 のんびり老後はお預け
 一年半が経ったいま、だいぶ慣れて、第二の人生を楽しむ余裕が出てきた。それでも時には相手の言い方にムッとしたり、頭に血が上ることもある。そういう時のストレス解消は同僚に話し、痛みを分かち合った後、忘れることだ。
 逆に簡単な答えでも、「ありがとうございました」といわれるとこちらの心も和む。礼儀がいかに大切か。競馬は一年を通してある。G1が続く秋が一番忙しく、途切れなく受話器を握る時もある。大まかな感じだが、八割五分が良識派、残りが「爆弾」をぶつける人たちとも言える。
 電話番は、私とほぼ同世代の男性三人が担当。販売などのスタッフは親子ほど年齢が違う若い女性三人でこなす。いずれも経験豊富な同僚に教えられての毎日だ。
 最後に、共同時代は不規則勤務で、そして今は規則的すぎて、いずれも女房に苦労を掛けている。
「老後を二人でのんびり」はもう少しお預けである。          (昭和37年新聞学科卒業)