VOL.23
1966年卒業
インタースポーツ株式会社 代表
糀 正勝さん

憧れのドイツへ、そしてサッカーとの出会い

<青山先輩の想い出>
 人はいつも、いくつかの出会いとご縁に支えられています。神宮球場の近くにある小さな事務所に、一枚の写真が飾ってあります。それは1965年の春のリーグ戦で優勝して、学習院との入替戦に勝って2部昇格を果たした記念写真です。在学中3度の入替戦を経験しましたが、純粋なチーム戦力だけではなかなか昇格はできません。最後に背中を押してくれる勝利の女神が必要です。その時の入替戦では、大泉学長の英断もあり、全学の学生や教職員が神宮球場に応援に駆け付けてくれました。そのお蔭でやっと2部昇格を果たし、試合後にみんなで神宮球場から上智大学まで歩いてパレードをしました。記念写真にある大泉学長と青山先輩の笑顔は今でも忘れられません。青山先輩には、野球部に入部以来、公私共にお世話になりました。息子さんがドイツ語学科の同級生であったこともあり、巣鴨のご自宅に何度もお伺いして夕食をご馳走になったりしました。それだけにこの昇格で御恩の一部をお返しできたと喜んでおりました。

 1966年に上智大学を卒業して、高校野球の監督になりたいと思い、九州大学の大学院に進学しました。当時の大学は、ベトナム反戦運動や大学闘争の華やかな時代でした。博多の町が住みやすいことあり6年間も九大に在籍しましたが、結局、本命としていた高校の教員試験に落ちてしまいました。そのとき、野球部の後輩で、リーグ優勝と2部昇格に大きく貢献した田中憲一投手のお父さんに大変お世話になりました。博多で下宿先をお世話していただいただけではなく、就職でもお世話になりました。当時、田中さんは筑後市の助役を務められていました。その関係で、筑後市に工場進出したロッテに現地枠で推薦していただきました。九州工場に2年、浦和工場に2年、その後本社の商品企画部、さらにロッテオリオンズ球団に勤務しました。ロッテの商品企画部時代に開発したヒット商品が「雪見だいふく」です。

 青山先輩と再会を果たしたのは1989年、東京六大学野球の早慶戦が行われた神宮球場でした。私は当時ロッテオリオンズの球団総務をしておりました。ロッテのドラフト一位指名予定選手は、早稲田大学のエースである小宮山悟投手です。対戦相手の慶応大学には、上智野球部の小桧山先輩の息子さんである小桧山雅仁投手がいました。多分そういうご縁で、青山先輩も神宮球場に駆け付けられたのだろうと思います。まずは早慶戦の両エースの話で盛り上がりました。試合途中で青山先輩から、ドイツのブレーメンにある日本人学校に新しくカレッジを創設する計画があることを伺いました。ブレーメン国際日本学園は、上智のOBが経営している学校法人なので、上智のドイツ文学の教授が学長に就任するだろうという話でした。私にそのかばん持ちをしないかと、冗談めかして勧めてくれました。

 1989年はちょうどベルリンの壁が崩壊して、世界の歴史が大きく変換しようとしていました。ドイツ語を専攻していた私は、いつかドイツで生活したいという夢があり、もし出かけるとしたら、東西ドイツが統一する今しかないような気がしました。それから1年かけて、ブレーメン国際日本学園の採用面接を受け、正式契約となり、ロッテオリオンズを円満退社しました。日本人学校の寮長兼社会科の教員として、1991年3月にドイツへ渡りました。

 ブレーメンの学校は、中高一貫の全寮制の学園です。生徒数は男女合わせて150人程度でした。もちろんドイツに行ったら子供たちに野球を教えよう準備していきました。ところがドイツには野球がありません。アメリカ軍が駐在する地域には、野球場らしきグラウンドはありましたが、緑の芝生はすべてサッカーのために存在します。つまり子供たちはみんなサッカー少年です。日本人学校のあるブレーメンは、ブンデスリーグの強豪「ヴェルダー・ブレーメン」のホームタウンです。学校のサッカー部の子供たちは、クラブの下部組織でサッカー指導を受けています。私もクラブの好意で毎試合観戦できるIDカードを貸与されました。最初の試合は、ハノーバーで行われた国際試合「ドイツ対ベルギー」の試合でした。野球が一番と思っていた野球少年だった私には衝撃的でした。サッカーは世界を舞台に戦っているのだということがわかりました。ブレーメンの練習場に行くと、サポーターのドイツ人が「オクは元気かい」と声をかけてくれます。昔日本人最初のプロ選手である奥寺選手がブレーメンで活躍したことを今でも懐かしんでくれます。野球少年はだんだんとサッカー少年に変身していきました。

 <柴田敬三さんの想い出>
 1992年には、日本でもプロサッカー「Jリーグ」が始まるというニュースが伝わってきました。そこで2年の契約期間が終了した1993年の3月に日本に帰国することにしました。Jリ-グが開幕するのは5月です。帰国はしましたが、新しい仕事の目途は全く立っていませんでした。その時声をかけてくれたのが、上智野球部の2年後輩である柴田敬三さんです。「ほんの木」という小さな出版社を経営していた柴田さんは、私の母校である立川高校の隣町にある桐朋高校の出身です。ポジションは二塁手で、中日の高木守道選手のような堅実な守備をします。もちろん学習院との入替戦の記念写真にも一緒に写っています。しかし学部も違い、学年も2年違いますので、大学時代はそれほど親しくしたことはありませんでした。唯一の話題は、どちらの高校が先に甲子園に出場するかということでした。その程度の付き合いであったにも関わらず、就職の声をかけてくれました。出版に対する知識を経験もない私にとっては、たいへんありがたいことでした。最後は取締役にも任命してくれました。

 ほんの木は環境、福祉、教育を中心にした様々な市民運動を支援する志のある出版社です。そのため市民運動に関する多くの本を出版しています。柴田さんが唯一書いた本に「売れない本にもドラマがある」という近著があります。その中で私の書いた「Jリーグのスポーツ革命」という一冊が紹介されています。Jリーグの理念の原点にあるドイツサッカーの「地域に根ざした総合型スポーツクラブ」の現状をまとめたものです。この手の本はなかなか売れませんが、柴田さんの言葉どおり、たくさんのドラマがありました。ちょうど2002年ワールドカップが開催されることあり、多くの自治体から講演依頼がありました。各地の自治体はワールドカップを起爆剤として、新しいスタジアムを建設し、その後にJリーグの理念であるドイツの総合型スポーツクラブを創設したいと考えていたからです。

 ドラマの最後に、仙台にある東北電力サッカー部を母体にしたブランメル仙台(現在のベガルタ仙台)からGMのオファーが来ました。仙台では1995年から1997年まで、ドイツ代表のリトバルスキー選手やオルデネヴィッツ選手を中心にJリーグ昇格を目指しました。結果的には昇格が実現せず、責任を取る形で解任され東京に戻ってきました。

 FIFAは1995年にプロサッカー選手の代理人制度を発足させました。日本では1997年に最初の試験が行われ、失業中の私も受験しました。その結果、日本人第1号として認定され、こうして現在もスポーツ選手の代理人として活動を続けております。

「売れない本にもドラマがある」という柴田さんの言葉どおりの人生です。

その柴田さんは、2015年4月3日に古希の誕生日を目前にして逝去されました。

 青山先輩、田中助役さん、柴田さん、私の人生はこうした方々との出会いとご縁で支えられてきました。

 

スクリーンショット 2017-08-09 12.37.53