VOL.14
2010年卒業
日本放送協会
青木 緑さん
サハリンでの取材中の一コマ

青木緑 日本放送協会勤務 

 “近くて遠い国”を、“遠くて近い国”にしたい-そんな思いを抱きロシア語学科に入学してから7年後、夢はロシア極東のサハリンで実現することとなった。記者として、サハリン州の州都ユジノサハリンスクに、2012年秋から半年間、駐在する機会に恵まれたのだ。北海道から北に40キロあまり、まさに“日本に最も近いロシア”である。

 駐在期間のほとんどは、あたり一面が雪に閉ざされる冬。そんな中、寒さを楽しむサハリンの人たちのたくましさに出会い、それを日本の人たちに伝える役割を少しでも果たしたいと、取材に駆け回った。

サハリンでの取材中の一コマ

サハリンでの取材中の一コマ

 寒さが最も厳しい1月のある休日、公園を散歩していると、池に張った厚さ30センチの氷にシャベルで黙々と穴をあける人々に遭遇した。四角い穴があくと、なんと彼らは水着姿になり、池に飛び込み始めた。冬の健康維持法として昔から伝わる寒中水泳の伝統だという。“健康維持”とはいえ、最高気温が氷点下10度を下回る極寒のさなかである。しかし彼らがあまりにも楽しそうなので、私も思い切って水に入ってみた。体じゅうが痺れるような感覚がなぜか病みつきになり、結局、取材も含めて4回も入ることに。極寒のサハリンでロシア人と一緒に水着姿で池に入る私のようすは、全国放送で世間に晒されることとなった。

 日本では、“ロシア=遠い国”というイメージが定着しているように思う。だから、サハリンへは札幌から飛行機で1時間の距離だと知ると、多くの人が驚く。そしてこのサハリンは、地理的にだけでなく、歴史的にも、日本と縁の深い場所だ。

 終戦まで、日本はサハリンの南半分を樺太として統治していた。当時の銀行の建物や、漢字が彫られた石碑、神社の鳥居など、サハリン南部には樺太時代の面影を残すものが点在し、街を歩いていると、ふと、樺太の街にタイムスリップしたような気持ちになる。

 そして、戦後の混乱で日本に引き揚げができずにサハリンに残った残留日本人80人あまりが、今も暮らしている。取材した80歳の女性は、朝鮮系の男性と結婚し、家庭では韓国語、街ではロシア語を使って暮らしてきた。しかしインタビューにはしっかりと日本語でこたえてくれた。樺太とサハリンで人生を歩んできた彼女の、日本人としての誇りを感じた。

 エネルギー産業などで深まる日ロの経済関係、そして日ロ間の最大の懸案である北方領土問題。さまざまな分野においてサハリンの存在は、日本にとって重要な意味を持つ。学生時代はモスクワ方面にばかり目がいき、こんなに近いロシアを知らなかった私にとって、サハリンでの半年間は、日本の隣国としてのロシアを意識する機会となった。ロシア語学科でキリル文字と毎日格闘して身につけたロシア語を、取材活動で十分に生かすことができたサハリンでの日々は、記者人生、そして私自身の人生の、貴重な財産だ。将来またロシアに戻りたいという夢を胸に、これからも私の心は常に、“隣国ロシア”に向いている。