教員BLOG

  • 9.11の記憶

    2012/11/25
    9.11の記憶  みなさん、こんにちは。今回teacher_blog担当の出口真紀子です。みなさんは、2001年9月11日には何をしていたか覚えていますか?まだ幼かったでしょうから特に記憶がないかもしれません。当時、わたしは大学院生で、アメリカのボストンという街に住んでいました。その日は、とても緊張していました。なぜなら、大学で初めて自分の授業を持たせてもらったばかりで、その日がまだ二回目の授業の日。先生としての経験が浅いわたしは、どのように授業を進めていいのかがわからず、朝から固まっていました。  午前9時半ぐらいでしょうか。まだ自宅にいたわたしに、東京で朝日新聞記者をしている友人から突然国際電話がかかってきました。「今すぐテレビをつけて!」友人は切迫した様子で叫んでいます。私は日本に大地震でも起きたのかと、慌ててテレビをつけると、ちょうどニューヨークの世界貿易センタービルに、航空機が突っ込む映像が目に飛び込んできたのです。後でわかったのですが、その航空機は、世界貿易センタービルに突っ込んだ二機目だったのです。  何が起こったのかすぐには理解できず、テレビの報道を追ってしばらくすると、まさにニューヨークの象徴である世界貿易センタービルの二棟が跡形もなく崩れ落ちてしまったのです。とても現実とは思えぬ展開にただ呆然としていました。また世界貿易センタービルに突入した航空機は二機ともボストン発(ロサンジェルス行き)の便だということがわかると、「次の標的はボストンではないか」とボストン住民たちもかなり動揺していました(結果的に無事でした)。こうした事件の一連が「アメリカ同時多発テロ事件9.11」と呼ばれるものだったのです。犠牲者はおよそ2,900人でした。  このように、9.11はわたしが初めて教えた学期の始まりと重なったことからも、深く記憶に刻まれています。また、この事件はアメリカという国自身のアイデンティティを大きく揺さぶりました。多くのアメリカ人は「Why do they hate us so much?」と自問するようになり、そして国自体は政治的にも社会的にもどんどんおかしな方向に進んでいくのです。次回はテロ事件直後のアメリカ社会におけるアイデンティティの揺らぎとその教訓について書こうと思います。(出口真紀子)<続きを読む>
  • 日本のなかのリトル・ブラジル

    2012/11/15
    みなさん、こんにちは。今回のteacher_blog担当の飯島真里子です。私の「太平洋日系移民史」の講義では、戦前、海外に渡った日本人移民の歴史と日系人の文化について学びます。「日系人ってどんな人たちなんだろう?どんな文化を持っているんだろう?」と疑問を持つ学生も多いので、一年に一回、日本のなかの日系コミュニティ見学にいきます。下の写真を見てください。みなさんは、どこだと思われますか? (飯島撮影) これは、群馬県の大泉町で撮影されたブラジルスーパーの写真です。大泉町は、全人口の15%を外国籍者が占め、その大部分がブラジルからやってきた日系人です。大泉には、パソソニック、富士重工、味の素などの大企業の工場があり、日系人はそのような工場や近隣の町(館林や太田など)のお弁当屋さんなどで働いています。日系人のほとんどは、1990年の入管法改正を機に日本にやってきて、リーマンショック、東北大震災を経験しながらも、日本で長期間住むことを決めた人々です。 日本にやってくる日系人は、日本人移民の子ども、孫の世代で、必ずしも日本語が流暢とはいえません。また、「血統的」に日本人であっても、ブラジル生まれ・育ちであるため、日本で住み始めた時のカルチャーショックは大きいのです。さらに、工場での重労働、日本人社会からの冷たい目、連れてきた子どもたちの教育など、日本で生活してみると多くの問題が発生します。そのような問題を解決する手助けをしているのが、今回学生と訪ねた際にインタビューさせて頂いた大泉日伯センターの創立者高野さんご夫妻です。高野さんご夫妻も、戦後ブラジルにわたり、1980年末に日本に戻ってきた元ブラジル移民です。1990年代、増加する日系人問題に心を痛め、日系ブラジル人子弟のための教育機関「日伯学園」(現在生徒数120名)も設立し、現在、センターは大泉ブラジルコミュニティと地元社会を結ぶ「架け橋」的存在となっています。 (大泉日伯ブラジルセンター、飯島撮影) 様々な問題を抱えている一方で、日系ブラジル人の日常生活の支えとなっているのが、ブラジルの商品を売るお店です。西小泉駅から5分ほど歩くと、ブラジルの食材や服飾品を売るお店が7-8軒ほど連なっています。私たちはいくつかのお店に入り、店員の方とお話をしたり、ポンデケージョ(ブラジル風チーズパン)を味見させてもらったりしました。ここでは、私たち日本人が「マイノリティ(少数派)」となり、日系ブラジル人が「マジョリティ(多数派)」となります。しかし、日系ブラジル人の人々は、私たち(マイノリティ)を温かく迎え入れ、積極的に話しかけてくれます。逆に、日本社会でマジョリティである日本人は、マイノリティの人々を同じように迎え入れているのだろうか、というような疑問がふと頭をよぎります。 今回の大泉の滞在時間は5時間ほどで、コミュニティを理解するには不十分です。しかし、この少しの滞在だけでも、五感を通じて、色々な情報を得ることができます。また、「マジョリティ」から「マイノリティ」への立場の転換は、私たちが日頃見過ごしてしまう社会的な問題を気づかせてくれますし、心がかよったコミュニケーションの大切さを教えてくれます。東京から約2時間半-是非リトルブラジルに足を運んで、日本のなかの移民コミュニティを体験してみてください。(飯島真里子)<続きを読む>
  • Filming the Tempest

    2012/11/09
    At the moment I’m pretty busy preparing for the release of my new film, Sado Tempest which will be shown in Eurospace in Shibuya from February the 16th of next year. Sado Tempest played in the Raindance Film Festival in London in October this year. There it was described as “gloriously demented.” I hope this is a good thing. You can see an interview with me at the following link, or if you google Sado Tempest, Raindance Film Festival. Sado Tempest is a rock musical version of Shakespeare’s last play, The Tempest (Arashi in Japanese). It might sound difficult, but actually the film is pretty easy to understand and I <続きを読む>
  • 教員のBLOG

    2012/10/31
    英語学科にはとにかく女子学生が多い。第一回目となるteacher_blogはできれば女性を(もちろん男性も)元気にするお話をしたいと考えました。古居みずえ監督のドキュメンタリー映画『ガーダ―パレスチナの詩』(2007)は逞しい女性たちの物語。生きていく勇気がもらえます。 このドキュメンタリー監督の古居みずえ氏は、37歳の時、原因不明の関節リウマチに襲われ、1ヶ月後には歩行器なしで動けなくなりました。「もうだめだ」、と諦めかけた時、投薬した薬が奇跡的に効いたのだそうです。「一度きりの人生。何かを表現したい。」その時、古居氏は普通のOL生活から女性ジャーナリストとしての再出発を決意します。彼女は心機一転パレスチナの地へ。ハンユニス難民キャンプでガーダという若い女性と出会いますが、彼女はパレスチナの紛争に巻き込まれながらも、力強く生きる道を模索している女性。 古居監督は「パレスチナの人たちの素顔を伝えたい」という思いで、長年にわたり、彼らの生活、戦場、信念を貫く姿をカメラで追い続けました。1988年、イスラエルの占領に反対するパレスチナ人の抵抗運動(インティファーダ)が起こっていたころに、ガーダとその家族の記録を撮り始めた彼女は、2004年までそれを継続しました。その間に、ガーダは結婚し、ガザ地区に引っ越します。長女ガイダに続いて、長男ターレックを出産し、母親となるのです。しかし、2000年には第二次抵抗運動がおこり、わずか13歳であった甥カラムがその犠牲となります。武器のない市民も石を投げることで抵抗に参加していたので、「石の闘い」とも言われていて、カラムが銃で撃たれたのはその最中でした。 ガーダはこの出来事をきっかけにパレスチナ人のアイデンティティや歴史を守っていく必要性を強く感じ、1948年の戦争を生きた女性たちをインタビューし、本に書くことにします。古居氏はガーダのその活動の一部始終をカメラで追います。ガーダはもともと向学心があり、結婚しても大学に通いながらパレスチナの歴史や政治情勢について研究すること続けてきました。彼女が出会った女性たちの声を通して、パレスチナが他国に次々と占領され、土地を略奪されてきた民だということが伝えられます。  80歳にもなるガーダの祖母ハディージャは、その昔、故郷の地ベイトダラスの土地で野菜や果物を作り幸せに暮らしていましたが、戦争がはじまり、そのすべてを置いて逃げだします。ガーダが初めて農民ウンム・バシーム(67歳)から話を聞いたのは2001年ですが、そのころはまだ自給自足生活が送れていました。オレンジの木や花が咲き乱れ、昔の生活様式をそのまま残していました。夫がウンム・バシームへの愛を歌で表現するのが印象的です。 「日が沈み、月がでて、 ずっと口付けしていても思いはつきない たとえなにが起ころうとも あなたから離れたくない ウンム・バシーム 君はとても大切な人 死ぬまでずっとあなたを愛する 私の愛するあなた」 しかし2002年には、イスラエル軍によって土地も畑も奪われてしまい、ウンム・バシームの生活は大きく変わります。 ハリーマの場合は、2台のブルドーザーに家を壊されてしまいます。彼女はこのような占領が自分たち苦しめ、アラブを苦しめるのだ、と訴えます。「最初の占領はトルコ、次はイギリス。いろんな国が来たけど今のイスラエルほどではない」という彼女の表情は悔しそう。近年になってもイスラエル軍はガザ地区南部にある入植地に隣接したパレスチナ人の家を破壊することがあります。これによって多くのアラブ人たちがテント暮らしを強いられました。  2001年の9.11以降、アフガニスタン戦争、イラク戦争などに対して、アメリカがアンチ・テロリズムをスローガンに掲げる時代に突入してから、パレスチナの抵抗運動が「テロ」という範疇に入れられ、日本のマスコミによって伝えられました。この『ガーダ』というドキュメンタリー映画を見た後では、日本のマスコミから流れてくるパレスチナ像はあまりに偏っていると感じます。産み、育む女性たちの力強い生き方がテーマとなっているこの映画は、日本にいる私たちにもいろいろと考えさせてくれます。(小川公代)<続きを読む>