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卒業生の声

史学科での貴重な学び

2008年度卒業 梅本郁乃(都内公立小学校教諭)
教室にて:1日の見通しを持たせるため、ホワイトボードに予定を書いています。 写真は講師を招いてのパン作りが行われた日に、子どもに撮ってもらいました。

教室にて:1日の見通しを持たせるため、ホワイトボードに予定を書いています。
写真は講師を招いてのパン作りが行われた日に、子どもに撮ってもらいました。

2005年、「いつか先生になりたい」という漠然とした思いと、「美術史を学びたい」という希望を胸に、私は上智大学文学部史学科に入学しました。

 古代日本の美術を学びたかった私は、当時大学にいらしたばかりの北條先生のゼミに入りました。今はわかりませんが、当時「北條ゼミは厳しい」というもっぱらの評判でした。理由は所属する学生が輪番でプレゼンを行うことになっていたからです。
プレゼミでは研究を進めていく上で目を通しておきたい書物についてまとめ、ゼミでは古代の日本の様子や思想が著されているとされる史料(私の時は『日本霊異記』)の該当箇所について、先行研究を読み、史料について調べました。
期日ギリギリまで行動を開始しない私は、プレゼンの日が近付くと図書館に缶詰めになり、泣きそうな心持で文献を読み漁るという作業を繰り返していました。でもそんな私の拙い報告や卒論でも、優しい北條先生やゼミの先輩後輩、友人達は温かく受け入れて下さり、とても居心地がよかったことを覚えています。

 私は大学在学中に中学校社会科と高校地理歴史科の教員免許、学芸員資格を取得しました。大学卒業後、学内の教職課程の掲示板でたまたま知った、都内公立小学校の学習支援ボランティアに採用して頂き、同じ小学校に3年間勤務しました。その時「小学校の先生」という職業に魅力を感じ、小学校免許取得と採用試験受験を決意しました。ボランティアの傍ら、他大学の通信課程で小学校免許を取得、2012年から都内の公立小学校で特別支援学級の担任をしています。元気な子ども達や素晴らしい先生方に囲まれて、毎日忙しいながらも充実した日々を送っています。

 私が普段相手にしている特別支援学級に在籍する子ども達は、近年映画監督のスピルバーグ氏のニュースなどで有名になった「発達障がい」というものを抱えて生活しています。
自閉症やAD/HDなど、障がい名は多岐にわたるのですが、概ね共通する障がい特性の一つに「目に見えないものを想像することが苦手」ということが挙げられます。過去や未来、また今までに経験したことがない未知のものなど、見通しが持てないものに強い不安を持ったりすることがあります。また会話や表情などから人の気持ちが読み取ることが難しく、対人関係上のトラブルを招きやすい、という特徴があります。

発達障がいを抱えたお子さんは「今」「現在」の学校生活、社会を生きる術を身につけるのが先決。そのため、通常学級では6年生の社会科で歴史的分野についての学習が始まりますが、私の学校の特別支援学級では歴史の授業を行っていません。私は一見歴史学とは対極の仕事をしているのですが、普段の授業や学校生活の中で「目に見えるものを手がかりに、見えないものについて考える」ことを教えている点で、歴史学と無関係ではないと思っています。昔の道具に実際に触らせて昭和の時代について少しだけ考えさせてみたり、「ごんぎつね」を読んで、主人公ごんの行動からその時の気持ちを考えさせてみたり。
他にも調べ学習ではサイトの記事や本を丸写しにするのではなく、複数のソースを使い、多角的に物事を考えさせるなど、日頃の授業に史学科で得たものを盛り込んでいこうと奮闘しています。
私自身についても、子どもへの様々な支援方法を複数の文献から考えたり、子ども達にわかりやすい授業を提供するために問題意識を持って生活したりと、史学科で学んだ姿勢が今の生活に役立っていると感じています。

一見歴史学と関係ない職業に就いても、史学科で学んだことは必ずどこかで役立ちます。4年間でたくさんのことを学ぶことができた史学科に感謝するとともに、今後史学科で学ぶ皆さんが、学生生活の中で将来に役立つものを得られるよう、お祈りしています。

大学3年生時のゼミ旅行。えさし藤原の郷にて。中央が筆者、右端が北條先生です。

大学3年生時のゼミ旅行。えさし藤原の郷にて。中央が筆者、右端が北條先生です。

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受験生の皆様へ

2008年度卒業生 小野瀬聡美(医療情報系事務)
ゼミ仲間と(筆者は右から三人目)

ゼミ仲間と(筆者は右から三人目)

大学で史学科を専攻する動機は様々かと思われますが、多くはおそらく私のように、高校で学んだ歴史の授業がきっかけではないでしょうか。しかしながら、高校の授業のイメージを持ったまま入ると、少し想像していたことと違うな、と思うかもしれません。というのも、高校ではただ教科書の内容をそのまま受け入れ、覚えていくだけでよかったことが、大学の授業では、史料を読み込み、その史料の情報を的確に把握し、さらにはその情報を疑い事実を追及するという、かなり地道で根気のいる作業となるからです。

新入生の方々にとっては、まずその違いを知ることから始まると思いますが、上のようなアプローチで作業に取り組んでいくことによって、高校の時に学んだ時とは違った面白さを発見できるのではないかと思います。

また、歴史学が卒業後、日常生活にどう活かされるのかということがよく言われますが、たしかに経済学や法律学に比べると、歴史学の実用性についてはっきりとした答えが出てこないかもしれません。卒業し、歴史研究とは離れた仕事をしている私が思うことは、日常生活や仕事に直接には活かされないかもしれないけれども、少なからず何かしらの形で自分の考えや行動の支えになっているということです。これは歴史学だけではなく、大学で学ぶ他の諸学問にも言えることではないでしょうか。

また、社会に出ていくと様々な背景を持つ人と関わりながら生活することになります。周囲との良い人間関係を結ぶには、自分や相手に対する理解が必要となってきますが、人間やその営みの記録である歴史学を学ぶことは、その手助けのひとつとなると思います。

自分の大学時代を振り返り改めて感じたことは、将来研究者を目指そう目指さないにかかわらず、指導教員の研究に対する姿勢や見方を受け入れ実践してみることが、いかに大事であったかということです。

在学中、ある講義で、「歴史は本から学ぶだけではなく、実際にその舞台を訪れ、肌で感じる必要がある」と言われました。私は聖書考古学についての文献を読み、それを卒業論文としましたが、この言葉に急き立てられ、4年生の夏にイスラエルの遺跡発掘作業に参加しました。発掘自体は私の扱った内容とは全く異なりましたが、作業以外の間で聖書に出てくる町や遺跡に訪れたことで、読んでいた本の内容がより理解ができたと感じましたし、この言葉の通りに実践したことで非常に良い経験ができたと思っています。

以上、歴史学を学ぶことについて、私の史学科で取り組んだことについて述べましたが、最後にお伝えしたいのは、勉学だけが学生生活ではないということです。学生時代の間、自分がやりたいと思うことは、金銭的な面が許せば、とりあえず行動に移してみてください。というのも、自分がやりたいことは時間がある学生のうちにしかできないことを、身をもって感じているからです。また、勉学、サークル、アルバイトなんでも良いですが、なにかひとつ打ち込めるものを探してください。学生時代に打ち込めたものが一つでもあれば、卒業後それが自信となるのではないかと思います。

皆様の大学生活が、有意義な時となることを心より願っています。

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我が師の恩

2007年度卒業生 平岡 静香(仙台白百合学園中学・高等学校教諭)

◆はじめに
私は、2004年春に上智大学文学部史学科に入学し、日本近現代史の長田ゼミに所属していました。卒業論文の題目は「在朝日本人と朝鮮人 -反日感情の形成- 」です。大学卒業後は、母校である仙台白百合学園中学・高等学校で教鞭を執っております。史学科の HP へ寄稿する機会をいただき、大学時代の手帳や写真を掘り返し、過ぎ去りし日を懐かしく思い出しながら、記憶の整理をいたしました。お世話になりました、長田彰文教授をはじめ、史学科の諸先生方への感謝を込めて、書き上げたいと思います。

◆大学時代(2004年4月~2008年3月)
私は、上智大学史学科創立60周年を記念して出版された『歴史家の工房』を拝読し、2004年の春に、大きな期待を胸に上智大学の門をくぐりました。1年生では基礎科目を学び、2年生からは「史学教養演習」(通称プレゼミ)が始まりました。入学前からの憧れであった長田先生のもとで、日本近現代史の一次史料講読の訓練を受けました。そして、3年生からは卒業論文の執筆に向けて準備を始めました。長田先生は、いつも親身になってご相談に乗ってくださり、卒論執筆に向けて懇切丁寧に導いてくださいました。

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霧島屋久国立公園 桜島(2006年9月撮影)

長田ゼミの魅力(1) 「ゼミ合宿」

夏休みに「ゼミ合宿」として、3年次には近代日本に大きな影響を及ぼした著名人を輩出した鹿児島へ、4年次には長田先生のご専門でもある韓国へでかけました。近現代史にまつわる場所を巡ることはもちろんですが、長田先生の人脈を通じて、近現代史の研究をされている、鹿児島大学や韓国の西江大学の教授・学生と交流できたことは、先生のお力がなければ実現できなかったことで、貴重な時間となりました。その時に出会った学生とは今も交流が続いています。

長田ゼミの魅力(2)「書を捨てて街に出よう」 (参照:長田ゼミ紹介2 教員 ver)大学界隈の日本近現代史関連の施設にでかけることもありました。書籍や史料の講読にとどまらず、調査にでかけることの大切さを教えていただきました。実際、長田先生ご自身が、研究のためにアメリカや韓国へお出かけになることが多く、歴史研究をする上で、見習いたいと強く思いました。そこで、私自身も、在学中は、韓国へ7回赴き、長田先生にご教示いただきながら、より理解を深めることに努めました。

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韓国 児童養護施設 木浦共生園(2006年9月撮影)

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韓国 安重根義士記念館(2006年9月撮影)

◆教員生活(2008年4月~現在)
早いもので、教職についてから7年の月日が流れました。職場では雑務に忙殺され、教材研究は帰宅後の勤務時間外ではありますが、大学で学んだことを活かせることは大きな喜びです。仕事に明け暮れる日々ですが、生徒の笑顔を見れば疲れは一瞬で吹き飛んでいきます。生徒の歴史観形成に影響を及ぼす立場として、大きな責任を感じながら教壇に立つ毎日です。 昨年度より、宮城県高等学校国際教育研究会の幹事となり、諸先生方に教わりながら、宮城県の高校生が、国際理解と国際協調の精神を養えるようお手伝いをさせていただいております。国際社会において、相互理解のためには、歴史への認識を深めることが大切です。私は歴史の教員として、生徒たちが、歴史の一つの事象をさまざまな視点から考察しようとする姿勢を養うことを目指しています。自分の枠から見えた世界を全てだと信じ込むことなく、広い視野をもった豊かな女性として社会のために働いてくれることを期待しています。

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インド ムンバイ(2010年8月撮影)

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インドネシア バンダ・アチェ 津波犠牲者共同墓地(2011年12月撮影)

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フィリピン 社会福祉開発省(DSWD)による台風支援(2013年11月撮影)

◆渇いていることを忘れないために
就職後は、大学時代とは打って変わって、目が回るような忙しさが続きます。思うように学ぶ機会を得られず、焦燥感にかられている私に対して、史学科の先輩が「渇いていることを忘れないように」と助言してくださいました。その言葉が時折私の脳裏をよぎります。そこで、長田先生の「書を捨てて街に出よう」精神に従い、これまでに、本を片手に、インドへひとり旅にでかけたり、JICA東北教師海外研修に参加してインドネシアのスマトラ島北部に位置するアチェを訪問したりと、新しいことに触れ、少しでも生徒に還元できるよう努めています。また、一昨年は、フィリピンへ1年間留学する機会をいただいたので、国際教育にも力を入れていきたいと思います。これからも学び続ける姿勢を忘れずに、私の永遠の師である長田先生に倣って、自分のもっているものを、惜しみなく生徒に分け与えられる教師でありたいです。

◆おわりに
今回、執筆を通して、上智大学文学部史学科で学んだことが、私の人生の大きな土台となっていることを強く感じました。四年間という限られた大学生活の中で、最も大切なのは「出会い」だと思います。自分の殻を破り、新たな世界へ飛び出していくことで、その先の人生に彩りを沿えてくれることでしょう。史学科の後輩の皆様が、上智大学で有意義な学生生活を送り、よりよい人生を築いていくことを願っています。お世話になりました先生方、お体を大切に、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

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駆け出しの研究者より

2007年度卒業生 松浦晶子(国立公文書館アジア歴史資料センター研究員)
日本近現代史の勉強のために訪れた、広島県呉市にて(2018年5月撮影)

日本近現代史の勉強のために訪れた、広島県呉市にて(2018年5月撮影)

私は2004年度に史学科に入学し、さらに史学専攻博士前期課程・後期課程に進学、2016年度に満期退学しました。アットホームな居心地の良さに、十二支が一周するまで居座ってしまいました。現在は、国立公文書館アジア歴史資料センターの研究員として勤務しています。

史学科を一般受験したときは、『燃えよ剣』など幕末物の小説に熱を上げていたので、選択科目は日本史でした。一方で、大学では新しいことを学びたいとも思っていました。入学後、1年次の必修授業であった日本史・東洋史・西洋史の各概説を受けてみて、何だか面白そうだと直感した東洋史に転向し、中国史がご専門の大澤正昭先生のゼミに入門しました。

世界史はほとんど履修していなかったので、初めはついていくのに必死でした。しかし2年次、3年次とゼミで勉強を続けるうちに、少しずつ知識も増え、次第にその奥の深さにはまっていきました。現在の研究テーマである東アジア音楽史と出会ったのもこの頃です。博士課程に進学すると、大澤先生からの猛特訓を受け、難解な漢文も分厚い辞書と格闘しながら何とか読めるようになり、学術論文を書き上げるまでに成長していました。

大澤院ゼミで訪れた中国杭州・霊隠寺の石仏群。共著の調査報告書も発表しました(2013年2月撮影)

大澤院ゼミで訪れた中国杭州・霊隠寺の石仏群。共著の調査報告書も発表しました(2013年2月撮影)

研究生活は充実していた一方、将来への不安が日増しに重くのしかかるようになりました。あれこれ悩んだ末に満期退学をして一般就職したのですが、その後アジア歴史資料センターの公募に思いがけず合格し、大澤先生の叱咤激励もあり、思い切って転職しました。

近年、歴史資料のデジタル化が急速に進められています。そのため、資料館に直接赴いて利用請求をしなくても、PCなどがあればいつでもどこでも資料を閲覧できるようになり、研究の利便性は飛躍的に向上しました。さらに、研究者だけでなく一般人や外国在住の方でも資料にアクセスしやすくなり、多様な歴史解釈を可能にする土台が築かれつつあります。

アジア歴史資料センターは、そのような取り組みの先駆けであり、国内最大規模を誇るデジタルアーカイブです。母体である国立公文書館をはじめ、防衛省防衛研究所や外務省外交史料館から提供を受けた歴史資料のデジタル画像を、インターネット上で無料公開しています。

私のメイン業務は、データベースの構築です。デジタル画像の受け入れやメタデータの作成、検索ツールの整備などを担当しています。歴史学だけでなく情報学の知識も要求され、膨大なデータと格闘する毎日で、疲れもたまりがちです。しかし、地道な作業が苦にならない性格なのと、普段自分の利用するデータベースがどのように作られていくかを直に知ることができるので、やりがいを持って取り組んでいます。

ただし、楽しいことばかりではなく課題もあります。博士課程でやり残してしまった学位論文の執筆です。仕事と論文の両立は大変で、平日の夜や休日を使って資料を集め論文を書いています。受験生の皆さんも勉強漬けで苦しい時期だとは思いますが、自分を信じて、お互いに頑張っていきましょう。なお、私は論文執筆のため定期的に史学科に行きます。来年あたり、皆さんにお会いできたらとても嬉しいです。

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人生、いつでも決断できます

2003年度学部卒業・2007年度博士課程前期修了 林実可子(看護師専門学校生徒)
Sicilia,PiazzaArmerinaにて

Sicilia,Piazza Armerinaにて

私が歴史に興味を持ったのは、子どもの頃にみた歴史の本や某TV局の大河ドラマがきっかけでした。大学では西洋古代史を専攻し、卒論では舗床モザイクというテーマを扱いました。舗床モザイクには、文書史料からだけでは分かりづらい、当時の日常生活や思想を想像させるものがたくさん描かれており、興味深いものです。

卒論作成時は実際の舗床モザイクを見たことはなく、テキストのみを頼りに書いていたところ、指導教員より「本物を見なくちゃ」とお言葉をいただきました。一度海外で生活をしてみたいという気持ちもあったため、学部卒業後にアルバイトで貯金をし、翌年イタリアのペルージャの語学学校を皮切りに9カ月間滞在しました。

イタリア滞在中は「今がチャンス」とできる限りの遺跡見学をしました。シチリア一周の際には、たまたま電車で乗り合わせた人が博物館で働いていた方で、無料で見学させてもらえたことがあったり、アクイレイアのお土産屋さんでは舗床モザイクの絵葉書をサービスしてもらったりとラッキーな出来事もありました。遺跡見学以外でも、電車ストライキに巻き込まれる等々イタリアならではのハプニングもありながら、充実した生活を送ることができました。帰国後はせっかく本物の舗床モザイクを見られたのだから、もう少し勉強してみようと思い、再び上智にお世話になりました。

大学院前期課程修了後は事務職として働いていましたが、家族の健康問題や30代に突入したことを契機に、医療関係の3年制の専門学校に入学し、資格をとるべく現在勉強しています。年齢も、歩んできた人生も異なる同級生や患者と接することで、ジェネレーションギャップを感じたり、当たり前だと思っていたことがそうではなかったりなど驚きもありましたが、この年齢になっても新しい学びができることはありがたいことだと感じています。

来年の就職先が今月末に確定する予定です。卒業後は直接的に歴史にかかわる機会はなくなっていますが、史学科で学んだ、複数の視点からそのデータが何を意味するのかを捉えて最適な考えを提示するということは、現在の生活にも役だっています。

受験生の皆さんは、就職など卒業後のことも含めて進学先を検討されていると思います。
色々と心配なこともあると思いますが、どんな場所でも意義ある学びは得られます。ご自分の興味ある分野で、有意義な大学生活が送れるよう応援しています。

Sicilia,PiazzaArmerinaにて

Sicilia,Piazza Armerinaにて

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大学生は特権階級!

2006年度卒業生 小倉 久(株式会社マガジンハウス・Hanako編集部)
出来上がった雑誌をチェック

出来上がった雑誌をチェック

在学生、ならびにこれから上智大学史学科を目指すみなさまへ
はじめまして。マガジンハウスという出版社で雑誌の編集者として働く小倉と申します。
06年卒の社会人8年目、30歳。もう立派なおじさん(体型)の僕ですが、皆さんと同じように上智大学で歴史を学んだ4年間がありました。

専攻は西洋近現代史、井上茂子先生のゼミに所属しドイツ史研究を志しました。卒論テーマは、「ドイツといえばビール!」という趣味と実益を兼ねた安易な発想からビール醸造業の歴史に決めたものの、ドイツ語というベルリンの壁よりもはるかに高く硬い壁を前にして挫折。結局、英語文献のみで卒論が書けそうな、「アメリカにおけるドイツ系移民とビール醸造業の歴史」に落ち着いたのでした。

就職活動では志望を出版社(特に雑誌を刊行しているところ)だけに絞り10社ほど受験。
面接試験時に、卒論テーマである「ビールの歴史」話で一番盛り上がった会社に就職することができました。それから今までずっと雑誌の編集をしています。どうして出版社だけに絞ったかといえば、史学科での勉強と経験を無駄にしたくなかったからです。すなわち、仮説を立て、史料(仕事では資料ですが)を集め検証し、証明するということ。それを仕事として生かすなら何がいいかと考えたとき、雑誌ジャーナリズムしかない!と思ったのでした。いま考えるとそんなことは全くなくて、それこそどんな会社でもどんな仕事でも、仮設→検証→証明というプロセスは当たり前のアプローチです。もしタイムトリップして当時の僕に会えるなら、もっと給料がよくて労働時間も短くて安定した業界を受けろ!と頬を引っ叩いて改心させてやりたい!です。

とはいえ、就職について後悔はしていません(もっとお金欲しいな、お休みも欲しいな、と毎日念仏のように唱えてはいますが)。雑誌編集という仕事はとても楽しく、やり甲斐のある仕事です。どんな仕事か簡単に説明しますと…僕は創刊26年になる女性誌「Hanako」編集部に所属していて、その男性版別冊「Hanako FOR MEN」を担当しています。
Hanako編集部は一人の編集者が一冊まるごと雑誌をつくる体制なので、年間4冊、三か月に一冊のペースで特集を担当します。特集は「カレー」だったり「お寿司」だったり「肉」だったりとその都度テーマが異なります。感覚としては3か月間でひとつ卒論を書いているような感じですね。テーマが決まったら情報収集(参考図書を読み漁り、フィールドワーク、聞き込み調査など)、一冊の構成を考え、取材撮影を行います。取材撮影が終わればあとはデザインを決めて、原稿を書いて、印刷出版、という流れです(実際はもっと作業ありますがちょっと省略)。どうです、とても史学科学生向きな仕事でしょ!

日々の業務をしていると、学生のときにもっともっとアカデミックな体験をしていればよかったと思うことが多々あります。史学科だけではなく他の学科の講義をたくさん受けておけばよかったとか、図書館にあふれる本を読み漁っておけばよかったとか。とにかく教養の重要性を痛感するのです。あとは旅。ゆっくり気ままに旅をする、それは大学生の最大かつ最高の特権だと思います。そう、大学生は特権階級なのです! 4年間でいかに自分の見聞を広めることができるか。それがその後の人生に大きく影響することは疑う余地がありません。そして史学は最強の教養なのです。上智大学史学科で大いに学んで、社会に貢献できる大人になりましょう。僕もまだまだ頑張ります。

こういう雑誌をつくってます

こういう雑誌をつくってます

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展覧会の図録づくり

2006年度卒業生 住谷美都子(株式会社美術出版社・編集制作)

オフの日も歴史探訪しています(秋田県・角館にて)

オフの日も歴史探訪しています(秋田県・角館にて)


私は2007年3月に上智大学文学部史学科を卒業し、今は出版社で編集者として働いています。卒業して数年は、書籍の仕事をしていましたが、転職してからはもっぱら、展覧会の図録(カタログ)をつくっています。

展覧会の図録というと、馴染みのある方と無い方に分かれてしまうかもしれません。美術館や博物館のミュージアム・ショップで買うことができる、展示作品の写真と解説が全部載っているあの本です。私は本づくりに興味があって編集者を志しましたが、もともと美術館や博物館が大好きで、大学でも美術史を専攻できる西洋中世史の児嶋由枝先生のゼミに所属していましたし、博物館の学芸員課程も履修していましたから、今の仕事はとても楽しく、自分でも天職じゃないかと思っています。

さて、展覧会というものは、主催する美術館や博物館の学芸員の方々や、新聞社やテレビ局の文化関連事業部の方々が、何年もかけて準備をし、段取りに段取りを重ねてようやく実現するものです。展覧会は、会期が終われば無くなってしまいますが、図録は残ります。記録として形に残るのは図録だけと言っても過言ではありません。

もちろん、展覧会の醍醐味は実物(本物)をその目で見ることにあります し、印刷で本物の色や質感を再現するには限界があります。それでも、展覧会の総合的な記録として、また、展覧会場での感動を追体験するツールとして、図録は最も有用で、大切なものだと考えています。私が所属している部署では、図録だけでなく、展覧会のポスターやチラシ、チケットや交通広告もつくっていますが、私にとってはやはり、図録づくりが一番特別で、やり甲斐のある仕事です。

多くの人たちが何年もかけて準備してきた企画を一冊の本の形にまとめるためには、構成案やデザイン・コンセプトから始まって、関係者で集まって何度も何度も話し合う必要があります。また、主催や関係者の方々だけでなく、一般の読者(=来場者)の方々にもご満足頂かなくてはいけませんし、その前にまずお買い上げ頂かなくてはなりません。そのために、付録の地図をつけたり、人物相関図を入れたり、カバーをリヴァーシブル仕様にしてみたりと、展覧会の趣旨に合わせていろいろなアイデアをご提案しています。

古今東西、さまざまなジャンルの展覧会の仕事に対応しなくてはいけないので、大学で、専攻の西洋史だけでなく、日本史や東洋史の講義も受けていて本当に良かったと思います。それは、授業で得た知識が役に立っているからという直接的な理由だけではなく、もっと広い意味で、どの時代のどの分野にも、興味関心を持って接することができるようになったからです。何にも知らないと、興味の沸きようがありません。大学で受けた数々の講義は、どの時代のどの分野にも、面白そうな研究テーマがごろごろしていて、それぞれに先人の研究の蓄積があり、今も議論され続けているということを、私に教えてくれました。このことを知っているのと知らないのとでは、今の仕事に対する姿勢が全く違っていただろうと思います。

担当した図録は宝物です

担当した図録は宝物です

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今という時間を最大限に楽しんで

2006年度卒業生 田中 優(金融機関勤務)
ゼミではとても充実した時間を過ごすことができました。左が私です (2005年:清里で撮影)

ゼミではとても充実した時間を過ごすことができました。左が私です
(2005年:清里で撮影)

在学生、または「史学科」に興味をもたれている皆さん、初めまして。
私は、大学時代は児嶋先生のゼミで中世西洋史を学び、卒論には同時代の「ファッションと色彩」をテーマに取り上げました。現在もファッションや色彩については大好きで、よく敏感に反応してしまいますが、自分の大好きな洋服や装飾品が中世からルネサンスのイタリアで、どのような意味をもち、どのように捉えられていたのか、当時の人々が色彩感覚がどういったものだったのかを研究していました。
その他にも、史学科では新入生のオリエンテーションのお手伝いをするヘルパーをやらせて頂いたり、バスケットのサークルに入っていたり、カフェやアパレルでアルバイトをしたりと、大学で過ごした時間はとても充実した毎日でした。

現在は、金融機関で営業を2、3年経験したのち、本部の部署で働いています。現在の仕事は「史学」と直接には関係ないかもしれません。実際、史学科卒業で金融機関は珍しい、ともいわれますが、私は特にそう思いません。しかし、どの業界、どんな仕事においても、史学科で学んだエッセンスは活かされていると思います。

児嶋先生のゼミでは学年を超えて、ゼミ生全員での文献講読、自身の研究(卒論)の進捗を報告する泊まりでの「ゼミ合宿」等、非常に密度の濃い時間を楽しく過ごしました。ゼミの皆さんの解釈を聞くと、一つの物事にも様々な捉え方あり、自身に不足している観点によく気づかされたものです。史学科では、自身でテーマを設定し個人で研究を掘り下げていきますが、ゼミでの活動は、自分で設定した研究課題について、情報収集の仕方、物事の解釈、文章の書き方など、先生方、先輩や後輩等、多くの方から様々なことを密接に学べる貴重な機会でした。
仕事において、「どのような課題があり、どのようなプロセスを経て、どのように結論を出すのか」といったことはしばしば求められます。史学科で学んだことは現在の職場でのプロジェクトの進め方にも共通する点が多くあり、今の私の財産として生きています。

今史学科で学んでいる皆さん、これから史学科を目指す皆さんに私が言えることは、「自身のやりたいことを何でもチャレンジしてください」ということです。「大学」は人生の中でも最も自由な時間です。その中の一つに「史学科」という選択があるならば、その時間を思う存分活用してください。けして自身のマイナスにはなりません。その貴重な時間で経験したことは全て後々の糧となります。
私も「史学科卒業生」として、そして(ちょっとした)人生の先輩として応援しています。

土日を利用して上海旅行 現在は休みを利用して色々な場所へ出かけています (2013年 上海の豫園にて)

土日を利用して上海旅行 現在は休みを利用して色々な場所へ出かけています
(2013年 上海の豫園にて)

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空港インフォメーションの仕事

2005年度卒業生 中村陽葉(成田国際空港振興協会)
職場にて

職場にて

私は現在、成田国際空港案内所に勤務しています。

成田空港の案内所では、フライトインフォメーション、館内施設や地上交通のご案内をはじめ、館内放送、落とし物の管理、お手伝いが必要な方への介助業務など、幅広い業務を行っています。案内所にいらっしゃるお客様で一番多いのは日本の方ですが、半数近くは外国の方で、英語をはじめとする外国語での対応も多く行います。現場によっては、一時間の対応中、まったく日本語を使わないということもあり、日本にいながらにして異文化交流が出来る、なかなかおもしろい職場です。また、困っている方を、自分の知識を駆使して助けて差し上げることが出来る、やりがいに満ちた職種でもあります。

空港案内所で受ける問い合わせの内容は多岐に渡っています。

国際線から国際線へ乗り継ぐお客様からの「今日の円・ドル為替レートはいくら?」といった質問、在留外国人の方からの再入国に関する問い合わせもあれば、アジアからのお客様が好きな北海道銘菓の取扱店舗に関する問い合わせ、「このトイレにウォシュレットはあるか?」といった細かな施設案内、外国人観光客からの「○○というアニメに出てくる神社に行きたいんだけど、どこにあるの?」といったちょっと変わった案内まで、実に様々です。チェックインの締め切りに間に合わず、せっかくの旅行をふいにしてしまう気の毒な場面に遭遇することもあれば、日本に留学している息子さんを訪ねて来日したご両親と、空港まで出迎えに来たその息子さんとの感動の再会シーンに立ち会うこともあります。

アサインされるポジションはいくつかあり、その立場によって業務の内容が変わります。
案内所に入りお客様の対応をする「案内カウンター業務」、館内を回って案内するほか、介助業務やときに急患の対応も行う「巡回案内業務」、そして「責任者業務」では案内カウンター要員・巡回案内要員の統括として現場への指示を出すほか、苦情処理や日報作成などの業務を行っています。

勤務は 4勤 2休(4日働いて 2日休む)というパターンで、早番・遅番・日勤・夜勤という勤務シフトがあります。早番の日は始発電車で出勤し、遅番は終電に近い電車で帰宅、夜勤はオフィスに一人で勤務するため、状況によっては仮眠が取れないこともあります。
食事の時間も勤務によってばらばらです。接客業ですので、時にはお客様から心ない言われ様をすることもあります。どんな仕事もきっとそうだと思いますが、体力的にも精神的にも、タフさの求められる職業です。

子供の頃は特別な場所だった空港が、いまや毎日通う職場になっています。毎日いると感動も薄れるのでは?と思っていましたが、不思議なことに毎日いても飽きることなく、いつもわくわくした気持ちで仕事ができています。

皆さんの前には、限りない可能性が広がっていることと思います。ぜひ、大学の 4年間(中には 5年、6年ということもあるかもしれません!)を通じていろいろな経験をして、自分が何に関心があるのか、探ってみて下さい。

職場にて

職場にて

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邦楽演奏家としての歩み

2004年度卒業生 沖政一志(邦楽演奏家・生田流箏曲)
ライブハウスでの演奏中のワンショット

ライブハウスでの演奏中のワンショット

自身の近況報告としましては、大学を卒業後に邦楽の演奏家になるべく各種コンクールなどに挑戦し、洗足学園音楽大学現代邦楽研究所主催の東京邦楽コンクールの入賞、平成21年度宮城道雄記念コンクールの作曲部門入賞を果たしキャリアをスタートさせました。各種イベント等への出演、レコーディング、箏教室などをしておりまて、また、都立墨田川高校邦楽部のコーチもしております。自分の年齢の約半分の歳の子達に技術を教えるという大変ではありますが面白いですね。

自分が携わっているのは箏、三味線を扱う生田流箏曲、地歌というジャンルですが、簡単に説明すると、江戸時代に主に上方で発達した室内楽と思っていただけたらと思います。
補足として生田流から派生し、江戸(東京)に根付いたものが山田流ということになります。
現在の日本では明治維新以降の教育において西洋の音楽理論の上で発展したものを取り入れたため、音楽といえばドレミ…という音階名を用いて五線譜で考えるものが圧倒的主流になっております。ところが、自分達の音楽はそれらの西洋的な音楽概念が入る前からあったものですから、ズレがあるわけですね。また、面白いことに共通する部分もあります。日本語と英語にズレがあるのと同様ですね。自身が西洋史を専攻しながらも和楽器を扱うというのは、何か矛盾しているように思われるかもしれませんが、西洋音楽が生まれた文化的、歴史的な背景を知ることが日本の音楽との差異を感じる一助になると思っております。

和楽器の演奏会は年配者が多いイメージがあると思いますが、概ねその通りです。人は知らないものについては中々見向きをしないもので、ある程度知っているからこそ興味を持つ。教育の中で教わらないということはその点で不利な立場にあり、集客には苦労がつきまとうものです。

そこで、自身の活動として「ファミ箏」という各種TVゲーム音楽を和楽器で演奏する集団を立ち上げました。単純に自分がTVゲーム好きということもありますが、知っている曲が演奏されるというのは興味をひきます。また、TVゲームに限らずエンターテイメントには歴史的、文化的な要素があるもので、それらを感じさせるものの作成にも取り組んでおります。具体例を示しますと、「信長の野望」の楽曲を尺八の三重奏で演奏しました。織田信長は戦国時代の方ですので、ゲームの舞台に合わせ戦国時代に日本に存在していた楽器でリアレンジする、ということでね。

ファミ箏は年末12月28日に第三回演奏会を開催予定でおります。ご興味を持たれた方はぜひご来場ください、と、宣伝をさせていただき、近況報告の筆を置きたいと思います。

ファミ箏第二回演奏会の様子

ファミ箏第二回演奏会の様子

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